原田会長に聞く㊦2024年4月23日

50年前、南米のペルーを訪れた池田先生は、未来部をはじめ、2000人のメンバーとの記念撮影に臨んだ。「皆さんは私にとって大切な『アミーゴ(友)』です」。昼下がりの照りつける日差しの中、汗だくになりながら激励を重ねた先生は、「大切な生涯の記念となる写真だ」と背広を脱がず、一瞬の出会いに、一枚の写真に真心を込めた(1974年3月)

50年前、南米のペルーを訪れた池田先生は、未来部をはじめ、2000人のメンバーとの記念撮影に臨んだ。「皆さんは私にとって大切な『アミーゴ(友)』です」。昼下がりの照りつける日差しの中、汗だくになりながら激励を重ねた先生は、「大切な生涯の記念となる写真だ」と背広を脱がず、一瞬の出会いに、一枚の写真に真心を込めた(1974年3月)

しゃくしんみょう」の大闘争こそ 創価の青年が受けたましい

 50年前(1974年)の池田大作先生の行動に、現代の課題解決のほうを学ぶ連載「1974―2024 人類の宿しゅくめいてんかんへの挑戦」。
  
 19日付に続き、原田会長へのインタビューをけいさいする。

 ――1974年から75年1月のSGI(創価学会インタナショナル)結成までの1年間において、池田先生の人間外交の中で、いんしょう深く残っている場面を教えてください。
  
 先生がもっとも心をいためておられたのは、中国とソ連の対立です。
 “なんとしても、中ソのふんそう解決の手がかりをさぐりたい”との思いをむねに、両国を初訪問されます。
  
 74年5月からの初訪中のおり、中学校の生徒たちが“地下ぼうくうごう”づくりにはげんでいる様子を目にしました。
 戦争への不安が子どもたちにまでかげを落としている様子に、先生は大変、心を痛めておられました。 
  
 その後、先生は9月にソ連を初訪問し、コスイギン首相と会談します。
 「中国はソ連のかたを見ています。そっちょくにおうかがいしますが、ソ連は中国をめますか」との先生の問いかけに、首相は「いいえ、ソ連は中国をこうげきするつもりはありません」と。
  
 先生が「それをそのまま、中国のしゅのうに伝えてもいいですか」とたずねると、「伝えてくださってけっこうです」とのやりとりがあったことは、よく知られるようになった事実です。

周総理との会見 重要な証言

 先生は、12月の第2次訪中のおり、コスイギン首相の言葉を、中日友好協会のりょうしょう会長を通して、とうしょうへい副総理ら中国首脳に伝えています。
  
 この先生の平和外交が果たした役割について、南開大学しゅうおんらい研究センターのこうはんほう所長(当時)は、2004年に創価大学で講演された折、こう語られています。
  
 「当時、国内のげきどうの政治状況の中、周総理は『四つの現代化』に取り組んでいた。この計画の実現には正確な国際じょうせいはんだんけつだった。
 その時、(池田)名誉会長を通じてソ連のたいを知り、周総理は『中ソ開戦はありえない』との確信を深め、国家のさいけん計画をだいたんに実行することができたのだ。
 このような名誉会長の中日友好へのこうけんを周総理が最高レベルであったとにんしきしていたため、あのようなとくしゅな状況でも名誉会長と会見したのだと考える」と。

2004年12月、中国・南開大学周恩来研究センターの孔繁豊所長(当時)は、東京・八王子市の創価大学で、「周恩来総理と池田大作会長の歴史的会見」と題し、特別講演を行った

2004年12月、中国・南開大学周恩来研究センターの孔繁豊所長(当時)は、東京・八王子市の創価大学で、「周恩来総理と池田大作会長の歴史的会見」と題し、特別講演を行った

 実際に鄧小平氏のねんを見てみると、先生と会見した直後に周総理のいに行っており、1975年1月の全国人民代表大会で周総理が「四つの現代化」をさらにすいしんすると発言している。
 その流れは、後の「かいかく・開放」せんけつじつします。
 そういう意味において、こう所長の証言はきわめて重要な意味をもつと思います。
  
 75年1月の広布旅では、おんだんなロサンゼルスから出発して、げんかんのニューヨークに入り、ワシントンでは雪の中でキッシンジャー国務長官と会い、その後、シカゴなどをてハワイ、グアムへとうつった際には、冬から真夏に転じたかと思うほどかんだんはげしい移動でした。
  
 先生のずいこうスタッフたちが、体調をくずす中で、先生はげんぜんと、最後までがんけんってくださった。
 それはまさに、しゃくしんみょうふんじんのお姿でした。
  
 グアムでのSGI結成式で、先生は各国の代表に語られました。「皆さん方は、どうか、自分自身が花をかせようという気持ちでなくして、全世界に妙法という平和のたねいて、そのとうとい一生を終わってください」。この言葉は、まさに先生が、自らの行動をもって示されたしんほうの大闘争であり、私たち弟子がじっせんをもって受けたましいではないかと思うのです。

東洋に 世界に 妙法の

 ――激動の時代にあって、先生は小説『人間革命』のしゅだいにある「一人の人間におけるだいな人間革命は、やがて一国の宿命の転換てんかんをも成しげ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にする」をみずから証明するかのごとく、世界のリーダーたちに対し、たくえつした人間外交をてんかいされました。
  
 師から弟子が受け継ぐべき、第一のようていは「行動」です。
 じんじんの哲学も、こうまいこころざしも、それを表す「行動」がなければ、社会に価値を生むことはできません。
  
 かつて、恩師・戸田じょうせい先生は北海道・あつむらで、夕日にまる海を見つめながら、池田先生に語られています。
 「世界は広い。そこにはのうにあえぐ民衆がいる。いまだせんおびえる子どもたちもいる。東洋に、そして、世界に、妙法のをともしていくんだ。この私にわって」と。
  
 遠くはなれた異国の地で、戦火におびえる子どもたち、苦悩にあえぐ人々の心を「わが心」とし、平和のためにできることを考え、一歩み出す。
 気候危機や環境かいから目をそむけることなく、「わがこと」としてとらえ、地球の未来を守るになとなっていく。
  
 その責任感と行動の中から、明日を開く「」や「連帯」が生まれていくのです。

「現代のまんようしゅう」と評価

 恩師へのちかいを胸に、世界をめぐる池田先生の「平和の精神」におうするように、日本の青年部がかくへいはいぜつと戦争ぼくめつへの署名しょめい運動を展開し、1000万人以上の署名を集めました。
  
 先生は弟子の自発のうどうの行動を大変喜ばれ、「りょうてんせいを入れてあげよう」と、1975年1月、当時の国連事務総長に署名簿をとどけてくださったのです。
  
 さらに、青年部が戦争のさんさを後世に残そうと、戦争体験者への聞き取りを行い、74年6月に沖縄、8月に広島、長崎の戦争証言集を発刊しています。
  
 悲惨なおくを未来に伝える運動は全国へと広がりました。
 学会の反戦出版は100冊を超えるシリーズとなり、あるしきしゃからは「現代のまんようしゅう」としょうされるほど、社会的にも大変価値の高いものとして評価されています。

げきどうの時代に知恵を結集

 ――社会がこんとんとし、不安におおわれた時こそ、先生がはんを示してくださったように、私たちはいやまして「生命そんげんの行動」を展開し、対話と連帯の広場を築き、人々の間に希望をつむぎ出していかなければなりませんね。
  
 その意味において、若者・市民団体のきょうどうで先月24日に開かれ、学会青年部がSGIユースとしてさんかくしたイベント「未来アクションフェス」は、激動の時代に青年の知恵をけっしゅうし、にかなったらしい内容であったと感じています。
  
 さらに、SDGs(持続可能な開発目標)推進に向けて、社会こうけん活動「BSG FOR SDG」に取り組むインド創価学会や、核兵器廃絶運動の団体「センツァトミカ(核兵器はいらない)」を立ち上げたイタリア創価学会など、世界の各地で、無数の「山本伸一」〈注〉たんじょうしています。
  
 地域のため、社会のために、「一歩」をみ出していることは非常にたのもしく、こうした青年部の活動の「いってき」が、世界平和の「大河」へと広がっていくことを願わずにはいられません。

核兵器や気候危機の問題解決を目指し、先月、東京・国立競技場で開催された「未来アクションフェス」。実行委員会の代表から「共同声明」が、国連大学のマルワラ学長(国連事務次長)に手渡された

核兵器や気候危機の問題解決を目指し、先月、東京・国立競技場で開催された「未来アクションフェス」。実行委員会の代表から「共同声明」が、国連大学のマルワラ学長(国連事務次長)に手渡された

 池田先生は、昨年11月15日付の聖教新聞で、ずいひつ『「人間革命」光あれ』〈人材のしろを 平和のそのを!〉を発表してくださいました。
  
 先生ご逝去せいきょの日に掲載された、先生の“最後の随筆”です。
 この随筆の中で、先生は、インタビューの㊤でも述べた、大阪・なかしまでの本部総会にれつつ、次のように呼びかけてくださいました。
  
 「生命よりも国の利害が優先され、ぞうぼうりょくせいとうされてしまう。このほんまつてんとうに一番、苦しめられるのは、しょみんである。子どもたちであり、母たちだ。こうしたようそうは、こんにち、いやましてしんこくである。ゆえに生命尊厳の哲学をたもわれらは、それぞれの使命の天地から、『平和ほど、幸福なものはない』とのスクラムを広げるのだ」と。
  
 先生のゆいごんともいうべき、この言葉を、青年部の皆さんは自らのるぎない誓いをもって受け継ぎ、社会にたいげんしていっていただきたいとねんがんしています。

 注=山本伸一
 池田先生のペンネーム。1949年1月、池田先生は、第2代会長・戸田先生が経営する出版社に入社。少年雑誌の編集を任され、自ら原稿を執筆した際、「山本伸一郎」のペンネームを使う。
 その名を見た戸田先生は「なかなかいいじゃないか、山に一本の大樹が、一直線に天に向かって伸びてゆく」と。
 やがて“郎”の一字が取られ、「山本伸一」は、小説『人間革命』に登場し、『新・人間革命』の主人公となる。