〈危機の時代を生きる 希望の哲学――創価学会学術部編〉第26回 共生社会を築く言葉の力

2024年3月23日

  • 国際教養大学専門職大学院教授 左治木敦子さん

 互いを尊重し支え合う共生社会を築く上で、「言葉」によるコミュニケーションは大切な要素である。多様な人々との交流を輝かせる言葉の使い方とは何か。「危機の時代を生きる 希望の哲学――創価学会学術部編」の第26回のテーマは「共生社会を築く言葉の力」。日本語教育が専門で、国際教養大学専門職大学院教授の左治木敦子さんの寄稿を紹介する。

差異を多様性の源にする鍵は
「内省力」働かす対話に

在留外国人数は過去最多を更新している(共同)

在留外国人数は過去最多を更新している(共同)

 テレビやSNS等で「若者言葉」を時折、見かけます。中には年長者にとって、意味不明な言葉もあります。それもそのはずで、若者にしか通じない言葉で会話するからこそ、そこに一種の連帯感が生まれるのです。一方、理解できない人にとっては、その言葉が会話を阻む壁になります。
  
 若者言葉だけでなく、職場や趣味の集まりなど、特定の人同士で共有される専門用語も同様です。言葉は使い方によって、連帯感を生む基になる一方、周囲に疎外感を抱かせる壁にもなります。
  
 私たちが日頃、何げなく使っている日本語に、壁を感じる人たちがいます。例えば、日本語を母語としない非母語話者の在留外国人(日本に暮らす外国人)です。私はこれまで日本語教育、日本語教師養成に携わり、多くの非母語話者と関わってきました。
  
 在留外国人数は過去最多の約322万人です。現在、その数は増加し続けています。在留外国人が多く居住する集住地域では、近隣や職場等で在留外国人に接したり、見かけたりする機会も多いのではないでしょうか。

オノマトペと敬語

 外国人とのコミュニケーションというと、長い間、英語教育を受けてきた人は「英語を使わなくては……」と思いがちです。ですが、実は在留外国人で英語ができる人は、そんなに多くはありません。
  
 今、国内での日本人と外国籍の人とのコミュニケーションには、日本語を使う時代になっているのです。そうした背景もあり、2019年(令和元年)に日本語教育推進法が施行され、日本語の学習支援の充実が図られています。
  
 非母語話者の外国人が日本語を学ぶ場合、どのような難しさがあるのでしょうか。オノマトペといわれる擬音語・擬態語、外国語から日本語の語彙に入ってきた外来語、話し手の属性や相手との関係性により変わる敬語などが難しい例として挙げられます。
  
 例えば、痛みを表す「キリキリ」「シクシク」「ズキズキ」「ドーン」といったオノマトペは、感覚的な表現のため、非母語話者には理解しにくいとされています。
  
 次に敬語の使い方です。
 「明日、東京に行く?」という質問を上司にするときは「明日、東京にいらっしゃいますか」となります。「行く」が「いらっしゃる」になる。敬語の表現も日本語の難しさの一つです。
  
 非母語話者の外国籍の人にとっては、ごみの出し方、銀行口座の開き方などの公的情報は、入手、理解が困難なものです。多言語対応している情報もありますが、あまり多くありません。
 特に災害時の情報が届かない場合、受け取れない場合は致命的な事態を引き起こしかねません。

やさしい日本語

 言語的弱者を置き去りにしないようにするには、どうしたらいいのでしょうか。
  
 ここで紹介したい取り組みが、「やさしい日本語」です。1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災を契機に考案され、東日本大震災などでも活用されました。日本語非母語話者でも理解しやすいよう、次のような工夫が施されています。
  
 ①一文を短くする。
 「明日は雨なので、傘を持ってきてください」
 →「明日は雨です。傘を持ってきてください」
  
 ②主語を省略しない。
 「田中です」
 →「私は田中です」
  
 ③敬語(尊敬語、謙譲語)を使わない。
 「看護師をしております」
 →「看護師です」
  
 ④分かりにくい語を言い換える。
 「右折してください」
 →「右に曲がってください」
  
 これらのコツをまとめた「はっきり言う」「さいごまで言う」「みじかく言う」の最初の文字を取り、「ハサミの法則」ともいわれています。
  
 これらの工夫を施すと、次のような表現になります。
 「明日の懇談会は自由参加です」
 →「明日、先生や他の保護者といろいろ話します。行っても行かなくてもいいです」
  
 「やさしい日本語」は、日本語能力試験(JLPT)のN4からN5を想定しています。小学校2、3年で学習する程度の文字(漢字、ひらがな、カタカナ)により表現されています。「やさしい日本語」を用いた場合、情報の理解度が高くなったという調査結果も出ており、各自治体や、団体、マスコミなどでも導入する試みが始まりました。

言語的調節とは

 ここまで、在留外国人が理解しやすい日本語の発信例を紹介しました。このように相手が理解しやすいよう言葉を配慮するのを「言語的調節」といいます。
  
 実は私たちも普段、何げない会話の中で、話す相手により、難しい言葉を言い直したり、言い換えをしたりして調節をしています。「言語的調節」は、ただ内容を分かりやすく伝える技術ではなく、その背後には相手への気遣いの心があります。
  
 私は、この「言語的調節」をしてもらった個人的な経験があります。私の住む秋田県には、方言があります。この方言は県外出身の私にはなかなか分かりづらい部分があります。ある日、私が地元の温泉に行った時のことです。浴槽では二人の女性が秋田弁で仲良く話をしていました。
  
 やがて一人の女性が去り、私ともう一人の女性が浴槽に残りました。私は少し気まずい思いをしていました。というのも、私は少し前に脱衣場で、その女性から秋田弁で話しかけられていたにもかかわらず、彼女の言葉が全く分からなかったので、生返事をして通り過ぎていたのです。
  
 二人だけになると、彼女は、くるりと私の方を向き、こう聞いてきました。「今の私たちの話、分かった?」。私にも分かる言葉でした。
  
 私が小さく「いいえ」と首を振ると、その人は“なるほど”というようにうなずきました。そして、そのままの言葉で「冬の温泉は温まっていいね」と言い、浴槽を出て行きました。彼女は、私が秋田弁を分からないことに気づき(認識)、瞬時に自分の伝え方を変え(内省)、再度話しかけてくれたのです。
  
 私は脱衣場で生返事をし、彼女とのコミュニケーションをやり過ごした自分の態度を深く反省しました。とともに、彼女が、私の理解できる言葉に言い直してくれた思いやりに心が温まる思いでした。
  
 何よりも私への関わりを途中で放棄せず、最後まで「冬の温泉は温まっていいね」とコミュニケーションを取り続けてくださった積極性に心から感謝しました。
  
 共生社会を築くためには、彼女のように、対話をする際に「自分の言葉は伝わっているだろうか」と相手の反応を確かめつつ、自分の言葉や伝え方を振り返る「内省力」が大切になってきます。
  
 言葉というツール(道具)は、内省力がある人には、心と心をつなぐ「架け橋」になります。多少時間がかかっても意思疎通可能なツールを探り当てることができることでしょう。苦労をして心がつながった瞬間の喜びは忘れがたい経験となります。

因陀羅網の比喩

池田先生とアイトマートフ氏との対談集の各国語版

池田先生とアイトマートフ氏との対談集の各国語版

 そんな「架け橋」にもなる言葉ですが、内省力を阻む危険な機能も含まれています。それは言葉の持つ「ラベルを貼る」という機能です。例えば相手に「外国人」というラベルを貼ることにより、知らず知らずのうちに世間の「外国人」のステレオタイプ(先入観)のラベルまでも貼ってしまうことがあります。
  
 「外国人」=「日本語が伝わらない人」という先入観が働くと、コミュニケーションを取ろうという気持ちは途絶え、この内省力は働きにくくなります。心がラベルにとらわれてしまうからです。
  
 そうした既成のラベルを貼ることなく、「可燃ごみの出し方が分からずに、困っている隣人のリーさん」「PTAの活動に不安を感じているパクさん」のように、自分の言葉で相手を認識したとき、「どうすれば分かりやすく伝えられるだろう」と内省力が働くのです。
  
 そして、言葉の持つ壁を乗り越え、言葉の力を発揮させていく不断の努力が相手に伝わり、自らの成長にもつながるのではないでしょうか。
  
 キルギスの作家アイトマートフ氏は、池田大作先生との対談集の序文で、「言葉はつねに我々の人格を、まるで写真で写したかのように、刻印している」とつづっています。言葉は使い手の人間性そのものといえましょう。
  
 この言葉の力を見事に発揮しているのが、「言葉を自在に使う人」(ヤスパース著『佛陀と龍樹』峰島旭雄訳、理想社)と称された釈尊です。
  
 釈尊は一部の特権階級が使う高尚な言語ではなく、当時の民衆語であったマガダ語を使い、巧みな比喩や明快な道理で、分かりやすく法を説きました。
  
 共生社会を目指す上で、自分と他者との差異を対立の火種ではなく、多様性の輝きと捉えていく視点として紹介したいのが、仏典に説かれる「因陀羅網」の比喩です。
  
 帝釈天の宮殿には、結び目一つ一つに美しい「宝石」が取りつけられた「宝の網」がかかっています。どの宝石も他のすべての宝石を相互に映し出すゆえに、輝きを増しているというものです。私の大好きな比喩です。
  
 この比喩の深さは、ただ宝石が輝くという静止画的なものではありません。他の宝石の輝きを自らに映し出し、自らの輝きを増すということではないでしょうか。他を認めるだけという消極性を脱却し、相手との差異を自らに取り入れて輝くという能動的な相互作用を感じさせます。
  
 ラベルを貼った先入観で相手を見るのではなく、自分とは異なる光を放つ相手に対し内省力を使い、内包していく。その中で、多様性が輝く共生社会が築かれていくのではないかと信じます。

精神の鍛えの中で

釈尊が法を説いて歩いたインドでも、創価学会の同志の輪は大きく広がっている(昨年5月、インド・ムンバイで)

釈尊が法を説いて歩いたインドでも、創価学会の同志の輪は大きく広がっている(昨年5月、インド・ムンバイで)

 御書に「言と云うは、心の思いを響かして声を顕すを云うなり」(新713・全563)とあります。まさに相手を思いやる心から、相手に伝わる言葉が生み出されていくのだと思います。
  
 私たちは仏法対話をするとき、相手に分かってほしいとの思いから、仏法の精神をなるべくかみ砕き、相手にも分かる言葉で語ろうとします。
  
 日蓮大聖人が庶民に寄り添い、かな文字を使って手紙をしたためられたのも、そのような心遣いからではないでしょうか。都に上り、気取った言葉を使う弟子に対し、「言をば、ただいなかことばにてあるべし」(新1657・全1268)と、飾らない言葉を使うよう、厳しく教えられている箇所も見受けられます。
  
 共生社会では、まず相手に配慮する、そして自分が歩み寄るという内省力が大事です。在留外国人といっても、滞在日数や出身国などの状況によって日本語の理解度は違うものです。
  
 また、外国人(非母語話者)だけでなく、聴覚障がいや言語障がいがある人など、自分が話す言葉を受け取る相手の状況は千差万別です。
  
 そうした一人一人に対し、すぐに完璧な「相手に伝わる言葉」を話せるわけではありません。「どうすれば伝わるか」と内省し、言い直しや言い換えを繰り返す中で、次第に相手に伝わる言葉が生まれるのです。大切なのは理解してくれると相手を信じ、自らの言葉を柔軟に変えていく粘り強さではないでしょうか。
  
 池田先生は言葉を自分らしく使いこなすことの難しさについて、“言葉を使っているようでも、使われていることが想像以上に多い”と指摘されています。
  
 そして「人間であろうとするかぎり、言葉という道具を自在に使いこなせるよう、精神を鍛え上げる以外にないのです。換言すれば、人間はそのままで人間であるのではなく、“言葉の海”の中で鍛えられてこそ、人間になるのです」とまで語られています。日々何げなく口にしている言葉を、精神の鍛えの中で使いこなそうとする中で、私たちは成長していけるのです。
  
 私が言葉の教育者を目指したとき、その原点としたのは、池田先生の「言葉には翼がある」との指針です。
  
 言葉の「壁」がある世界をつなげられるのは言葉を「翼」に変えた者ではないでしょうか。これからも自らの言葉を「翼」に変える鍛えを続け、生命尊厳の哲学を語り抜いていく決意です。

プロフィル

 さじき・あつこ 博士(言語教育)。米インディアナ大学大学院博士課程修了。現在は国際教養大学専門職大学院教授。創価学会総秋田副学術部長。支部副女性部長。