〈紙上教学研さん〉 けじだましいみなもと2024年3月2日

  • 御書根本の前進! 池田大作先生の講義に学ぶ

勇気の指標

 「いっしょうじょうぶつしょう」は、“だれもが、この一生のうちに必ず仏になれる”ほうを、明快に示された希望あふれる御書です。大聖人は、今がどうあれ、また過去がどうであったにしろ、妙法をとなえる人は、必ず未来永遠に幸福を勝ち開くことができるとお約束です。
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 大聖人の仏法は、“自分の中にだいなる仏の生命がある”と、かくするところから出発します。
 ゆえに、私たちの祈りとは、何かに助けてもらうというような、“おすがりしんこう”ではありません。どこまでも自分自身の可能性を信じく戦いです。自らの生命にそなわる仏界の生命をげんしていくのです。その「つきづき」(全1190・新1620)の勝負なのです。大聖人は、「しんほか」に法を求めるならば、どんなに題目を唱えていても成仏はかなわず、むしろ無量のぎょうになってしまうとまでおおせです。
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 たとえ、人生のじょうで、自身の思いねがった通りにならなくとも、「けじだましい」の人に決してかんはありません。
 戸田先生は、女子部の友に語られました。
 「もったいなくも、ほんぶつと同じ生命を持っている自分自身にほこりをもちなさい。気高い心で、人生を勝ちぬくことです。自分自身をいやしめていくことは、絶対にあってはならない」
 “自分なんてだめだ”“自分には無理だ”など、さまざまな人生のらくたんかんしょうに流されず、ゆうゆうえていけるのが日蓮仏法です。本来、そんごくな自身の生命をわいしょうさせようとする「がんぽんみょう」をけつぜんと打ちやぶるのが、妙法のりきなのです。
 いわば、唱題とは自分自身が仏であることをおおかくす、きょうちゅうの無明とのとうそうです。ゆえにしんけん勝負です。唱題で不信をねじせ、小さな自分のからを打ち破ることです。題目こそ、あいさえもそうぞうげんせんに変えゆくこんげんちからなのです。
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 戸田先生は、ごくちゅうにあって、祈りをかさね、「仏とは生命なり!」「われさつなり!」とだつされました。そして、私たちにかりやすく、「自分自身が南無妙法蓮華経だと決めることだ!」と、祈りの根本姿せいを教えてくださったのです。
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 “自分自身が妙法のとうたいなり”と心さだめた人生におそれるものはありません。(中略)
 誰がなんと言おうと、誰もが、偉大な広布の使命をになった、かけがえのないたからの一人です。その人にしか広げることのできないぶつえんを持った、とうとほうゆうです。
 私は青年を信じます。たとえどんなことがあっても、必ず、立ち上がってくれることを、私は祈り、待ち続けます。
 人のほうへんまわされる必要などない。自分らしく、学会っ子らしく、創価の若人わこうどらしく、おうばいとうの使命の道をほがらかに、堂々と歩んでいけばいいのです。

創価世界女性会館を訪問した池田先生ご夫妻が、見つめ合う母と子を描いた絵画「ハッピーマザー」を鑑賞(2000年9月)。先生はかつて、同会館で行われた婦人部(当時)の会合に伝言を寄せた。「一人ももれなく、幸福になってください。一日一日が有意義で、楽しい人生を生き抜いてください。どんなに苦しいことがあっても、法華経の行者は、すべてを楽しみに変えていく力を持っていなければならない」「永遠に幸福と勝利の人生を歩んでください」

創価世界女性会館を訪問した池田先生ご夫妻が、見つめ合う母と子を描いた絵画「ハッピーマザー」を鑑賞(2000年9月)。先生はかつて、同会館で行われた婦人部(当時)の会合に伝言を寄せた。「一人ももれなく、幸福になってください。一日一日が有意義で、楽しい人生を生き抜いてください。どんなに苦しいことがあっても、法華経の行者は、すべてを楽しみに変えていく力を持っていなければならない」「永遠に幸福と勝利の人生を歩んでください」

森川裕子 女性部主任部長

“幸福の春”をつくり広げる

 仕事や家庭、けっこん、子ども、体調のことなど、なやみもにわたり、目まぐるしい変化の中で、なんにも直面するヤング白ゆり世代。だからこそ、改めて心にきざみたいもんが「いっしょうじょうぶつしょう」の一節です。
 先生は、ほんしょうの講義のぼうとうで、「『けじだましい』をつらぬく上での第一のようていは『自分自身を信じく』ことです」と強調されています。
 自分自身を信じ抜くといっても一人ではむずかしいものです。私自身、自分を大切に思えるのは、私という人間を信じいてくださったしょう、家族や友人、同志がいたからだと感謝はきません。
 中学生のころおさななじみの友人がりょの事故でくなりました。命のはかなさがむねせまり、生きる意味がからなくなりました。
 それまで、なんとなく祈っていましたが、この時初めて、苦しいむねのうちをそのまま御本尊にぶつけ、おもいのたけを池田先生への手紙に書きました。すると思いがけず、先生からの伝言が。一人の未来部員のなやみにい、はげましてくださる先生、そして、母や地域の学会員さんの真心にれ、“悲しみを前進への勇気に変えていく。これが創価の祈りであり、生き方なんだ。友人の分も生きこう”と前を向くことができました。
 この希望のてつがくを伝えたいと、女子部(当時)になってからはしゃくぶくにもちょうせん。しかしなかなかきょうは実りませんでした。あきらめそうになる自分の心と戦っていた時、ちょうど今回の「一生成仏抄」の講義が「大白蓮華」にけいさいされました。
 「『しんほか』に法を求めるとは、自分のそとに、幸・不幸の原因と結果を求めることです。“あの人が悪い”“条件が悪かった”といった、責任てんもそうでしょう」
 “そうだ! 心のどこかで、かんきょうのせいにして、諦めている自分がいなかったか。他のだれでもない、自分が友人の幸福責任者なんだ”――唱題をかさねる中でそうはらが決まった直後、友人が「情熱に心動かされたよ」と、入会しました。“自身が妙法のとうたい”との強き確信が、自他共の幸福を開いていくと実感できたことが、今も自分の“けじだましいみなもと”になっています。
 今、池田先生からいだ人間主義のバトンをにぎりしめ、日常でえんする方を大切に、しんらいと友情をきずく対話に挑戦しています。
 池田先生は、たとえ“試練の冬”が続いたとしても、題目根本に“幸福の春”をつくり広げる創価の女性をたたえ、「ヤング白ゆりの年代を、私は『青春』に続く『そうしゅん』の時代と意義づけたい」とつづってくださいました。
 苦難に直面したときこそ、“先生、見ていてください。私は絶対に負けません!”と、ほがらかに前進し、自分らしく幸福の春を創り広げていきます。

いっしょうじょうぶつしょう

 妙法蓮華経ととなたもつというとも、もししんほかに法ありと思わば、まったく妙法にあらず、ほうなり。(中略)ゆえに、妙法と唱え蓮華とまん時は、いちねんして妙法蓮華経とづくるぞとふかく信心をおこすべきなり。
(新316・全383)

メモ

 建長7年(1255年)のちょさくとされる。南無妙法蓮華経の題目を唱えることが一生成仏のじきどうであることを強調されている。

今回の池田先生の御書講義は、『わが愛する青年に贈る』からの引用です。

 

 

 

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