〈明日を照らす〉 テーマ:()()(おう)  

 創価学会は、勇気の信心を(ふる)()こし、広宣流布の実現にまい進しています。今回の「明日を照らす」は、「()()(おう)」をテーマに学びます。

御文

 「()」とは()(しょう)(さず)くるところの(みょう)(ほう)、「()」とは()()()くるところの(みょう)(ほう)、「()」とは()(てい)(とも)(とな)うるところの(おん)(じょう)なり。「()」とは、「おこす」と()むなり。(まっ)(ぽう)にして南無妙法蓮華経を(おこ)すなり。
 ((おん)()()(でん)、新1043・全748)

 【通解】「師」とは師匠が授ける妙法、「子」とは弟子が受ける妙法であり、「吼」とは師弟が共に唱える(おん)(じょう)をいう。「作」とは、「おこす」と読む。末法で南無妙法蓮華経をおこすことをいう。

師弟が心を合わせ正義の声を

 たとえ(だれ)がやらなくても私がやる! 弟子が自ら戦いを起こしてこそ、師弟の(たましい)(みゃく)()ちます。
 法華経勧持品第13では、()(さつ)たちが(しゃく)(そん)(めつ)()の末法で、「三類の強敵」の(はく)(がい)(おそ)れずに妙法を(ひろ)()くことを(ちか)います。その誓いを述べる菩薩たちの(しん)(けん)さや勢いを、経文では「()()()()」と表現しています。
 日蓮大聖人が法華経を自在に講義し、その内容を日興上人が編さんした“師弟の(じゅう)(しょ)”である「(おん)()()(でん)」では、「師子吼」とは、師弟共に妙法を唱え、(ひろ)める(おん)(じょう)のことであると(おお)せです。その師子吼を「おこす」ことこそ「作師子吼」なのである、と教えられています。
 すなわち、法華経に説かれる菩薩の姿(すがた)のように、仏弟子が()(しょう)と同じ広布の(せい)(がん)を立て、友に仏法を語りゆく行動を起こしていく――この能動的な姿にこそ、師弟の根本精神があると示されているのです。
 池田先生は「師匠と弟子とが、ともに心を合わせ、広宣流布の勝利へ、正義の声をあげるのだ。これほど正しく(とうと)い、強い声はない」と語っています。
 師弟の誓願に生きる確信の声で語り()き、人々の仏性を()()ましていきましょう。

御文

 ()()(おう)は、(ぜん)(さん)()(いち)(もう)して、()りの()()らんとするにも、また()けきものを()らんとする(とき)も、()きおいを()だすことは、ただ()なじきことなり。
 ((きょう)(おう)殿(どの)()(へん)()、新1632・全1124)

 【通解】師子王は前三後一といって、(あり)の子を取ろうとする時も、また、(もう)(じゅう)を取ろうとする時も、その勢いは、全く同じである。

一日一日を(しん)(けん)勝負で

 「()()」「()()(おう)」――大聖人は御書の(ずい)(しょ)(しゃく)(そん)や法華経を、何ものをも(おそ)れずに堂々と()()う“(ひゃく)(じゅう)の王”ライオンに例えられています。
 文永10年(1273年)8月、日蓮大聖人が流罪地の()()一谷(いちのさわ)(したた)められたお手紙です。
 師子王は、()(もの)をとる時、どんな相手であっても力をためて(ばん)(ぜん)の構えで飛びかかろうとします。一切の油断を(はい)した姿()(せい)を表した言葉が、(かか)げた()(もん)にある「(ぜん)(さん)()(いち)」です。“必ず勝利する”ための万全の姿勢であるともいえます。
 大聖人は、この言葉を通し、どんな課題にも全力で(いど)み、打ち破る“師子王の()()い”を教えられています。“仏法は勝負”であるからこそ、どんな時も、(ぜん)(こん)()めて(いど)んでいくのです。
 池田先生は、「大きい戦いといっても、実は日々の小事の積み重ねであり、目の前の課題への勇気の(ちょう)(せん)()(かえ)しにほかならない。ゆえに、一切の油断を排し、競い起こるあらゆる()を打ち破って、一つ一つを(しん)(けん)勝負で勝ち切っていくのだ。一日一日を断固と勝ち取っていくのだ」と教えています。
 今日を勝ち、明日を勝つ! それが、大聖人と同じ“師子王の振る舞い”なのです。

御文

 この(きょう)(もん)(いっ)(さい)(きょう)(すぐ)れたり。()(はし)(もの)(おう)たり、()()(おう)のごとし。(そら)()(もの)(おう)たり、(わし)のごとし。
 ((せん)(にち)(あま)()(ぜん)()(へん)()、新1737・全1310)

 【通解】この法華経の経文は、一切経の中で最も(すぐ)れている。地を走る者の王である師子王のようである。空を飛ぶ者の王である鷲のようである。

()(ふう)(どう)(どう)と王者のごとく前進!

 「経の王」を(ひろ)める法華経の行者の私たちもまた「王者」である――。
 (こう)(あん)元年(1278年)7月、日蓮大聖人が()()の女性門下である(せん)(にち)(あま)(あた)えられたお手紙です。千日尼は、夫の()(ぶつ)(ぼう)と共に流罪中の大聖人を支え、流罪(しゃ)(めん)後もお(つか)えし()いた佐渡の代表的な門下です。
 (ほん)(しょう)では、仏法がインドから中国を経て、日本へと伝わってきた(けい)()を述べられます。中でも、万人成仏の法である法華経こそ最も(すぐ)れた“(しょ)(きょう)の王”であることを、「地を走る者の王である()()(おう)」「空を飛ぶ者の王である(わし)」との(たと)えを通して明快に示されています。
 池田先生は、この一節を通して、つづられました。
 「『宗教界の王者』とは万人成仏の法を明かした『一切経の王』たる法華経の精神を身に体して、広宣流布という最も()(なん)(だい)(せい)(ぎょう)(すい)(こう)する王者のことである。『地走る者の王』の(ごと)く走り(さけ)び、(みん)(しゅう)を不幸に(おとしい)れる(じゃ)(あく)を打ち破る正義の師子王のことだ。(われ)ら創価の師弟は、未来永遠にこの『王者』の心で、()(ふう)も堂々と戦い続けていくのである」
 さあ、使命の天地で(じゅう)(おう)()(じん)に正義の対話に(いど)もうではありませんか。

御文

 (おの)(おの)()()(おう)(こころ)()()だして、いかに(ひと)()どすとも()ずることなかれ。()()(おう)(ひゃく)(じゅう)におじず。()()()、またかくのごとし。(かれ)らは()(かん)()うるなり。日蓮が一門は師子の()うるなり。
 ((しょう)(にん)()(なん)()、新1620・全1190)

 【通解】一人一人が、師子王の心を(ふる)()こして、どのように人が(おど)してきても、決して(おそ)れてはならない。師子王は百獣を恐れない。師子の子も、また同じである。彼ら((しょう)(ほう)()(ぼう)する人々)は()(かん)(キツネの(たぐ)い)が()えているようなものであり、日蓮の一門は師子が()えるのと同じである。

信心とは“勇気”の()(みょう)である

 「師子王」である大聖人の弟子、すなわち「師子の子」ならば、()(しょう)と共に戦う(かく)()に立つことで、必ずその「師子王の心」を()き立たせることができる!
 (ほん)(しょう)は、「熱原の(ほう)(なん)」の()(ちゅう)にあった(こう)(あん)2年(1279年)10月、日蓮大聖人が()(のぶ)(したた)められ、門下一同に(あた)えられました。法華経の(しん)(こう)(つらぬ)いたゆえの(はく)(がい)と戦う門下に、絶対に(おそ)れてはいけないと(おお)せです。
 ここで重要なのは「師子王の心」を「取り()だす」と表現されていることです。もともと自身の生命にないものは取り出すことができません。(なん)と戦う勇気や生命力である「師子王の心」は、本来(だれ)もが等しく(そな)えているものであるからこそ、「取り出だす」と教えられているのです。
 池田先生は、この御文を(はい)し「『師子王の心』とは、『不退の心』です。『()けじ(だましい)』『学会魂』であるといってもよい。(なん)と戦えば仏になれる。そのために『師子王の心』を取り(いだ)すのです。信心とは、絶えず前進し続ける『勇気』の()(みょう)なのです」と述べています。
 師と同じ広布の大願に生きるなら、いかなる()(なん)にも(ゆう)(かん)(のぞ)んでいく「師子王の心」が()き上がります。前進、また前進の“師子の道”を(ゆう)(かん)に歩んでいきましょう。