〈明日を照らす〉 テーマ:(しん)(つい)(ぜん)()(こう)

 日蓮大聖人の仏法における()(こう)は、自分自身が仏道修行に(はげ)んで成仏することが根本です。その上で、自らが()んだ()(どく)を、故人に(めぐ)らし()けることが、(しん)(つい)(ぜん)回向なのです。
 池田先生は、つづっています。「毎日、勤行・唱題で妙法の(だい)()(りき)を直接、故人に回らし向ける。これが(われ)らの追善回向の(ほん)()だ。(かい)(ざい)など必要ない。広布に()くし、友を(はげ)ます行動も、全て故人への最高の()(よう)となる。(こう)(けい)が勝ち栄えて、先人の成仏を示しゆくのだ。『生も(かん)()、死も歓喜』と、(いっ)()(けん)(ぞく)(だい)()(ほう)で包みゆこう!」
 今回の「明日を照らす」は、「真の(つい)(ぜん)回向」をテーマに学んでいきます。

(おん)()()(でん)

 今、日蓮()(たぐ)い、(しょう)(りょう)(とぶら)う時、法華経を(どく)(じゅ)し南無妙法蓮華経と(とな)(たてまつ)る時、題目の(ひかり)()(けん)(いた)って(そく)(しん)(じょう)(ぶつ)せしむ。()(こう)(もん)、これより(こと)()こるなり。
 (新991・全712)

生命を(かがや)かせる

 【通解】今、日蓮と、その弟子たちが、()くなられた(しょう)(りょう)(つい)(ぜん)し、法華経を(どく)(じゅ)し、南無妙法蓮華経と唱えるとき、題目の光が()(けん)()(ごく)にまで(いた)って、(そく)(しん)(じょう)(ぶつ)させる。回向の文は、このことから(こと)()こるのである。
 ◇ 
 私たちが唱える題目には、今世だけでなく、三世にわたって、(いっ)(さい)(しゅ)(じょう)を救っていく(だい)()(りき)があります。
 (かか)げた()(もん)は、法華経の序品で、(しゃく)(そん)が法を説こうとした時、()(けん)にある(びゃく)(ごう)から(はな)たれた光が、下は()()()(ごく)まで世界をくまなく照らしたと説かれている()(しょ)に関する(おん)()()(でん)です。
 妙法の功力に、一切の差別はありません。たとえ悲しい別れであったとしても、題目の光の(とど)かないところはないのです。
 広布の()(じょう)()くなられた親族や同志、また友人の三世永遠にわたる(ふく)(とく)(あん)(のん)を祈念し、「題目の光」を放っていけば、生死を()え、(えん)する全ての人の生命を照らし、晴らすことができるのです。自他共に幸福の()(どう)に入っていけるのです。
 池田先生は、「『題目の光』こそ、あらゆる人の生命を(かがや)かせ、三世永遠に救いきっていく(こん)(げん)の『(ふっ)(こう)』である。私たちが()(ごころ)()めて送る追善回向の題目は、いかなる()(たん)(やみ)も打ち破り、亡くなられた方々を、必ずや(かっ)(かく)たる光で黄金に照らしゆくに(ちが)いない」と語っています。
 大切なことは、自らの生命を最大に輝かせ、故人をも照らしていくことです。
 広布の(せい)(がん)に生き()く人の生命は、まばゆい輝きを放っています。そこには、悲嘆も()(あい)もありません。あるのは希望と勇気です。
 誓願の題目を(ろう)(ろう)と唱えながら、三世にわたる幸福の軌道を、久遠の同志と共に晴れやかに進んでいきましょう。

かれんなコスモスが咲き誇る。コスモスは宇宙と同じ語源を持つという。私たちは妙法と共に、大宇宙のリズムと合致した「生も歓喜、死も歓喜」の人生を

(ほう)(れん)(しょう)

 (いち)(いち)(もん)()(へん)じて(にち)(りん)となり、日輪変じて(しゃ)()(にょ)(らい)となり、(だい)(こう)(みょう)(はな)って(だい)()()()おし(中略)いかなる(ところ)にも()()(しょう)(りょう)のおわすらん処まで(たず)ね行き(たま)いて、()の聖霊に(かた)(たも)うらん。
 (新1426・全1050)

題目の(ちから)(ぜつ)(だい)

 【通解】((ほう)(れん)(ほっ)()が、()き父のために毎朝、(どく)(じゅ)してきた()()()の)一つ一つの文字は変じて太陽となり、太陽は変じて(しゃ)()(にょ)(らい)となり、(だい)(こう)(みょう)(はな)って大地を()き通し、((さん)(あく)(どう)()(けん)()(ごく)()らし、また東西南北を照らし、上方に向かっては()(そう)()()(そう)(しょ)〈天界の最上部〉へも(のぼ)り)いかなる所であっても()()(しょう)(りょう)のいらっしゃる所まで(たず)ねて行かれて、かの聖霊に語られるでしょう。
 ◇ 
 (ほん)(しょう)は、(ほう)(れん)()()(きょう)(しん))が、父の十三(かい)()(つい)(ぜん)(ほう)(よう)に当たり、()()(よう)をお(とど)けしたことへの()(へん)()です。
 法蓮は、毎朝、亡き父のために法華経の()()()を唱えていました。日蓮大聖人は、その(こう)(よう)の真心をたたえられています。私たちにとっても、日々の勤行・唱題に勝る(つい)(ぜん)はありません。
 あなたが毎朝、唱えてきた自我偈は、一文字一文字がすべて仏となって、父がどのような(きょう)(がい)にあろうとも、()(ちが)いなく、そのもとを(おとず)れて、“私は、あなたの息子が毎朝、(どく)(じゅ)している自我偈の文字である。あなたの目となり、耳となり、手となり、足となろう”と語りかけている――大聖人は続く()(もん)でこう述べられ、父の成仏は()(ちが)いないことを教えられています。
 池田先生は、「自我偈は『(こん)(じき)の文字』であり、一つ一つの文字が太陽となり、仏となり、(だい)(こう)(みょう)を放って、(ぜん)()(ちゅう)を照らす。題目の大光明は言うまでもない。()くなった家族とも、いわば“無線”のように生命が通じていく。ここに大聖人の仏法の()(だい)さがある。題目の力は絶大である」と語っています。
 広宣流布に励む人の祈りは必ず、大切な人に伝わります。
 朝夕の勤行で、故人と心を通わせ、(ちか)いを新たにしていきましょう。