〈栄光の共戦譜〉第24回 1982年(昭和57年)㊤「青年の年」2024年2月5日

  • 正義の勝ち鬨が轟きわたる

 池田先生の第3代会長就任60周年を記念して発刊された年譜『栄光の共戦譜』には、黄金の“師弟の足跡”がとどめられている。本連載では、年譜を1年ごとに追いながら、現在の広布の活動に通じる“学会の原点”を確認していく。第24回は、「青年の年」と銘打たれた1982年(昭和57年)の㊤を掲載する。

「1月10~15日」雪の秋田での激励

雪の秋田指導。池田先生は何度も路上で同志を激励した(1982年1月10日)

雪の秋田指導。池田先生は何度も路上で同志を激励した(1982年1月10日)

 1982年(昭和57年)1月10日、池田先生は10年ぶりに秋田を訪れた。秋田は第1次宗門事件で、激しい嵐が吹き荒れた地だった。前年秋から本格的な「反転攻勢」を開始した先生は、“一刻も早く”との思いで駆け付けたのである。
 先生が秋田空港のビルを出ると、70、80人ほどのメンバーが待っていた。秋田文化会館(当時)に向かう途次にも、“先生はこの道を通るに違いない”と集った、多くの同志があふれていた。先生は、何度も車から降りては友の輪の中に入り、抱きかかえるように励ました。この“街頭座談会”は計9回に及んだ。
 「皆さんにお会いしに来ました! 今日の記念に写真を撮りましょう!」
 「私の心には、いつも皆さんがいます。題目を送っております」
 先生の真心の言葉に、秋田の同志は師子の誓いを叫んだ――「先生! 私たちは大丈夫です。何を言われようが、信心への確信は揺らぎません」
 その後も、先生は連日、功労者宅の訪問や会合激励へ。13日には、先生の提案で、自由勤行会と記念撮影が行われることになった。前夜から雪が降り続く中、悪僧による迫害に負けることなく、正義を貫く能代や大曲などの地域からも、喜々として同志が集ってきた。
 撮影は、秋田文化会館に隣接する公園で行われた。先生と共に「人間革命の歌」を合唱し、寒風の中、「エイ・エイ・オー!」の勝ち鬨が轟いた。それは、秋田の大勝利宣言そのものであった。
 先生は「雪の秋田指導」の6日間で、9300人の友を激励。さらに、陰ながら諸行事の成功を祈ってくれた同志を、後年、「雪の秋田指導 栄光グループ」と名付け、たたえた。不屈の師弟のドラマは、秋田広布の永遠の原点として輝く。

「2月7~12日」厳寒の茨城指導 

鹿島会館(当時)を訪れ、けなげに奮闘する友をたたえようと、ピアノを奏でた(1982年2月11日)

鹿島会館(当時)を訪れ、けなげに奮闘する友をたたえようと、ピアノを奏でた(1982年2月11日)

 茨城の友もまた、宗門の悪僧らによる卑劣な学会攻撃に苦しめられてきた。
 「一人でも多くの同志と会い、希望の目標を示し、新世紀への出発をしたい」――池田先生は1982年(昭和57年)2月7日、茨城に入った。6日間にわたる「厳寒の茨城指導」がスタートした。
 翌8日、茨城文化会館落成を記念する幹部会に出席。席上、退転者の根本原因について言及し、「結局は、求道の人、着実にして地道な信心の人、生活という足元をしっかりと固めてきた人が、人生の勝利者」との指針を示す。
 10日には県北東部の日立市へ向かい、寸暇を惜しんで友に励ましを送った。
 11日は恩師の生誕の日であった。この日、茨城文化会館で茨城県青年部総会が盛大に開催される。総会に、先生の出席はなかった。しかし会合のさなか、終了後に急きょ記念撮影を行う連絡が入った。会場は、大きな歓喜に包まれた。
 先生と3500人の男女青年部との、会館敷地内での記念撮影。屋外の寒さの中、誰もが師弟のぬくもりを実感した。
 先生は、青年に万感の期待を寄せた。
 “堂々と地域を変え、堂々と社会で、人生で勝っていただきたい。皆さんの成長を真剣に願っています”
 同日、先生は休む間もなく鹿島会館(当時)へと出発。鹿島地域では、悪僧との攻防が続いてきた。
 「鹿島は勝ったね」――功労の友らをたたえ、皆で万歳三唱を行う。同志の心に勝利の炎が燃え盛った。先生は、茨城指導の最終日である12日、土浦に足を運び、絆を結び続けた。
 今月、「厳寒の茨城指導」42周年を迎える。総茨城の同志は、師との誓いを胸に、「梅花月間」(3月24日まで)を拡大に駆ける。

「3月22日」関西青年平和文化祭

「関西魂」の人文字を背景に六段円塔がそびえ立った(1982年3月22日、大阪・長居陸上競技場〈当時〉で)

「関西魂」の人文字を背景に六段円塔がそびえ立った(1982年3月22日、大阪・長居陸上競技場〈当時〉で)

 四国で「紅の歌」が発表され、「反転攻勢」が高らかに宣言された1981年(昭和56年)11月、池田先生は関西へ。その折、関西の青年たちは決意を語った。「来年3月の関西青年平和文化祭は、『学会ここにあり、創価の師弟は健在なり!』と、満天下に示す舞台にいたします」「10万人の青年がお待ちしております」
 迎えた82年(同57年)3月22日、大阪・長居陸上競技場(当時)で、第1回関西青年平和文化祭が開幕した。前日の雨は上がり、快晴の空が広がっていた。
 オープニングを飾ったのは、新会員1万人の大行進だった。反転攻勢とともに、関西の拡大の勢いは加速していた。
 文化祭は、クライマックスである男子部による六段円塔へ。観衆が固唾をのんで見守る中、円塔の頂上の青年が立ち上がった。その瞬間、競技場は大歓声に包まれた。スタンドには、先生の筆による「関西魂」の人文字が躍った。
 師も見つめる中、不可能を可能にする不屈の関西魂の象徴ともいうべき、“不滅の六段円塔”が築かれたのである。
 文化祭では、核兵器廃絶などを強く訴える「平和宣言」を採択。
 先生は、「平和は、人類の願望である。私どもは正法正義を根本とし、ただひたすらに、平和に向かって前進してまいりました。また、これからも、断固、進んでいかねばならない」と力説。平和のバトンを青年に託した。
 後年、先生は同文化祭について書きとどめ、関西の同志に呼びかけている――「この常勝の歴史は、広宣流布の創価学会史に、今もって不動である」「不可能を可能にしゆく『関西魂』! これを『常勝関西』と、私は呼ぶ。『常勝関西』と、私は叫ぶ」

◆年表◆
1982年㊤

神奈川文化会館から望む横浜港を、池田先生がカメラに収めた(1982年1月)。同会館で行われたこの年の新年勤行会で先生は、「正法の信仰を持った人々の存在が、いよいよ輝きわたる時代に入った」と指導した

神奈川文化会館から望む横浜港を、池田先生がカメラに収めた(1982年1月)。同会館で行われたこの年の新年勤行会で先生は、「正法の信仰を持った人々の存在が、いよいよ輝きわたる時代に入った」と指導した

 〈1月1日〉
 神奈川文化会館で新年勤行会の全会場に出席
 合わせて1万7500人の同志を激励
 全国大会初出場の創価高校サッカー部のメンバーを励ます
 
 〈1月10日〉
 雪の秋田指導(~15日)
 自由勤行会。秋田文化会館に隣接する公園で参加者と記念撮影。「人間革命の歌」を大合唱し、勝ち鬨(13日)
 第1回秋田県青年部総会、二〇〇一年第一期会を結成(14日)
 秋田と大分の「姉妹交流」を記念する勤行会(15日)
 
 〈2月7日〉
 茨城指導(~12日)
 茨城県幹部会(8日)。日立会館(10日)、鹿島会館(11日)、土浦文化会館(12日)での集いで激励
 
 〈3月21日〉
 関西指導(~25日。大阪)
 第1回関西青年平和文化祭(22日)
 男子部の組み体操では、至難の六段円塔が披露された

関西指導のさなか、友を励ますため、「大兵庫広布之誓」などの書をしたためた(1982年3月、大阪・堺文化会館で)

関西指導のさなか、友を励ますため、「大兵庫広布之誓」などの書をしたためた(1982年3月、大阪・堺文化会館で)