〈学生部教学のページ〉 「さんさんぞううのこと」を学ぶ

  • 幸福の安全地帯を築こう!

 いよいよ、新入生をむかえる春とうらい! 一人一人が、「世界を照らす わかわし」だ。何でも語り合える良きせんぱいとして、温かなはげましにてっしたい。今回学ぶ「さんさんぞううのこと」は、「ぜんしき」の大切さ、「さんしょう」などについて教えられている。大切な信心の基本を、新たな力と共に学び深め、最高の出発を切っていこう。

(今回の範囲)
新版1940ページ1行目~1945ページ17行目
全集1468ページ1行目~1472ページ8行目

御文

 されば、仏になるちはぜんしきにはぎず。ににかせん。ただつき・めたきばかりのだにもそうろうならば、善知識ちなり。
 (新1940・全1468)

通解

 仏になる道はぜんしきまさるものはない。わがは何の役に立とう。ただ暑さ寒さを知るだけの智慧でもあるならば、善知識が大切なのである。

絵・間瀬健治

絵・間瀬健治

背景と大意

 ほんしょうは、日蓮大聖人が建治元年(1275年)にのぶあらわされ、駿する国(静岡県中央部)富士かみかた西にしやまごうに住む西山殿どのあたえられたお手紙である。
  
 当時は、「文永のえき」が起きた直後であり、人々は再びのもうしゅうらいおそれをいだいていた。ばくちょうていは、各地の有力寺社等に蒙古調ちょうぶくとうを命じるが、そこで広く行われていたのは真言みっきょうによる祈禱であった。
  
 本抄では、まず、成仏するには「善知識」(仏法を教え仏道に導いてくれる人)というえんが大切であると述べられ、善知識と悪知識を判別する基準として、「三証」を示される。中でも大切なのは現証であるとされた上で、中国真言宗のぜんこんごうくうという3人の三蔵(三三蔵)のが、かえって国土にさいなんをもたらしたという事実をげ、真言がぼうこくの法であることを明らかにされる。
  
 最後に、はんどくの例を通し、真っすぐに善知識を求めく信心をうながされている。

解説

ぜんしきが大切

 「れ、木をうえそうろうには、大風ふき候えども、つよきすけをかいぬればたおれず」
  
 ぼうとうもんは、新入生を迎える今こそはいしたい一節である。「木」は仏道修行者を、「大風」は修行をさまたげるしょうを例えたもの。支える者がたしかであれば、どんな障魔が競おうともたおれることはない。
  
 学会の同志が必要な理由がここにある。学生時代は夢を追いかける一方で、かべにぶつかり進むべき道を見失ってしまうこともある。また、高校生までのころと比べ、自分で時間の使い方を決める機会が増えることで、自身のそんざい意義や、何のために生きていくのか、と問い直す時でもあるだろう。
  
 なやんだ時にとなりだれがいたのか――いっぱんてきにみても、その存在によって、後の人生は大きく変わる。ましてや、仏道修行になんは必然である。しゃくそんが“き友を持つことが、仏道修行の全てなのだ”とまで語ったことを心に留めたい。
  
 池田先生は本抄冒頭の御文を拝し、語っている。「学会は、最も心強い『善知識』の世界です。(中略)まさに福運あふれる“幸福の安全地帯”です。だから絶対にはなれてはいけません。少しでも縁していこうという心が大事です」
  
 私たちは常にはげましの組織を求めていく姿せいつらぬき、また、自身が「つよきすけ」として「幸福の安全地帯」を築く一人になると決めてまいりたい。
  
 続く御文では、いっさいしゅじょうが成仏するために、最もたよりにすべき存在が仏であったことをかくにんされている。弟子のしゃほつらはもちろんのこと、仏を殺そうとするなど罪を犯したじゃおうらも、釈尊と縁することによって成仏することができたのだ。
  
 ゆえに、仏道を歩み抜くには善知識こそ大切であるとうったえられている(別掲御文)。ここでいう知識とは、友人、知人を意味する。しょうや同志など、仏道に導く人が善知識であり、反対に、信心から遠ざける存在が悪知識だ。
  
 この「善知識」を求めることが仏道修行には欠かせないが、大聖人は「善知識にうことが第一のかたきこと」とおおせである。続けてしょさつの例を通し確認されているのも、善知識・正しき師にめぐうことのむずかしさを示したものだ。
  
 あやまった師や、その教えを信じる者は「仏法を習わない悪人よりも、はるかにおとってしまう」と述べられ、ここから真言破折を強められていく。

信行の勇者に

 大聖人は、きびしくしゅうを責め続けたが、その目的は、単に他宗をていすることにあるのではない。混迷を極める社会とみんしゅうを救おうと、人間主義の仏法に照らし、なかんずく万人成仏を説く法華経に基づき、当時の他宗派がおちいっていた仏意や経文をないがしろにする姿勢やかたよった思想を断ち切ることに破折の眼目があったといえる。
  
 本抄で強く訴えられたのは、真言の祈禱の結果は事実の上でどうだったのか、という点である。まず、大聖人は、人々を絶対的な幸福に導く法を判定する基準として、しょう(道理)、もんしょう(証文)、げんしょうの「三証」を挙げ、中でも「現証」が最も大切であると強調されている。
  
 「文証」とは、その宗教の教義が、よりどころとする経文やせいてんのうえでうらづけをもっているか。「理証」は、その宗教の教義や主張が道理にかなっているか。そして「現証」とは、教義に基づいてしんこうじっせんした結果が、生活や社会にどのように現れたかということである。
  
 私たち学生部は「なっとくと共感」の世代としょうされる。御書をひもとき、仏法の生命てつがくを学び理解を深めることはもちろんのこと、自行化他にわたる実践をした時に自身とかんきょうの変化を実感できる――これ以上の納得はない。大聖人の立てられた「三証」という基準は、私たちが、また友人が、信仰の道を自ら選び取るためにも、ますます大事になってくるだろう。
  
 池田先生は、1947年(昭和22年)に戸田先生と初めて会い、「正しい人生とは何か」と聞いた。その答えは以下の通りであった。「正しい人生とは何かと考えるのも良い。しかし、考える間に日蓮大聖人の哲学を実践してごらんなさい。青年じゃないか。必ずいつか、自然に自分が正しい人生を歩んでいることを発見するでしょう」
  
 実践といっても、「ひとりなればしきみちにはたおれぬ」である。新たな仲間と「共に」ちょうせんを重ねる中で、信心の確信をつかんでまいりたい。
  
 続く御文では、題号にある「三三蔵」やこうぼうらによる「祈雨」の例を通して、現証の重要性を説かれている。
  
 三三蔵とは、中国真言宗のこうそうである善無畏、金剛智、不空の3人の三蔵を指す。それぞれ祈雨を試みた結果、雨はったものの、大風がいてしまい失敗に終わった。また、日本真言宗の開祖である弘法も祈雨に失敗している。一方で、法華経を根本とした天台大師と伝教大師は、たちまち雨を降らせ、大風が吹くこともなかったという。
  
 大聖人は、こうした現証にもとづいて、真言宗を破折されているのだ。
  
 さらに、本来、法華経を根本とすべき日本てんだいしゅうが、真言とのしょうれつまどい、悪道にちていったことを示された後、正法の行者がはくがいされると、ほうぼうの国はばっせられるとの経文を引用される。ここには、“亡国のにある日本を救うのは日蓮以外にいない”とのかくしんめられていると拝される。
  
 最後に、はんどくだいだっの例を挙げ、善知識を求め抜くよう説かれている。
  
 須梨槃特は極めてどんであったが、仏の教えを素直に信じたため、成仏することができた。一方、提婆達多は六万ほうぞうというぼうだいな経典を暗唱したほどのしゃであったが、ごうそうの罪を犯しけんごくに堕ちてしまったのである。
  
 この御文を拝し、池田先生はつづった。「だいな信心の行者、信行の勇者に成長するための教学である。ここをはきちがえては、絶対にならない。(中略)戸田先生も私も、『信心でげていく教学』で戦ってきた。だから学会は勝った。実践のなかで教学を学んだ学会員が堂々と勝ってきたのだ」
  
 私たち学生部の使命は、民衆を守るゆうけんの指導者に育つことだ。その根本は、どこまでも信心にあることをわすれず、日々の学会活動にけていこう。

コラム「DAGA」~この御文が分からないんだが~

 まなぶくん:大学2年生
  
 けんさん:大学4年生。学くんの部長
  
 学くん 「さんぞう」って3人もいたんですね。てっきり、1人しかいないと思ってましたよ!
  
 賢さん 学くんがおもかべているのは、『西さいゆう』に登場するさんぞうほうじゃない? ぼくもそのイメージだったから、以前、調べたことがあるんだよ。「三蔵」っていうのは、きょうりつろんの3種類の仏典にせいつうした人のことを指すんだ。『西遊記』の三蔵法師は「げんじょう」という名前だよ。
  
 学くん 玄奘三蔵って聞いたことありますね! 「ブッダ」というのも、本来は「目覚めた人」の意味で、しゃくそんだけじゃなかったんですよね?
  
 賢さん よく勉強しているね! 元々は固有名詞ではなくて、何人もいたってことだね。
  
 学くん それにしても、今回の御書では3人の三蔵が破折されまくっていたので、おどろいちゃいました。
  
 賢さん 僕も全く同じ印象だったな(笑)。ちなみに、学くんが元々思い浮かべていた玄奘について、大聖人は別のお手紙でげんきゅうされているんだよ。
  
 学くん どう言われているんですか?
  
 賢さん 「じんみっきょうへだましとす悪友は、玄奘・おんである」(通解、新1472・全1082)。つまり、今回のもんに照らし合わせれば、「悪知識」であると書かれているね。
  
 学くん 結局、三蔵法師も破折されてるじゃないですか……(笑)。なんだか『西遊記』の見方が変わっちゃうなあ。
  
 賢さん ただね、玄奘については別の御書で、こうもつづられているんだ。「玄奘三蔵は二十万里も旅してはんにゃきょうを得られた。道の遠さにこころざしがあらわれるのであろうか」(通解、新1684・全1223)。
  
 学くん まさに『西遊記』でえがかれているような部分ですね!
  
 賢さん そうだね! もちろん、相手のためにも根本的なあやまりをてきする必要はある。だけど、良い部分はみとめていくことが現実においても大切だね。
  
 学くん 確かにそうですね。僕も仏法対話をする中で、友人の良い部分をたくさん見つけて、おたがいに学び合うような関係を築いていきたいです!