〈ONE GOSHO この一節とともに!〉 男子部教学室編
佐渡御書
試練が生命を鍛えゆく
“弘教拡大”“人材育成”の秋真っ盛り!――今回は、苦難を新たな成長への跳躍台にしていく、宿命転換の法理を学ぶ。
御文
鉄は炎い打てば剣となる。賢聖は罵詈して試みるなるべし。(新1288・全958)
通解
鉄は鍛え打てば剣となる。賢人・聖人は罵られて(本物であるかどうかを)試されるものである。
背景
本抄は文永9年(1272年)3月、日蓮大聖人が流罪地の佐渡・塚原から、広く門下一同に向けて与えられた御書である。
この前月には、北条一族の内乱である「二月騒動」が勃発。大聖人が「立正安国論」で予言された「自界叛逆難」が的中する。本抄は、その知らせを受けて著されたものである。
本抄御執筆の前年9月に起きた「竜の口の法難」以降、権力による迫害の手は門下にも及び、弟子たちは投獄・所領没収などに処された。
「大聖人が法華経の行者であるなら、なぜ大難に遭うのか」――厳しい弾圧を恐れて退転する者が相次ぐ中、大聖人は前月に送られた「開目抄」を踏まえ、「師子王の心」で悪と戦う者が必ず仏になることを示され、宿命転換の法理を通して門下を励まされている。
解説
自身がこの世に生を受けた意味は何か。かけがえのない生命を、何のために使っていくのか。これらの問いは、誰にとっても重要な人生の命題であろう。
日蓮大聖人は、本抄の冒頭部分で「世間一般において人が恐れるものは、炎に包まれること、刀剣によって襲われること、自身が死ぬことである」(新1284・全956、通解)と仰せになり、誰もが命を落とすことを恐れ、自らの身命を大切にしていることを説かれている。
その一方で、餌にだまされる魚や鳥の習性に触れ、目先の欲望に突き動かされたり、狭い了見から判断を誤ったりして、結果として命を捨ててしまう人が多いと述べ、ゆえに、大聖人は「世間の浅きこと」のためではなく、「大事の仏法」のために、一番大切な身命をなげうつべきであると示されている。
次に、今回の拝読御文の少し前では、不軽菩薩の実践を通して、大難を受けるのは、大聖人御自身の過去世からの罪業のゆえであると教えられている。
不軽菩薩とは、法華経常不軽菩薩品第20に説かれる釈尊の過去世の姿を指す。不軽は万人に具わる仏性を礼拝し、「私は深く、あなた方を敬います。決して軽んじたり、侮ったりしません。なぜなら、あなた方は皆、菩薩道の修行をすれば、必ず仏になることができるからです」と敬い続けた。
その言葉を信じられない増上慢の人々から、杖や木で打たれたり、瓦や石を投げられたりと迫害を受けたが、礼拝行を貫いた。この実践によって、不軽は過去世の罪障を消滅し、後に仏になったのである。
つまり、大難の中で戦い抜くからこそ、宿業を打開し、成仏できるのである。この宿命転換の法理を、譬えを用いて分かりやすく示されたのが「鉄は炎い打てば剣となる」(新1288・全958)との一節である。
鉄は、高温の炎で熱して何度も繰り返し打ち続けることで、次第に不純物が取り除かれ、強靱な剣になっていく。同じように、悪口罵詈などの迫害にも屈せず、妙法を語り広め抜くことで、自身の宿業をたたき出し、宝剣のごとく、強靱な生命が鍛えられていくのである。
人生の途上には予期せぬ試練がつきものである。私たちも試練に直面した時こそ“自らを鍛える最大のチャンス”と捉えて、鉄を何度も打ち鍛えるような「地道な折伏、対話」に挑んでいきたい。
現在、宗教に対して、人々の不安や不信感をあおるような言説が後を絶たない。仏法対話に励む中で、無理解から心ない言葉や中傷を浴びせられることもあるかもしれない。
しかし、初代会長・牧口先生は「戦えば戦うほど、こちらが強くなればなるほど、仏法勝負の実証は早く出てくる」と語られた。勇気を奮い起こして、堂々と語り抜く挑戦によって、自身の生命が鍛えられ、人間革命も成し遂げられることを確信したい。
池田先生は「鍛え抜かれた『宝剣の生命』は、決して朽ちることはありません。この妙法の剣で人々の不幸の根源を断ち切りつつ、確かな平和と希望の連帯を、地域に社会に大きく広げていくのです」とつづっている。
広宣流布大誓堂の完成10周年となる明年11月へ、男子部は今月、新たな布陣で出発した。みずみずしい生命力と「師子王の心」で率先の弘教に挑み、一人一人が堂々たる人間革命の実証を示しゆく下半期にしたい。