〈ONE GOSHO この一節とともに!〉男子部教学室編
諸法実相抄
「行学の二道」に励み抜け
 鍛えの夏から対話拡大の秋へ――。仏道修行の根本である「行学の二道」について学ぶ。
背景
 本抄は文永10年(1273年)5月、日蓮大聖人が流罪地の佐渡・一谷で著され、法華経の方便品第2に説かれる「諸法実相」について質問をした弟子・最蓮房への御返事である。
 追伸の御文に「日蓮が己証の法門等かきつけて候ぞ」(新1793・全1362)と仰せのように、大聖人の仏法の肝心の法門が述べられている。
 最蓮房は、大聖人と同時期に佐渡に流罪されていた天台宗の学僧で、大聖人と出会って弟子となったと伝えられている。
御文
 

 

 

。行学たえなば仏法はあるべからず。我もいたし、人をも教化候え。行学は信心よりおこるべく候。力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし。(新1793・全1361)
通解
 行学の二道を励んでいきなさい。行学が絶えてしまえば仏法はない。自分も行い、人をも教え導いていきなさい。
 行学は信心から起こる。力があるならば一文一句であっても人に語っていきなさい。
解説
 本抄の題号の「諸法実相」は、朝夕に勤行で読誦する方便品第2に出てくる経文である。勤行の際は、この文に続けて、「所謂諸法。如是相。如是性。……如是本末究竟等」と、3回繰り返して読誦しており、重要な内容が示されている。
 「諸法実相」とは、私たちと私たちを取り巻くあらゆる事象(諸法)の全て
が、ことごとく妙法蓮華経の姿(実相)であり、どの生命にも仏界を含む十界が具わっていることを意味する。
 それまでは、仏と衆生の間には越えがたい断絶があると考えられていたが、この法理によって、本質的に全て妙法蓮華経として平等であることが示され、法華経以前の経典では説かれていない「万人成仏」の可能性が根拠づけられた。 日蓮大聖人は今回の御文の前段で、「全世界第一の御本尊を信じていきなさい。よくよく心して、信心を強くして、釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏の三仏の守護を受けていきなさい」(通解)と、御本尊への強き「信」こそ最も肝要であることを示された。そして今回の御文では、「行学の二道」の重要性を教えられている。
 「行」とは仏道修行の実践であり、「自行」と「化他行」がある。自行とは勤行・唱題、化他行とは折伏・弘教をはじめ、友の幸せを願って仏法を教える実践のことをいう。
 また、「学」とは、教学の研さんであり、御書を根本に仏法の理解を深めることである。
 大聖人は、行学が絶えてしまえば仏法はないと仰せである。行学の実践が両輪となってこそ、自身の人間革命、宿命転換が進んでいく。“学なき行”は、信仰の目的を見失い、地図を持たずに旅をするようなものである。反対に、“行なき学”は、観念の遊戯であり、現実の変革に何も寄与することのできない、抽象的な信仰に堕してしまう。たゆみなき行学の実践こそ正しい信心に不可欠である。
 さらに大聖人は、行学の根本が信心にあることを改めて示された上で、「力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし」と仰せである。
 「力あらば」とは、私たちの信心の姿勢から捉えれば、「大きな力があれば」ではなく、「力の限り」と拝し、自分らしく一言でも語っていくことである。妙法を一言でも語り広げていく人は誰であれ「仏の使い」であり、弘教が実る、実らないを問わず、無量の福徳を得ることは間違いない。
 池田先生は小説『新・人間革命』第30巻〈上〉「雄飛」の章でつづられた。 「『行学』に励む人こそが、真の日蓮大聖人の門下です。そして、この二道の絶えざる実践がなければ、それは、もはや仏法ではないと、大聖人は仰せなんです。このお言葉通りに実践し、さまざまな難を受けながら、広宣流布を進めてきたのは学会しかありません。この厳たる事実は、誰人も否定することはできない。『行学』の二道は、信心から起こる。『行学』を怠っているということは、信心を失っていることにほかならない」と。
 10月には「教学部初級試験・青年部教学試験3級」が控えている。日蓮仏法の生命哲理を学んだ感動と歓喜を堂々と友に語り広げ、「行学の二道」に励み抜いていこう。