【世界広布の(げん)(りゅう) 青年に語る創価の(たましい)】第14回 二月(とう)(そう)〈上〉

·〈出席者〉谷川主任副会長、(やな)(しま)男子部長、林池田華陽会委員長、田島学生部長、先﨑女子学生部長

師弟直結で「(かべ)」を破れ

青空に浮かぶ飛行機を池田先生がカメラに収めた(2000年2月、東京・大田区の羽田空港で)。大田は「二月闘争」の舞台となった地。先生は「故郷・大田の繁栄を、私は、いつも祈り見つめている」と万感の思いを寄せている

 ◆(やな)(しま) 「伝統の2月」がスタートしました。今回から「二月(とう)(そう)」の精神について、お聞きします。1952年(昭和27年)2月、池田先生が支部幹事として()()()った(かま)()支部は、「201世帯」の()(きょう)を達成しました。当時、一つの支部で月100世帯前後の拡大が限界でした。
  
 ◇谷川 「二月闘争」は、戸田先生の(しょう)(がい)の願業である75万世帯の達成へ、(まな)()()である池田先生が(とっ)()(こう)を開いた戦いです。そこには、現状を打破し、「(かべ)」を破るための(よう)(てい)(いく)つも(きざ)まれています。
 その一つは、広布拡大において、どこまでも“師弟直結”が根本であるということです。
 51年(同26年)5月3日、戸田先生は第2代会長に(しゅう)(にん)します。就任式の席上、戸田先生は「私が生きている間に、75万世帯の(しゃく)(ぶく)は、私の手でいたします」と(せん)(げん)しました。
 当時、会員数は実質3000余に過ぎませんでした。恩師の願業を耳にしたある青年部員は、「戸田先生は、(そう)(とう)長生きされるのだと思った」と(じゅっ)(かい)しています。聖教新聞でも、「75万世帯」の文字は報道されませんでした。
 その中で、池田先生は()(しょう)の心をわが心とし、“戸田先生の願業を断じて実現してみせる”との(ちか)いを定められたのです。
 ところが、52年1月の学会の入会世帯数は635世帯。75万世帯へは、はるか遠い道のりでした。同月、戸田先生は支部長会で、「『(かりがね)行進』は、今月をもって、一切、打ち切りとする」と訴えます。
 さらに、「いよいよ大を出すか」と、池田先生を蒲田支部の支部幹事に任命します。戸田先生が池田先生に期待したのは、「突破口を開け」ということでした。
 1月29日、池田先生は東京・大田で行われた蒲田支部の(きん)(きゅう)組長会で力説します。「2月は日蓮大聖人の()(せい)(たん)の月であり、また、2月11日は、戸田先生の(たん)(じょう)の日であります」
 「報恩感謝の思いで、この2月を戦いきり、見事な勝利の結果をもって、戸田先生にお(こた)えし、先生の誕生の月をお(いわ)いしようではありませんか」
 師匠の恩に広布拡大の(あか)しをもって応える――池田先生の強い思いが蒲田支部の全同志に(でん)()し、拡大の火ぶたが切られたのです。

谷川主任副会長に話を聞く梁島男子部長、林池田華陽会委員長、田島学生部長、先﨑女子学生部長(学会本部別館で)

「新しい人」に「新しい(ちから)」が

 ◆林 池田先生は(きん)(きゅう)組長会で、「組」(現在のブロック)で2世帯の()(きょう)という目標を(かか)げました。
  
 ◇谷川 当時の最前線の組織である組には、新入会の友が多く、組単位の活動には反対もありました。しかし、池田先生は、「新しい(ちから)」に絶対の(しん)(らい)を寄せていました。
 当時の心境について、こう述べています。「“新しい人”だからこそ、“新しい力”をもっている。それを引き出そう。(しん)(せん)(わか)()のような“新しい()(ぶき)”もある。それを()ばそう――そこに私の(ちゃく)(がん)(てん)があった。いわば新思考である。“新しい(はっ)(てん)”は、この“新しい発想”から生まれた」
 先生は、組単位の活動に光を当て、(しゃく)(ぶく)の仕方が分からない友がいれば、(いっ)(しょ)に仏法対話に歩きます。「新しい力」と(とも)に動き、組織に(ねむ)っていた“新しいエネルギー”を引き出しながら、拡大の(とっ)()(こう)を開いたのです。
 さらに、新たな人材への真心の(はげ)ましにも(てっ)しました。
 励ましについて、先生はこう述べています。「人間は、励ましによって育っていく。そして、人を励ます作業とは、生命を、()()を、力を()(しぼ)って、相手の心の(とびら)を開き、深く分け入り、(ほっ)(しん)のための(よう)(ぶん)(そそ)()(しん)(けん)勝負の対話といえよう」
 広布のリーダーにとっては、“地域のどれだけのメンバーに(げき)(れい)できたか”という点も大切でしょう。とともに、“励ましによって、同志がどんな体験をつかむことができたか”は、それ以上に重要です。
 「二月闘争」では、先生の真心の激励によって、信心の(かん)()のドラマが次々と生まれ、「(かべ)」が破られていったのです。

蒲田支部の支部幹事として同志に励ましを送る山本伸一(小説『新・人間革命』第24巻「人間教育」の章から、内田健一郎画)

自分がまず動く 自分の目標に(いど)

 ◆田島 当時、先生は24歳でした。周囲は年上の(せん)(ぱい)たちばかりでした。
  
 ◇谷川 信心に役職や(ねん)(れい)は関係ありません。大切なことは、広布をわが使命と定め、(しん)(けん)に戦うことです。
 池田先生は(みずか)ら対話に(そっ)(せん)しました。アパートの(りん)(じん)など、身近に(えん)する方々とも対話の輪を広げています。
 先生は、「私は、まず自分が動いた。自分が(ちょう)(せん)した」「リーダーは、まず自分が動くことである。自分が自分の目標に挑戦することである」と()(かえ)っています。
 若き先生の率先の行動は、(かま)()支部の同志に勇気を送り、一人また一人と、()()の使命に立ち上がっていきました。
 (きん)(きゅう)組長会の後、先生は(てっ)(てい)して組織の第一線を()(まわ)りました。
 大きな会合に人を集め、号令や指示をしていたのではありません。最前線に()()み、同志とスクラムを組みながら、拡大に(いど)みます。
 その後の“文京支部での戦い”や「大阪の戦い」でも、先生は「リーダー率先」に(てっ)し、最前線の友を()()しながら、拡大の(きん)()(とう)を打ち立てていきます。それらの戦いの原型は、「二月(とう)(そう)」にあります。
 52年2月の1カ月で、201世帯の()(きょう)を達成した蒲田支部は、3月、4月も200世帯を突破しました。5月には300世帯を()え、11月には400世帯を上回る拡大を成し()げます。この年、会員数は2万2000世帯を超えました。
 先生はつづっています。
 「青年の私は、『二月闘争』を起点として、全学会の前進・勝利の方程式を作った。表面的な方法(ろん)ではない。学会は『一人立つ信心』そして『師弟共戦の信心』で勝つ、という永遠の()(どう)(かた)めた」
 先生がとどめられた勝利の方程式とは、(さく)や方法ではなく、どこまでも、「師弟」と「信心」に立ち返ることにありました。それが、創価の青年が歩むべき“永遠の軌道”なのです。
  
 ◆先﨑 池田先生は「(おん)()()(でん)」要文講義(「大白蓮華」2022年12月号)で、「師弟」と「(しん)(じゅん)」についても教えてくださっています。
  
 ◇谷川 要文講義では、次の一節が引かれています。
 〈(もん)()の一に()わく「『(にょ)()』とは信順の(ことば)なり。信ずれば(すなわ)(しょ)(もん)()()し、順ずれば則ち()()の道(じょう)ず」。(せん)ずるところ、日蓮等の(たぐ)いをもって「如是()(もん)」の者と云うべきなり(うん)(ぬん)〉(新986・全709)
 この御金言を通して先生は、「信順とは、信じて順じる――教えに(もと)づき生きる。つまり師弟の道です」と述べています。
 さらに、「師の言われたことの本質に(にく)(はく)し、それを(あやま)たずに(じっ)(せん)する」「師弟こそ『如是我聞』の本質です。ここに『不信』を打ち破る(よう)(てい)もある」と強調しています。
 まさに、「二月闘争」とは、戸田先生の言われることの本質に肉薄し、過たずに実践する戦いでした。
 「伝統の2月」の(せん)(じん)を切るのは青年です。「伝統」とは、変わらないために、変わり続けることでもあります。()(しょう)が示した広布の方程式は不変です。変わり続けるのは、自分自身です。
 自身の「(かべ)」を破りながら、池田先生の指導を実践していく――その連続(とう)(そう)で、勝利を(かざ)る「(がい)()の2月」にしていこうではありませんか。

 【参照】
 ◆小説『人間革命』=第5巻「烈日」「驀進」
 ◆小説『新・人間革命』=第3巻「平和の光」、第29巻「力走」