〈「教学部教授講座」のために〉 かんじんのほんぞんしょう2024年2月18日

  • みんしゅうの中でともの幸福築く

 「教学部教授こう」が、23日(金・祝)から3月3日(日)まで、「SOKAチャンネルVOD」で全国配信されます(配信の会場と時間等は各県・区で決定。「モバイルSTB」「SOKAnet会員サポート」では配信しません)。対象は、「教授」「名誉教授」「青年部教学資格1級」を持つ壮年・女性部員(池田ようかいのぞく)。はん・準師範資格の方も参加可能。ここでは、同講座の教材として、今回学ぶもん・通解ならびに池田先生の指導をけいさいします。受講者は、御書と教材(本紙面)を持参してください。

 紙面のPDFはこちら。

本抄について

 「かんじんのほんぞんしょう」は、ぶんえい10年(1273年)4月25日、日蓮大聖人が52歳の時、流罪地の一谷いちのさわじゅっさくになり、しもうさのくに(現在の千葉県北部などの地域)の門下・じょうにんに送られた重書です。
 本抄では、御本尊をじゅし、南無妙法蓮華経のしょうだいはげむことが、末法における成仏の修行であるという「じゅそくかんじん」の法門が明かされます。
 続いて、末法の衆生が成仏のために信受すべき本尊について述べられ、その本尊は法華経本門のかんじんである南無妙法蓮華経の御本尊であり、さつによってひろめられることが明かされます。
 最後に、成仏の根本法である一念三千を知らない末法の衆生に対して、仏がだいを起こし、一念三千のたまを包んだ妙法五字をじゅされることを述べて、本抄を結ばれます。

御文1 じゅそくかんじんを明かす

 しゃくそんいんぎょうとくほうは妙法蓮華経のそくす、われらこの五字をじゅすれば、ねんいんどくゆずあたえたもう。(御書新版134ページ17行目~135ページ1行目、御書全集246ページ15行目~16行目)

通解1

 釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足しており、私たちは、この妙法蓮華経の五字を受持すれば、おのずと釈尊の因果の功徳を譲り与えられるのである。

池田先生の指導から1

 戸田先生は、『かんじんのほんぞんしょう講義』を発刊された一九五五年(昭和三十年)ころ、各地で、かえし「じゅそくかんじん」の法理を語られました。
 ある時には――人間はみな、平等でありたいと思っていても、現実には、千差万別のなやみや苦しみがある。しかし、御本尊を受持して、妙法をとなえきっていけば、だいな「とく」がげんぜんと現れ、「宿しゅくめいてんかんびんぼう、病人、家庭の悩み等、いっさい人生の苦を解決することは、絶対にうたがいない事実である」と。
 また、ある時には――御本尊を受持すれば、自分が過去世につくらなかった、裕福になるなどの幸福の「原因」をそくにくださる。「あとは自分の信心と、しゃくぶくによって、結果を勝ちとらなければいけない」と。
 「ばんにん成仏の法」を、一人一人がじっせんし、その一人一人が人間革命をげる。そのために御本尊があるのです。(『人間革命の宗教』)

御文2 大聖人があらわされた御本尊のそうみょう

 そのほんぞん為体ていたらくは、ほんしゃうえほうとうくうし、とうちゅうの妙法蓮華経のゆうしゃぶつほうぶつしゃくそんきょうたるじょうぎょうとうさつもんじゅろく等は四菩薩のけんぞくとしてまつに居し、しゃっほうだいしょうもろもろの菩薩はばんみんだいしょしてうんかくげっけいるがごとく、じっぽうしょぶつは大地の上にしょしたもう。しゃくぶつしゃくひょうするゆえなり。(御書新版136ページ9行目~12行目、御書全集247ページ16行目~248ページ1行目)

通解2

 この南無妙法蓮華経の本尊のありさまを言えば、本師(おんほんぶつ)が常住するしゃかいの上に宝塔が空中にかび、その宝塔の中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏と多宝仏がならび、釈尊の脇士として上行らのの四菩薩がならび、文殊菩薩や弥勒菩薩らはこの地涌の四菩薩の眷属として末座にいて、迹化や他方の大小のしょさつは万民が大地にあって雲客や月卿をあおるように二仏・四菩薩らを仰ぎ見ており、十方から集まってきたふんじんの諸仏は大地の上にいる。
 それは、彼らが迹仏であり、その国土が迹土であることを表すためである。

池田先生の指導から2

 中央の「南無妙法蓮華経」は、こんげんの真理を示すものです。言うなれば、生命ちゅうちゅうしんじくなので、くうの中心にきつりつするほうとうで示されている。その左右に、しゃぶつほうにょらいがいる。これらは、妙法蓮華経の働きを示す仏です。
 多宝如来は、ぶつであり、永遠の真理を表す。たいきょう(対象)としての法を示しています。しゃくそんは、げんざいぶつです。法を現実にさとる智慧を表している。
 まさに南無妙法蓮華経の二つの側面です。
 ぶつびょうとは、真理と智慧のいっきょうみょうごうを示すものです。
 ◇
 大事な点は、釈迦・多宝をほんぞんとするのではない、ということです。釈迦・多宝も南無妙法蓮華経によって成仏したのです。どこまでも、成仏のこんげんの法である南無妙法蓮華経を本尊とするのです。
 そのことは、御本尊のそうみょうで、南無妙法蓮華経が中央に大きくしたためられ、その左右に釈迦・多宝が位置していることにも明らかです。(『池田大作全集』第32巻所収、「御書の世界」)

御文3 さつの出現とその使命

 このときさつはじめてしゅつげんし、ただ妙法蓮華経ののみをもってようふくせしむ。(中略)かくのごときこうだいさつさんぶつやくそくしてこれをじゅす。まっぽうはじめにでたまわざるべきか。まさるべし、この四菩薩、しゃくぶくげんずるときけんおうっておうかいしゃくし、しょうじゅぎょうずる時はそうと成ってしょうほうす。(御書新版145ページ7行目~13行目、御書全集253ページ16行目~254ページ2行目)

通解3

 この時、地涌の菩薩が初めて世に出現し、妙法蓮華経の五字という大良薬だけを幼稚のしゅじょうに飲ませるのである。(中略)
 このような高貴な大菩薩が、釈迦仏、多宝仏、十方のふんじん諸仏という三仏に対して末法つうを約束して、妙法蓮華経の五字を受持したのである。どうして末法の初めに出現されないことがあるだろうか。
 まさに知るべきである。この地涌の菩薩の指導者である四菩薩は、折伏を現ずる時は賢王となって愚王をいましめ、摂受を行ずる時は僧となって正法をたもひろめるのである。

池田先生の指導から3

 どこまでもほうぼうじゅうまんあくの中で仏法をつうする、末代にわたってのだいしゃくぶくぎょうがいかにだいせいぎょうであるかを教えられている、まことにじんじんせいくんです。
 末法の広宣流布とは、現実社会に生きる目覚めたみんしゅう自身が、民衆の海の中で、目の前の一人の民衆の生命へんかくいどんでいく以外にないとのだいせんげんであるとはいされます。
 いずれにせよ、「ともの幸福」を築くための行動がなければ、さつではありません。人間ののうしょもんだいを解決し、その社会的使命をたしてこそ、真の菩薩です。
 現実の社会にあって、日常の人間生活にあって、仏法の生命そんげんの思想をしんとうさせていく「けんおう」という人間主義のいは、具体的には、文化・教育・平和の次元に現れます。「文化の大地」をたがやし、「教育の大光」を広げ、「平和の大道」を開いていくのです。けんらんたる人間革命の文化がそうしゅつされます。その中で人類の調和と共生の花をらんまんかせていくのです。(『人間革命の宗教』)