〈ONE GOSHO この一節とともに!〉 男子部教学室編

諸法実相抄

地涌の使命に勇み立て

 2月16日、日蓮大聖人の御聖誕から、数えで800年を迎える。御本仏の御精神と御闘争から、いかなる環境にあろうと“法華経の行者”として広布に生き抜く使命を学ぶ。

御文

 いかにも今度・信心をいたして法華経の行者にてとをり、日蓮が一門となりとをし給うべし、日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか、地涌の菩薩にさだまりなば釈尊久遠の弟子たる事あに疑はんや、経に云く「我久遠より来かた是等の衆を教化す」とは是なり(御書1360ページ)

通解

 なんとしても、この人生で、信心に励み、法華経の行者として生き抜き、日蓮の一門となり通していきなさい。日蓮と同じ心であるならば、地涌の菩薩でしょう。地涌の菩薩であると定まったならば、釈尊の久遠の弟子であることは疑う余地がありません。経文に、「私(=釈尊)は遠い昔から、これらの者たち(=地涌の菩薩)を教化してきた」と説かれているのは、このことです。

背景

 本抄は文永10年(1273年)5月、日蓮大聖人が流罪地の佐渡で認められたお手紙であり、弟子である最蓮房が、法華経の方便品に説かれる「諸法実相」について尋ねたことに対する御返事とされている。
 大聖人は諸法実相の法理に照らし、本来、一切衆生の生命が妙法蓮華経の当体であることを明かされる。そして大聖人と同じ心で自行化他にわたる唱題の実践に励む人は皆、地涌の菩薩であり、「二人・三人」と妙法が弘まっていく「地涌の義」によって、広宣流布が実現することは間違いないとの確信を示し、どこまでも法華経に身を任せていくよう促されている。

解説

 日蓮大聖人は貞応元年(1222年)2月16日、安房国(今の千葉県南部)で御聖誕された。民衆救済を願われた御生涯は相次ぐ大難との闘争であり、本抄を執筆されたのも、佐渡流罪という最大の法難の渦中である。
 当時、佐渡への流刑は、生きて帰ることは望めない死罪に等しいものであった。極寒の中にあって衣食にも事欠き、念仏者などから命を狙われていた。
 さらに門下に対しても追放や所領没収等の迫害が広がり、“1000人のうち999人まで退転した”といわれるほどの大弾圧が起こっていた。
 大聖人は、法華経の勧持品に説かれる三類の強敵、刀杖の難等の文に照らして御自身が法華経の行者であるとの確信を深められ、弟子たちに対しても御自身と同じ心で法華経の信心を貫いていくよう励まし抜かれた。
 本抄で大聖人は、末法において地涌の菩薩の上首である上行菩薩が弘通すべき妙法を、先立って弘めてきたがゆえに、「地涌の菩薩のさきがけ日蓮一人なり」(御書1359ページ)と仰せになられている。
 そして今回の研さん範囲で「日蓮と同意」――すなわち大聖人と同じ心で題目を唱え、広布に生きゆく人もまた地涌の菩薩であり、釈尊の久遠の弟子であると御指南されているのである。
 「法華経の行者にてとをり」「日蓮が一門となりとをし」――この「とをし」には“通す”“貫く”という意義がある。“どんな困難があろうとも信心を貫いていきなさい”との深い御慈愛が拝される。
 弟子にとって、自らが地涌の菩薩であり「日蓮と同意」であるとの深い自覚は、「貫き通す」行動となって現れる。苦境に直面した時にこそ、そうした自覚と行動は、いやまして真価を発揮するといえよう。
 学会は、大聖人の御精神に連なり、地球規模で地涌の菩薩の連帯を広げてきた唯一の団体である。
 いかなる苦境に立っても、学会員は“私は地涌の菩薩だ!”との深い自覚に立ち、一切を勝ち開いてきた。
 池田先生はつづられている。
 「末法にあって、題目を唱え、広宣流布の戦いを起こせるのは、地涌の菩薩です」「広宣流布の使命を自覚し、その戦いを起こす時、自らの胸中に、地涌の菩薩の生命が、仏の大生命が厳然と涌現するんです」
 本抄で大聖人は「日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし」(同1360ページ)とも仰せである。
 まず自分が一人立ち、身近な一人へと妙法を伝えていく一対一の励ましと対話――この地道な行動の重なりが、「地涌の義」を現実のものとするのである。
 地涌の誇り高く、励ましの輪を大きく広げながら、学会創立100周年への“勝負の10年”の初陣を、堂々と勝ち飾っていきたい。