励ましの手紙

2024年4月18日

  • わが子の如く、兄弟姉妹の如く

「一番の文章修業」

 マレーシア屈指の総合大学である国立プトラ大学は2000年、池田先生に「名誉文学博士号」を授与した。教育学部長を務めていたカマリア博士は、池田先生への尊敬の念をこう語った。
 「(池田)博士の文章や書物を読み、大変に感動しました。世界の平和に関する文章で、こんなにも人々を感動させ、教養的で、精神的なものは読んだことがなかったのです」
 学会員だけではなく、世界の識者にも感動を与える文の力を、いかにして育んできたのか。池田先生は記している。
 「私にとって、一番の文章修業は、あえていえば、友につづった励ましの手紙であったのかもしれない」
 1950年、戦後の不況によって、戸田先生の事業が暗礁に乗り上げた。この頃、池田先生は、神奈川のある同志の家を訪問。その家の女性から、他県に出て働いている、十代半ばの息子の手紙を見せられた。
 そこには、一部屋に数人の共同生活で、勤行をするにも苦労していることがつづられていた。先生は手紙を読み終えると、ペンを執り、青年に一詩をしたためた。
 「友よ強く雄々しく立てよ/僕が信ずる君が心を/苦しき仕事 深夜の勉強/これも修行ぞ 苦は楽し/君が信念 情熱を/仏は じっとみているぞ……」
 青年は苦難に直面するたびに、詩を読み返しては奮起した。
 先生自身、通っていた夜学を断念し、恩師を一人支えていた時期である。秋霜烈日の試練の時に生まれた詩は、その後、多くの青年の心を鼓舞し、今も同志に勇気を送り続けている。

男子部の第1部隊長だった池田先生から、部隊員に送られた激励のハガキ

男子部の第1部隊長だった池田先生から、部隊員に送られた激励のハガキ

真心で築いた金字塔

 1953年1月、池田先生は男子部の第1部隊長に就任。同年4月からは文京支部長代理も兼ねることになった。
 会社では営業部長の重責を担っていた。多忙の日々である。
 先生は常にカバンの中に、便箋と封筒、ハガキを入れていた。移動の時に、同志に手紙を書くためである。第1部隊のある班長のもとには、1年余りで二十数通もの激励の便りが届いた。
 同年11月20日、第1部隊の臨時の決起大会が行われた。その折、1枚の印刷物が配られた。「我が親愛なる同志諸君に告ぐ」と題する、先生が自費で作成した活版刷りの檄文である。翌月の7日にも、先生は男子青年部総会への結集を呼びかける檄文をメンバーに送っている。
 広布の大情熱の一文に、友は奮い立った。先生が指揮を執った1年余の間で、第1部隊の部員数は当初の4倍近くにまで拡大した。
 「“まさか”が実現」と世間を驚嘆させた56年の「大阪の戦い」。ある友は、池田先生が深夜に机に向かう姿を目にしている。訪問・激励や座談会、各種の会合など、一日の戦いを終えた後、先生はメンバーに手紙やハガキを書いていたのである。
 ある女性には「くれぐれもお身体を大事に。夜は早目に休む様。水の如く清く、つつがない信心であられん事を」と書き送った。
 ある青年には「青年期ハ人生の建設の時代である。信心を根本として、一日一日を立派な修業と思って、生き抜く事こそ大事でありましょう」と励ました。
 ある壮年には「正義に依って起て、汝の力百倍せんとは古人の言である。大兄よ、吾れも断固斗ふ。君も共に、広布の為に奮斗されん事を」と訴えた。
 広布の命運を決する戦いに挑む友の幸福を願い、先生は励ましの一文をしたため続けた。
 戦いを勝利で飾った後、先生は旧・関西本部に足繁く通っていた一人のメンバーに、感謝を込めて色紙にこうしたためた。
 「陰徳あれば陽報あり 陰の力 まことにありがとう」
 先生と同志が織り成した広布の金字塔には、どこまでも一人を大切にする、先生の真心があった。

1960年10月19日、ブラジルの地から、日本の友へ手紙をしたためる山本伸一(小説『新・人間革命』第1巻「開拓者」の章から、内田健一郎画)

1960年10月19日、ブラジルの地から、日本の友へ手紙をしたためる山本伸一(小説『新・人間革命』第1巻「開拓者」の章から、内田健一郎画)

「大事なのは人です」

 第3代会長就任後も、池田先生は励ましの筆を執り続けた。その執筆闘争は、海外歴訪の最中も変わらなかった。
 1960年10月2日、先生は初の世界平和旅に出発した。アメリカのハワイを経て、5日には、サンフランシスコを視察。深夜、宿舎で日本の同志へ宛てて手紙をしたため、真情をつづった。
 「私も会長就任、ここに五カ月、弟子として、恩師の指示を、今の身を粉と砕いて実践しきる決意である」
 「私の意中は、唯々、全学会人が幸せに、自信をもって、信心を貫き通してもらいたいことです」
 同月19日、先生は舞台をブラジルに移し、行く先々で激励を続けた。その折、ある支部長へ送った手紙には、こう記している。
 「今、私の心は、わが身を捨てても、戸田先生の遺志を受け継ぎ、広布の総仕上げをなそうとの思いでいっぱいです。そのために大事なのは人です、大人材です。どうか、大兄も、私とともに、最後まで勇敢に、使命の道を歩まれんことを切望いたします。そして、なにとぞ、私に代わって支部の全同志を心から愛し、幸福に導きゆかれんことを願うものです」
 どこにいても、先生の胸中から功労の友、共戦の同志が離れることはなかった。

第1次宗門事件からの反転攻勢の中、池田先生は福井県代表者会議へ(1981年11月24日、武生文化会館で)。「信心をたもち抜いた人が、人間として勝利者なのである」とスピーチ。さらに、「正法の 正義の旗も 高らかに 幸の行進 福井嬉しや」と詠んだ

第1次宗門事件からの反転攻勢の中、池田先生は福井県代表者会議へ(1981年11月24日、武生文化会館で)。「信心をたもち抜いた人が、人間として勝利者なのである」とスピーチ。さらに、「正法の 正義の旗も 高らかに 幸の行進 福井嬉しや」と詠んだ

信心第一 団結第一

 池田先生と同志の師弟の絆――第1次宗門事件の折、悪侶や退転者らは、その絆の分断を画策した。
 1979年4月24日、先生は第3代会長を辞任。全国の同志から先生のもとに手紙が届いた。
 「私の師匠は、池田先生しかおりません」「この悔しさは、絶対に忘れません」
 これらの手紙を、先生は大切に保管し、「私は、こうした真実の同志の姿を決して忘れない」と語っている。
 東の秋田、西の大分とともに、第1次宗門事件の激震地であった福井。リーダーたちは、悪侶らによる卑劣な学会批判に屈せず、懸命に同志を励まし続けた。
 同年9月22日の夜、福井の青年リーダーの自宅の電話が鳴った。
 「福井のことが心配で電話したんだよ」。池田先生の声だった。
 先生は、福井の友の様子を一人一人尋ね、彼を勇気づけた。
 「福井の皆さんも悔しいだろう。しかし、こんなことが、いつまでも続くわけがない」「仏法は勝負だ。正義は必ず勝つ! 10年後には、はっきりするよ」
 翌日、そのことを聞いた壮年のリーダーは、先生に礼状を書き、決意をしたためた。先生は返書を送った。
 「第一にも、第二にも信心第一、そして団結第一の座標を根本に、会員全員をわが子の如く、兄弟姉妹の如く慈しみ、親にも勝る大指導者に」
 「毎日、私は題目を送ります」
 “信心第一、団結第一”――師の指針を胸に、福井の同志は、堂々と正義を語り、宗門事件の嵐を勝ち越えていったのである。
 ◆◇◆ 
 先生は「どう訴えれば、この人が希望をもてるのか、元気になるのか、奮起できるのか――限られた時間のなかで、考えに考え、生命を刻印する思いで、懸命にペンを走らせた」とつづっている。
 どこまでも同志を思う師の深き慈愛。その大境涯に迫り、広布と人生の大勝利の絵巻をつづっていくことこそ、先生のペンの闘争に応えゆく弟子の道である。

友よ強く(「池田大作全集」第39巻所収)

 友よ強く雄々しく立てよ
 僕が信ずる君が心を
 苦しき仕事 深夜の勉強
 これも修行ぞ 苦は楽し
 君が信念 情熱を
 仏は じっとみているぞ
  
 友よ負けるな希望を高く
 僕が信ずる君が心を
 努力 努力 また努力
 あの日の誓い忘れるな
 君の意気と若さとで
 断じて進め あくまでも
  
 友よ忘るな微笑を
 僕が信ずる君が心を
 清らかに 夢みつつ
 進みゆく君が心の美しさ
 ああ わが友よ強く
 君が友よ