〈ジョガスタ――女子学生部 御書研さんのために〉 開目抄①2024年4月23日

  • だいと希望のてつれよう

 女子学生部の“スタディ(研さん)”のためのしんれんさい「Let’s Study! ジョガスタ――女子学生部 御書研さんのために」では、全8回に分けてかいもくしょうを学びます。今回は、はいけい・題号の意味・大意等と、第1段をはいします。池田先生は、9・9「女子学生部の日」のえんげんとなった集いで、「開目抄」を拝し、はげましを送りました。本抄に刻まれた日蓮大聖人のだいと希望のてつれましょう!

背景

 「かいもくしょう」は、日蓮大聖人がざい中の文永9年(1272年)2月、51歳の時、はいつかはらからじょうきんたくして、門下一同にあたえられた書です。
 ほんしょうは、日蓮大聖人こそがしゅしんさんとくそなえたそんざいであり、すなわちまっぽうほんぶつであることを明らかにされた書です。「かんじんのほんぞんしょう」とならんで、大聖人の仏法における重書中の重書となっています。
 大聖人は、文永8年(1271年)9月12日、たつくちほうなんわれ、それに続いて佐渡に流罪されました。
 佐渡は念仏者が多く、大聖人をぶつの敵として、命をつけねらう者も少なくありませんでした。
 また、鎌倉などの大聖人門下の人たちも、しょりょうぼっしゅう、追放、ばっきんなどのけいしょされ、その中で、うたがいを起こして退転する者が多く出ました。
 本抄は、こうしたじょうきょうの中で、世間や門下から寄せられた、「大聖人が法華経のぎょうじゃであるなら、なぜしょてんの加護がないのか」などといったもんに対し、法華経の経文通りに正しくじっせんすれば三類の強敵によるはくがいが起こるというのが仏の教えであり、その通りのなんっている大聖人は真の法華経の行者であることを示されています。
 そして、そうしただいなんかくいっさいしゅじょうを救うためにしゃくしんみょうの実践をしている大聖人しんこそ、主師親の三徳を具えた末法の御本仏であられることを示されています。

題号

 「開目抄」とは、日蓮大聖人しんが名づけられた題号です。日本国の人々がかたよった教えにしゅうちゃくして、大聖人が末法の衆生を救う真実の三徳を具えた仏であることを知らない「ざされた心の目」を開かせよう、との意であるとはいされます。

大意

 初めに、人々がそんけいすべきものとして「主師親の三徳」を示され、次いで、じゅどうないどうで三徳を具えた者としてそんけいされている人の教えを取り上げ、しょそうおよびしゃくそんの仏教の中の浅深を判断され、法華経本門寿じゅりょうほん第16のもんていちんされている「いちねんさんぜん」こそが成仏の根本因となる法(「ぶっしゅ」)であることを示されています。
 続いて本抄の前半では、法華経のしゃくもん・本門の教えを検証され、法華経にこそ、万人成仏の大法が示されていることを明かされています。
 ところが、当時の日本のしょしゅうは、この法華経にそむいていて、人々をたぶらかし不幸におとしいれていることをてきし、大聖人お一人が、「法華経の行者」として立ち上がり、これらの悪と戦い、多くのだいなんを受けてきたことを述べられます。
 本抄の後半では、“大聖人が法華経の行者であれば、どうして諸天ぜんじんの加護がないのか”という世間や門下の疑問(「【参考】“世間の疑い”」を参照)を取り上げ、これに答えられていきます。
 最初は、法華経の内容にそくしてじょうさつ・天・人が法華経に大恩があることを示し、“彼らが守護の働きを現さないのは日蓮が法華経の行者ではないからか”と疑いを強められていきます。そのうえで、この法華経を末法にひろめる法華経の行者が難を受けるのは経文通りであることをろんしょうされます。
 そして、法華経の行者が難を受けるのは行者自身の宿業のゆえであることや、はくがいしゃげんばちがない理由を明らかにされています。
 そのうえで、しゃくしんみょうの決意をもって末法の衆生をきゅうさいするとの、末法の御本仏としてのだいせいがんを示されるとともに、末法の法華経の行者の実践に具わる功徳としゃくぶくの意義を教えられて不退転をすすめられています。
 最後に、このの実践のゆえに、大聖人こそ末法の人々を救済する「末法の主師親」であると示して、本抄を結ばれています。

【第1段】御書新版50ページ1~2行目、御書全集186ページ1行目

 【御文】れ、いっさいしゅじょうそんぎょうすべきものみっつあり。いわゆるしゅしんこれなり。またしゅうがくすべきものみっつあり。いわゆるじゅないこれなり。

 【通解】あらゆる人々がそんけいすべきものが三つある。それは主と師と親である。また、習い学ぶべきものが三つある。それはじゅきょうなどの中国のしょきょうと、どう(仏教以外の古代インドしょそう)とないどう(仏教)である。

 【解説】ほんしょうの主題である「しゅしんさんとく」をひょうし、じゅどうないどうを「しゅうがくすべき物」として挙げられています。
 ぼうとうで標示されている「主師親の三徳」が、まさに「かいもくしょう」全体をつらぬくテーマです。
 「主の徳」は人々を守る力・働き。「師の徳」は人々を導き、きょうする力・働き。「親の徳」は人々を育て、いつくしむ力・働きをいいます。
 また、だれもが学ぶべきものとして、儒教・道教などの中国のしょそう、外道(仏教以外の古代インド諸思想)、内道(仏教)を挙げられています。これらは、当時の日本人に知られていた有力な思想・宗教のすべてでした。
 本抄で日蓮大聖人は、それぞれの教えをろんじられ、一応のけつろんとして、成仏の因果をさとり、生死の苦しみをえる道を明かした内道のしゃくそんこそ、真の主師親であることを述べられます。
 さらに、内道の中でも法華経本門の文底にちんされたぶっしゅである大法によっていっさいしゅじょうを最もほんげんから救い守っていくまっぽうしゅの三徳を明らかにされ、この三徳を体現されているのが大聖人しんであり、大聖人こそ末法のほんぶつであることをけつろんされていきます。

【参考】“世間の疑い”

 【御文】けんうたがいといい、しんうたがいと申し、いかでか天たすたまわざるらん。しょてん等のしゅしんは仏前のせいごんあり。法華経のぎょうじゃには、るになりとも法華経の行者とうして、そうそうに仏前の御誓言をげんとこそぼすべきに、その義きは我が法華経の行者にあらざるか。このうたがいはこの書のかんじんいちの大事なれば、しょしょにこれをく上、うたがいをつよくしてこたえをまうべし。(御書新版74ページ7~10行目、御書全集203ページ11~14行目)

 【通解】世間の疑いとして、また自身の心から生まれる疑いとして、私が法華経の行者であるなら、どうしてしょてんぜんじんらはこれを助けないのか。
 諸天らの守護神は、仏の前でのちかいがある。法華経の行者に対しては、たとえさるであっても、法華経の行者とたたえて、早々に仏の前での誓いをじょうじゅしようと思われるはずなのに、その義がないのは、わが身が法華経の行者ではないからだろうか。
 この疑いは、この書(「開目抄」)のかんじんかなめであり、日蓮の一生の大事であるから、かえしこれを書き、疑いを強くし、そのうえで答えを示そう。

 【解説】しょてんの加護がないのは、日蓮大聖人しんが法華経のぎょうじゃではないということなのかというもんの解明を通して、大聖人がまさしく末法の法華経の行者であることを明らかにされます。
 法華経の行者を諸天が加護するということは、あんらくぎょうほんほんなどに説かれています。それなのに、大聖人はたつくちほうなんざいわれました。
 そこで、世間いっぱんや門下の一部から、“法華経の行者であるならば、どうして諸天が守護しないのか”“大聖人は法華経の行者ではないのではないか”といううたがいが起こり、そのために退転する門下も出ていたのです。
 大聖人は、この疑問を「しんの疑い」とも言われています。
 大聖人は、いよいよ実際に難がおそってきた時、「わが身が法華経の行者ではないのか、それとも諸天ぜんじんが国をって、いなくなったからか」と自ら問題提起されています。これが「自心の疑い」であるとはいされます。しかし大聖人は、御自身のじっせんと経文とのがっかくにんして、いよいよ喜びを増すきょうに立たれました。
 その意味では「自心の疑い」は解決しているが、まだ残っている「世間の疑い」を晴らすために、御自身が法華経の行者かどうかについての考察を進められていくのです。

池田先生の講義から

 恩師戸田先生の次の一節をしょうかいしておきたい。
 「私が大聖人様の御書をはいどくしたてまつるにさいしては、大聖人様のおことばの語句をわかろうとするよりは、ほとけだいなるご、偉大なる確信、ねつれつなるたいしゅうのご精神、ひたぶるな広宣流布へのそんげんなる意気にふれんことをねがうものである。
 私のむねには御書をはいどくするたびに、真夏の昼の太陽のごときかっかくたるお心がつきさされてくるのである。熱鉄のきょだいなるてつがんが胸いっぱいにしつめられた感じであり、ときには、熱湯のふき上がる思いをなし、だいばくが地をもゆるがして、自分の身の上にふりそそがれる思いもするのである」(「つつしんでかいもくしょうの一節を拝したてまつる」、『戸田城聖全集3』)
 この戸田先生の拝読の御精神こそが、創価学会の御書拝読の永遠のしんであると確信する。
 御書を拝することは、みんしゅうきゅうさいだいてつれることであり、日蓮大聖人の広宣流布の御精神に浴することに通じます。
 私たちも、の勇者として、全人類のみょうの目を開き、万人のぶっしょうを開く「開目の連帯」を築いていきたい。
 今、世界中で、日蓮大聖人の人間主義の仏法を待望しています。
 私たちの平和と文化と教育の大運動を見つめています。