【世界広布の(げん)(りゅう) 青年に語る創価の(たましい)】第19回 聖教の(そう)(かん)〈下〉

·〈出席者〉長谷川理事長、(やな)(しま)男子部長、林池田華陽会委員長、田島学生部長、先﨑女子学生部長

反転(こう)(せい)だ! (せん)(とう)開始だよ!

「創価学会 世界聖教会館」(池田先生撮影。2019年9月、東京・信濃町)。師は呼びかける――「わが聖教よ! 常に新しく! 常に挑戦の心で! 常に勇気凜々と! 広宣流布の大舞台で新風を巻き起こせ!」「聖教と共に、我らは今日も、この『人間革命』の対話の正道を、そして『立正安国』の言論の大道を爽快に切り開いていこうではないか!」

 ◆林 聖教新聞は、(そう)(かん)から10年を(きざ)む1961年(昭和36年)、100万部を(とっ)()し、(よく)62年(同37年)から、週3回刊となります。
  
 ◇長谷川 63年(同38年)、私は本部職員として、聖教新聞社の編集に配属となりました。週3回刊だった当時のことをよく覚えています。
 64年(同39年)、聖教は200万部を突破し、9月12日付で創刊1千号を(むか)えます。そして、65年(同40年)7月15日、同志の念願だった日刊化が実現するのです。
 この年の元日から、池田先生は小説『人間革命』の(れん)(さい)をスタートします。日刊化に(ともな)い、連載の回数は、週3回から7回に増えました。
 世界への平和旅や会員の(げき)(れい)など、()(ぼう)の合間を()って、先生は(しっ)(ぴつ)を続けられました。小説『新・人間革命』第10巻「(げん)(ろん)(じょう)」の章には、当時の真情がつづられています。
 「自身への()(こく)(ちょう)(せん)であったが、師の戸田城聖と心で対話しながら、会員への(はげ)ましの手紙をしたためる思いで、ペンを()り続けていった」
 業務に当たる聖教の編集部員にも、温かく激励されました。当時は活字を組んで()る活版印刷の時代です。先生は、何度も印刷工場にまで足を運ばれ、インクで真っ黒になったスタッフを励ましてくださいました。
 私は編集に配属された当初、記事を上手に書くことができませんでした。学会活動を終えると、そのまま職場に(もど)り、深夜まで(つくえ)に向かう日々でした。
 それでも、原稿は“ボツ”の連続です。行き()まりを感じていた時、先生が「元気か! (がん)()れ!」と声をかけてくださり、その上さらに、戸田先生の和歌を色紙にしたため、(おく)ってくださったのです。
 「(つら)くとも (なげ)くな友よ ()()の日に 広宣流布の (らく)()をぞ見ん」
 和歌を見つめながら、“そうだ。今の苦労は必ず未来の財産になる。決して自分の弱い心に負けまい”と(ふる)()ちました。
 この時、先生が手塩にかけて育成してくださった職員は、広布のリーダーとして(かつ)(やく)しています。
 創刊以来、聖教の全てが池田先生の手づくりでした。師と共に、聖教の黄金の歴史は刻まれていったのです。

「明るくて、いいね」「そうですね」――聖教新聞に目を通し、語り合う池田先生と香峯子夫人(1980年10月、米ロサンゼルス近郊で)

広告を通して師の心伝える

 ◆田島 70年(同45年)、聖教の発行部数は400万部を()えます。一方、この年、「(げん)(ろん)問題」の(あらし)()()れ、学会への(ちゅう)(しょう)()(かえ)されます。
  
 ◇長谷川 「言論問題」の(はい)(けい)には、学会という一大(みん)(しゅう)勢力の(しん)(てん)(はば)もうとする政治的な(ねら)いがありました。
 (よく)71年(同46年)1月4日、聖教新聞は日刊12ページ()ての現在の形となります。「言論問題」の嵐を()()え、さらに()(やく)できるか、重要な時でした。
 先生は、この頃から(あし)(しげ)く聖教新聞社を(おとず)れ、記者をはじめ職員と(こん)(だん)を重ねられました。
 私も聖教の職員として、(こん)(しん)(はげ)ましを()の当たりにしました。先生は、記事の書き方から生活態度に(いた)るまで、職員にアドバイスを送りながら、“広布の使命に生き()け!”“仏法の(まなこ)(みが)け!”と、聖教の(たましい)をとどめてくださいました。
 大変な時でしたが、この時の試練が(ちょう)(やく)(だい)となって、聖教も、学会も、大きく飛躍することができました。
 小説『新・人間革命』第18巻「()()()」の章に、当時の山本伸一の戦いについて、こう記されています。
 「生命(いのち)(けず)るかのような、この聖教新聞への指導によって、聖教に永遠()(めつ)の精神の柱が打ち立てられたのである。
 そして、この時、言論城に、(かっ)(かく)たる師弟の太陽が(さん)(ぜん)と昇ったのだ」
 先生は、()(はん)()(おもて)に立って、聖教を守り、さらには学会を、同志を守りに守ってくださいました。私たちは、師匠の闘争を心に(きざ)み、()(おん)(むく)いる戦いを深く決意したのです。
  
 ◆(やな)(しま) 「言論問題」以後も、(しょう)()の嵐が学会に(おそ)いかかります。77年(同52年)ごろからは、(しゅう)(もん)(そう)による学会への()(ぼう)(はげ)しさを増します。
  
 ◇長谷川 79年(同54年)4月24日、池田先生は第3代会長を()(にん)します。
 宗門側は、反逆・退転者と(けっ)(たく)し、先生が“会合で指導してはいけない”“聖教新聞等でも指導を報道してはいけない”など、()()(じん)な要求をしてきました。先生と学会員との“師弟の(きずな)”の分断をもくろんだのです。
 こうした(じょう)(きょう)の中でも、先生と海外の要人との会見が聖教新聞で報道されます。宗門側も、海外の要人との会見報道まで禁じることはできませんでした。
 紙面を通して伝えられる先生の会見は、全同志に勇気と希望を送っていきます。
 さらに、“先生に紙面に登場してもらいたい”という、聖教の職員たちの強い思いが形になったのが、新聞広告です。
 79年5月8日、本紙2面に、池田先生が(しっ)(ぴつ)した(しょ)(せき)の広告が掲載されました。先生の顔写真も(いっ)(しょ)でした。
 その後も、折あるごとに、先生の写真と共に書籍の広告が()ります。学会(そう)(りつ)記念日を(むか)えた79年11月18日、先生の歌集『(ゆう)(まい)』が広告で(しょう)(かい)されます。そこには、歌集に(おさ)められた和歌も掲載されました。
 「共どもに ひとたび決めた 道なれば 初心(わす)れじ 君も私も」
 80年(同55年)5月3日には、句集『広布の友へ』の広告に、「いざや()け ()()の剣あり (いの)りあれ」等の句が掲載されました。同志の喜びは、いかばかりだったでしょう。

聖教新聞の姉妹紙誌のネットワークは52カ国・地域に広がる

吹雪(ふぶき)(むね)()(かん)(ぜん)と進む

 ◆先﨑 80年4月29日、先生は、5度目の中国(ほう)(もん)()()、長崎空港に()()ちます。
  
 ◇長谷川 長崎での(げき)(れい)(こう)を報道したいと()う聖教の記者に対し、先生は語ります。
 「事実を(かく)す必要はない。創価の師弟が分断され、()()の心が失われていけば、広宣流布はできない。だから私は、同志と共に戦いを開始します。私の今後の予定も発表しよう。さあ、反転(こう)(せい)だ! (せん)(とう)開始だよ!」(『新・人間革命』第30巻〈上〉「(ゆう)()」の章)
 (よく)30日付の本紙1面には、(ほう)(ちゅう)後の記者会見、長崎での記念幹部会の報道と共に、「名誉会長は、長崎のあと福岡、関西、中部の会員の激励・指導に当たる予定になっている」との記事が(けい)(さい)されます。反転攻勢の助走が開始されたのです。
 同年7月には、聖教の編集(たん)(とう)(しゃ)らに、小説『人間革命』の(れん)(さい)再開を()げます。8月10日から、第11巻「(てん)()」の章がスタートします。体調が(すぐ)れず、発熱する時もある中、先生は、まさに命を(けず)って正義の(げん)(ろん)(せん)を続けられるのです。
 小説『人間革命』第11巻「転機」の章の(ぼう)(とう)は、次の一節で始まります。
 「(みょう)(ほう)という法則は、永遠であり、()(めつ)である。その法を(しん)(じゅ)し、流布する創価学会もまた、永遠であり、不滅である。(れっ)(ぷう)をも(おそ)れず、(ごう)()にもたじろがず、吹雪(ふぶき)(むね)()り、われらは(かん)(ぜん)と進む。(とうと)(ぶっ)()の使命を()たしゆくために、(みん)(しゅう)(がい)()のために――」
 聖教は、民衆の凱歌を(とどろ)かせるための原動力となってきました。言論の(ちから)を確信し、声を()しまず、正義を(さけ)ぶ――これが、戸田先生が身をもって教えてくださった「聖教(だましい)」であると、池田先生は随筆につづられています。この(とう)(そう)(しん)こそ、青年の「(たましい)」です。
 今、SNSなどの通信技術の発達により、コミュニケーションのあり方は多様化しています。しかし、どれだけ社会が変化しようとも、青年が、励ましの声、正義の声を惜しまず(ひび)かせていく――そこから、広宣流布の広がりが生まれることは、変わりません。
 「聖教の正義の言論」と「青年の()()()」。この両輪があってこそ、広布は加速度を増して(しん)(てん)していくのです。

 【参照】
 ◆小説『人間革命』=第11巻「転機」
 ◆小説『新・人間革命』=第10巻「言論城」、第18巻「師子吼」、第30巻〈上〉「雄飛」