【世界広布の(げん)(りゅう) 青年に語る創価の(たましい)】第29回 (しょう)(がい)(せん)と人間外交〈上〉

·〈出席者〉 谷川主任副会長、(やな)(しま)男子部長、林池田華陽会委員長、(もり)(その)学生部長、先﨑女子学生部長

全国青年部幹部会の意義を込めて開催された本部幹部会で、勇気を送る池田先生(2010年2月、東京・創価国際友好会館〈当時〉で)。席上、先生は埼玉での若き日の外交戦に言及。「私は、わが師に対する侮辱を、絶対に許さなかった」と。さらに、「伸びゆく後継の友の姿こそ、私の誇りであり、喜びである。本当の勝負は、これからだ。これからが、一番大事である」と強調した

“逆風”を()(やく)の“追い風”に!

 ◆(もり)(その) このたび学生部長の大任を(はい)しました。(せん)()の使命を()たすべく、全力で戦ってまいります。
 今回は「(しょう)(がい)(せん)と人間外交」をテーマに、谷川主任副会長にお話を(うかが)います。池田先生は1954年(昭和29年)12月、初代の渉外部長に(しゅう)(にん)されました。同年3月には、青年部の室長にも任命されています。
  
 ◇谷川 54年といえば、戸田先生の(しょう)(がい)の願業である75万世帯の達成に向け、学会が()(ちく)の勢いで前進していた年です。それに(ともな)って、新たな(みん)(しゅう)勢力の台頭を(はば)もうとする動きが(けん)(ざい)化してきたのも、この頃です。
 同年12月20日の日記に、先生は渉外部長に就任された(そっ)(ちょく)な思いを(しる)しています。
 「(うれ)しくもなし、楽しくもなし。実際は毎日(じっ)(せん)していることなれば」
 ()(かえ)れば、50年(同25年)8月、戸田先生が経営する信用組合は戦後の(けい)(ざい)()(きょう)によって、()(たん)が決定的となります。その(うわさ)を聞きつけた記者がスクープにしようと近づいてきます。この時、恩師に代わって、対応したのが池田先生でした。渉外部長に就任される前から、先生は(なん)(きょく)に対応してこられました。
 また、先生が渉外部長に任命される前月の54年11月、NHKが戸田先生に、宗教学者との(てい)(だん)(もう)()んできました。その(よう)(せい)に応じた恩師は、2人の宗教学者と鼎談します。
 その内容は、NHKのラジオ番組で放送されました。戸田先生は、社会に広く創価学会の実像を伝える必要性を感じ、渉外部を設置されたのです。
 池田先生が渉外部長に就任されて間もない55年(同30年)2月、全国紙が埼玉版に学会の()(はん)記事を(けい)(さい)しました。先生はその新聞の本社を(おとず)れ、(げん)(じゅう)(こう)()します。
 記事の内容は「いつ」「どこで」「だれが」といった具体的な()(さい)がなく、会員数や戸田先生の氏名など、基本的な情報すら()(ちが)っているという、(きわ)めてずさんなものでした。
 池田先生は、新聞本社に続いて(うら)()支局にも足を運びます。支局長と面会した先生は、理路整然と真実を(うった)え、支局長は非を(みと)めます。その後、再び浦和支局を(たず)ね、(てい)(せい)記事とともに、学会側の(はん)(ろん)が掲載されることになります。
 「外交のできない人間は、本物の指導者になれない」との戸田先生の言葉を通して、池田先生は私たちに()(かえ)し、外交の大切さを強調されました。
 学会に無理解な人、批判的な人をいかに味方にしていくか。仏法用語を分かりやすく、かみ(くだ)いて、説明できるか。(げん)(ろん)(ちから)で学会理解を広げることこそ、広宣流布の戦いではないでしょうか。
  
 ◆先﨑 池田先生が第3代会長に就任後、学会を(おそ)った初めての大試練が、69年(同44年)11月末ごろから起こった「言論・出版問題」でした。
  
 ◇谷川 事の(ほっ)(たん)は、学会批判書を書いた(ちょ)(しゃ)に、学会の幹部が事実に(もと)づく(しっ)(ぴつ)を要望したことでした。批判書の著者は、そのことを言論(だん)(あつ)として(さわ)ぎ立て、(せい)(とう)や宗教勢力も、こぞって学会(こう)(げき)に加わりました。
 この時も、先生が(いっ)(さい)()(おもて)に立ち、学会を守ってくださいました。
 「言論・出版問題」の直後から、先生が力を(そそ)がれたことの一つが、執筆活動です。
 70年(同45年)に『私の人生観』、(よく)71年(同46年)には『私の人生(ずい)(そう)』を刊行。その後、『私の(しゃく)(そん)観』などの教学(ちょ)(さく)を次々と(あらわ)され、学問的研究の成果を()まえ、創価学会に(みゃく)()つ仏法の英知を社会に発信していきます。
 御書には「人の地によって(たお)れたる者の、(かえ)って地をおさえて()つがごとし」(新697・全552)と(おお)せです。
 先生は、「言論・出版問題」を新たな言論(とう)(そう)を開始する起点とされ、かつてない“逆風”を、広布を()(やく)させる“追い風”に転じていかれたのです。

NHKのラジオ番組に臨む戸田先生(1954年11月、東京・信濃町の学会本部で)。若き池田先生も同席した

「一()われたら十()い返す」

  
 ◆林 谷川主任副会長の青年部時代、週刊()による学会のデマ報道が過熱しました。
  
 ◇谷川 私が青年部長に()いた1993年(平成5年)は、細川(れん)(りつ)(せい)(けん)(たん)(じょう)し、自民党が政権の()から()()した年です。
 ()()(かん)(いだ)いた自民党を()(えん)する宗教団体、さらには学会に批判的な文化人らによって、翌94年(同6年)5月、「四月会」が結成されます。設立総会には、当時の自民党、社会党、新党さきがけの3党首も顔をそろえ、学会を(はげ)しく批判します。
 同年6月、その3党による連立政権が誕生します。しかし、自民党と社会党は(あん)(ぜん)()(しょう)(ふく)()など、重要(せい)(さく)に関して正反対の姿()(せい)。支持率は(てい)(めい)します。その打開のため、()(とう)の一部議員が利用したのが、週刊誌の学会に対する悪質なデマ報道でした。
 交通事故の()(がい)(しゃ)を“殺人犯”(あつか)いした「北海道の(えん)(ざい)報道事件」(94年8月)、女性市議の転落死を「他殺」と(さわ)いだ「東村山デマ事件」(95年9月)、金銭問題を起こし、学会の役職を解任されて(だっ)(かい)した夫婦が起こした「(きょう)(げん)()(しょう)事件」(96年2月)などです。
 当時、こうした一部マスコミのデマ報道が出るたび、青年部は抗議に向かいました。週刊誌(がわ)とのやりとりは、(ちょう)(ちょう)(はっ)()と渡り合うこともありました。
 これらのデマ事件は全て、(さい)(ばん)によって事実無根であることが明らかとなり、学会の勝利で決着しています。
 また、時の首相が謝罪の意を伝えてくるなど、学会の正義が(まん)(てん)()に示されました。
 先生は、「(だま)っていては、悪が助長するだけです。一言われたら、十言い返す」「その断固たる言論戦の中にしか、正義の勝利はない」と断言されています。
 渉外で「(せい)(じつ)」が大切なことは言うまでもありません。その上で、真実が(ゆが)められようとしている時は、一歩も退いてはならない。()(ぜん)と対応することです。燃え立つ正義の心こそ、青年部の(たましい)です。
  
 ◆(やな)(しま) 過去に裁判で断罪されたデマが、今年6月に()し返されました。“学会が会員に指示をして組織的に住民票を不正に移動させ、投票をさせている”という事実無根の内容です。学会本部はただちに、記事を掲載した週刊誌を(めい)()()(そん)(うった)えました。
  
 ◇谷川 「住民票移動」(うん)(ぬん)の話は、これまで何度も出てきていますが、全くのでたらめです。デマを流した人物やマスコミは、「いつ」「(だれ)が」「どこからどこへ」移動したのかという(しょう)()を示すことができず、謝罪、(てっ)(かい)、訂正をしています。
 古くは55年前の68年(昭和43年)、当時の大臣がこのデマを(ふい)(ちょう)し、後に「(こん)(きょ)は何もない。(きょう)(しゅく)している。今後、根拠のない発言は(つつし)む」と謝罪しました。
 93年には、全国紙の地方版が同様のデマを掲載。ところが、学会が抗議すると、翌日付で「うわさのような事実はありませんでした。十分な(うら)()け取材をせず、掲載したことで、関係者(なら)びに読者にご(めい)(わく)をおかけしました。おわびします」と訂正記事を()せています。
 2005年(平成17年)には、旧民主党所属の代議士が同様のデマ発言を(かさ)ね、後に名誉毀損罪で(ばっ)(きん)(けい)を科せられました。
 これらの事実は、学会に対する意図的な()(ぼう)(ちゅう)(しょう)()(かえ)されることを示しています。
 創価学会は広宣流布を進める団体です。その()(じょう)には、御書に「必ず(さん)(しょう)()()と申す(さわ)りいできたれば、(けん)(じゃ)はよろこび()(しゃ)は退く」(新1488・全1091)と(おお)せの通り、必ず(しょう)()(あらし)(きそ)い起こります。
 (うそ)やデマに対して、黙ってはいけない。“事実は明らかになっているから”という油断は(きん)(もつ)です。そこから、噓・デマは(かく)(さん)していきます。戦う心を燃え上がらせ、正義を語って、語り()くことです。