〈明日を照らす〉 テーマ:広布の(だい)(がん)

 創価学会は、日蓮大聖人の()(ゆい)(めい)である広宣流布の実現にまい進しています。今回の「明日を照らす」は、「広布の(だい)(がん)」をテーマに()(もん)を学びます。

御文

 (ねが)わくは、()()()()(だい)(がん)()こせ。(中略)()なじくは、()りにも()()(きょう)のゆえに(いのち)()てよ。()ゆを(たい)(かい)にあつらえ、()りを(だい)()()ずむと()もえ。((うえ)()殿(どの)()(へん)()(りゅう)(もん)()(しょ)〉、新1895・全1561)

 【通解】願わくは、わが弟子らは、大願を起こしなさい。(中略)同じことなら、仮にも法華経のために命を()てなさい。それこそ、(つゆ)を大海に入れ、(ちり)を大地に()めるようなものであると思いなさい。

人類()(もん)(たい)(ぎょう)に生き抜く

 大切な命を何のために使うか――。ここで人生の価値は決まります。
 (ほん)(しょう)(いただ)いた(なん)(じょう)(とき)(みつ)は、(こう)(あん)2年(1279年)9月に起きた「(あつ)(はら)(ほう)(なん)」の際、(だん)(あつ)された日蓮大聖人の門下を()(てい)にかくまうなどして、(いのち)()けで同志を守りました。
 その直後に(あらわ)された本抄で大聖人は、悪知識によって信心が破られ、退転した(しゃ)()(ほつ)の説話などを通しながら、悪知識に打ち勝つ(ほう)()を示されています。それが、広布の「大願」に立つ信心です。
 大願とは、万人成仏の妙法を(ひろ)め、(ぜん)(みん)(しゅう)の幸福と世界の平和を築きゆく(ちか)いです。この人類()(もん)(たい)(ぎょう)()()(かく)()を定め、(だい)(なん)()(しの)()(くつ)の生き方を()(きょう)()されています。
 「()()(きょう)のゆえに命をすてよ」とは、決して命を()(まつ)にする意味ではありません。妙法のために生き抜く以上の価値ある人生はないことを、教えられているのです。
 ある意味で、私たちの一生は「つゆ」のようにはかなく、「ちり」のようにわずかな(そん)(ざい)ともいえます。しかし、広布の「大願」を(かか)げて妙法流布に生き抜くならば、(つゆ)が大海に()()み、(ちり)が大地と一体になるように、自身の生命が仏の大生命と(きょう)()(みょう)(ごう)し、確固たる幸福(きょう)(がい)を確立できるのです。
 “広宣流布の大理想に生き抜く!”――日々、自らの使命の天地で前進していきましょう。

御文

 (われ)()(ほん)(はしら)とならん、我日本の(がん)(もく)とならん、我日本の(たい)(せん)とならん(とう)()かいし(ねが)()ぶるべからず。((かい)(もく)(しょう)、新114・全232)

 【通解】我は日本の柱となろう、我は日本の眼目となろう、我は日本の大船となろう等との(せい)(がん)は絶対に破ることはない。

人々や社会に(こう)(けん)する生き方

 文永9年(1272年)2月、日蓮大聖人は、()()(しん)()()()(ざい)という、命に(およ)ぶ最も()(こく)(じょう)(きょう)()(ほん)(しょう)(したた)められました。
 当時、(はげ)しい(だん)(あつ)を受けた弟子の中からは、“大聖人が()()(きょう)(ぎょう)(じゃ)ならば、なぜ(しょ)(てん)()()がないのか”との(うたが)いを起こし、退転する者が相次ぎました。
 大聖人は()(もん)の前の箇所で、法華経に照らして(なん)()うのは(ひつ)(じょう)であり、(しょ)(てん)の加護の有無は問題ではない、と世間や門下の()(なん)退(しりぞ)けられます。
 そして、“いかなる(だい)(なん)に遭っても、法華経の行者としての(みん)(しゅう)(きゅう)(さい)(ちか)いを破ることはしない”と(せん)(げん)されたのです。大聖人の広大な()(きょう)(がい)(むね)(せま)ってきます。
 池田先生は、この()(もん)(はい)して語っています。
 「(なや)みや苦しみを(かか)え、いつも『救われる側』にいた民衆が、いつしか人々を支え、『救う側』に回り、『柱』『眼目』『大船』となっていく(しゅう)(きょう)です。世界中に、『民衆の柱』『幸福の眼目』『希望の大船』たる人材を生み出しているのが、創価学会なのです」
 人間の生命に巣くう“自分さえ良ければいい”といったエゴイズム(利己主義)を(こく)(ふく)し、人々や社会に(こう)(けん)する生き方こそ、仏法者の(ほま)れの生き方なのです。

御文

 ()()(きょう)(ぎょう)(じゃ)は、(しん)(じん)退(たい)(てん)()く、()()(しん)無く、(いっ)(さい)法華経にその身を(まか)せて(きん)(げん)のごとく(しゅ)(ぎょう)せば、たしかに()(しょう)(もう)すに(およ)ばず、(こん)(じょう)(そく)(さい)(えん)(めい)にして(しょう)(みょう)(だい)()(ほう)()(こう)(せん)()()(だい)(がん)をも(じょう)(じゅ)すべきなり。(()(とう)(きょう)(おくり)(じょう)、新1786・全1357)

 【通解】法華経の行者は退転せず、(いつわ)(した)しむ姿(すがた)なく、法華経に身を任せて金言の通り修行すれば、後生はいうまでもなく、今生も息災延命で(すぐ)れた大果報を得て、広宣流布の大願も成就するのである。

信心の(せい)(どう)()っすぐ歩む

 人生を勝利し、広宣流布を()()げるための、仏道修行の実践について、日蓮大聖人は(ほん)(しょう)で、三つの要点を示されています。
 第一に「信心に退(たい)(てん)無く」です。
 (きゅう)(どう)の歩みに終着点はありません。戸田先生が、「進まざるは退転」と()(せい)(きび)しく(いまし)められたように、常に清新な信心を(つらぬ)くことが(かん)(よう)です。
 そして、妙法への「信」を根本に、(おく)(びょう)の心を(はい)して、(もう)(ぜん)と題目を(とな)()くことが大切なのです。
 第二に「身に()(しん)無く」です。
 言動や()()いに(うそ)やごまかしがなく、誠実に(てっ)することです。
 また、正法に(そむ)く悪を放置してしまえば、(いつわ)(した)しむことになるので、悪には(かん)(ぜん)と立ち向かい、その本質を明らかにしていくことが重要です。
 第三に「一切()()(きょう)にその身を任せて」です。
 私たち学会員でいえば、法華経の(かん)(じん)である南無妙法蓮華経の御本尊を根本に、大聖人が御書で()()(なん)をされた通りに、「信行学」の実践を貫くことです。
 信心の(せい)(どう)()っすぐ歩むことで、()(しょう)だけでなく、(こん)(じょう)においても(わざわ)いをなくして寿(じゅ)(みょう)()ばし、成仏の(だい)(きょう)(がい)を開くことができるのです。
 信心の()(どく)を現す同志の広がりによって、広宣流布の大願もかなうのです。

御文

 「(だい)(がん)」とは、(ほっ)()()(つう)なり。「(みん)(しゅ)(じょう)()」とは、()(ほん)(こく)(いっ)(さい)(しゅ)(じょう)なり。「(しょう)()(あく)()」の人とは、(にち)(れん)()(たぐ)いなり。((おん)()()(でん)、新1027・全736)

 【通解】(「大願を(じょう)(じゅ)して」の)「大願」とは法華弘通のことである。「衆生を(あわ)れむが(ゆえ)に」の「衆生」とは日本国の一切衆生のことである。「悪世に生まれて」くる人とは、日蓮とその門下である。

宿(しゅく)(めい)(てん)(かん)の勝利(げき)をつづろう

 (あく)()(まっ)(ぽう)に生まれた宿(しゅく)(めい)を、(みずか)らの使命に(てん)(かん)しゆく妙法の(りき)(ゆう)が示された「(おん)()()(でん)」です。
 ()()(きょう)(ほっ)()(ほん)には、「大願を(じょう)(じゅ)して、(しゅ)(じょう)(あわ)れむが故に、()の人間に(しょう)ず」(法華経356ページ)と示されています。同品では、(ふく)(とく)を積んだ()(さつ)は、本来なら清浄な世界に生まれるはずが、()(のう)する衆生を救うために、あえて衆生と同じ悪世に生まれると説きます。これが「(がん)(けん)()(ごう)(がん)(ごう)()ぬ)」の法理です。
 願兼於業が明かされたことで、過去世からの「宿(しゅく)(ごう)」に(しば)られて生きるのではなく、(せい)(がん)によって「使命」に生きる道が示されました。
 日蓮大聖人は、この“願い”について「(ほっ)()()(つう)」、つまり広宣流布の「大願」であると(おお)せです。
 人生の()(じょう)では、生老病死の苦悩をはじめ、家庭や仕事の(なや)みなどに直面することもあります。
 しかし、そうした(きょう)(ぐう)を、変えることのできない運命だと(なげ)いたり、(あきら)めたりはしない。自らがあえて願って苦悩を(かか)えて生まれてきた、使命ある悩みなのだ、と深く(とら)え直していく時、苦悩の意味を大きく転じることができるのです。
 こうした宿(しゅく)(めい)(てん)(かん)の勝利(げき)をつづる創価の友こそ、法華経の精神を(たい)(げん)している()(だい)(そん)(ざい)であるといえます。