〈御書の旭光を〉22 対話は「如来の使い」の実践

 

〈御文〉

 法師品には若是善男子善女人乃至則如来使と説かせ給いて僧も俗も尼も女も一句をも人にかたらん人は如来の使と見えたり(椎地四郎殿御書、1448ページ)

 

〈通解〉

 法華経法師品第10には「もしこの善男子・善女人は、(私<釈尊>が滅度した後、法華経の一句でも説くなら)この人はすなわち如来の使いである」と説かれており、僧も俗も尼も女も、法華経を一句でも人に語る人は如来の使いであるというのである。

 

〈池田先生が贈る指針〉

 広宣流布のため、立正安国のための対話が、いかに尊いか。
 祈りを重ね、勇気を出して発する言葉の一つ一つが「仏の声」である。声を惜しまず、労苦をいとわず、誠実に語ること自体が「如来の使い」の実践だ。功徳は大きい。
 確信の一言は、幸の種となり仏縁を結ぶ。共に境涯を開き、より良き社会を築く力となるのだ。