〈ONE GOSHO この一節とともに!〉 男子部教学室編2021年3月27日

 

兄弟抄

“難こそ誉れ”の大確信で

 新たな環境や立場で、新しい生活が始まる春4月。信仰を根幹に、苦境に立ち向かっていった池上兄弟への御指南を拝して、難を乗り越える信心を学ぶ。

御文

 各各・随分に法華経を信ぜられつる・ゆへに過去の重罪をせめいだし給いて候、たとへばくろがねをよくよくきたへばきずのあらわるるがごとし、石はやけばはいとなる金は・やけば真金となる
(御書1083ページ)

通解

 あなたがた兄弟は、懸命に法華経を信じてきたので、過去世の重罪を責め出しているのである。たとえば、鉄を十分に鍛え打てば内部の疵が表面に現れるのと同様である。石は焼けば灰となる。金は焼けば真金となる。

背景

 本抄は日蓮大聖人が武蔵国池上(現在の東京都大田区)の門下である池上宗仲・宗長兄弟と、その夫人たちに与えられたお手紙である。文永12年(1275年)の御執筆とされていたが、現在では建治2年(1276年)の御述作と考えられている。
 池上家は有力な工匠(建物の建築や修理を統括する役)として鎌倉幕府に仕えていたが、父・康光が兄弟の法華経の信仰に反対し、兄・宗仲を勘当した。本抄は、その報告に対する激励のお手紙である。
 大聖人は、難に直面するのは法華経を信仰するゆえの必然であり、法華経に説かれる通りに魔と戦うことが、一生成仏の直道であると教えられている。
 本抄が認められて以後、宗仲は2度目の勘当に遭うが、兄弟は大聖人の御指導通りに実践し、最後は父を入信に導いている。

解説

 当時の武家社会にあって、「勘当」されることは家督相続権を失うことであり、経済的基盤も、社会的立場も奪われることに等しかった。また、弟にとって兄の勘当は、信仰を捨てれば自分に家督が譲られることを意味しており、まさに、兄弟の信心の絆を分断しようとする魔の働きであったと言える。
 なぜ、法華経の信仰を持つ人に難が競い起こるのか――。日蓮大聖人は拝読御文で、「懸命に法華経を信じてきたので、過去世の重罪を責め出している」(通解)と仰せである。すなわち、過去世で積んだ謗法の重罪を、法華経を持つ功徳によって軽く受け、消滅させるという「転重軽受」の法理の上から兄弟を励まされている。
 続いて、強盛な信心によって「過去世の重罪」が現れてくる様を、例えを用いて示されている。鉄を熱して鍛えていくと、脆さの原因である内部の疵、つまり不純物がたたき出されていく。この繰り返しによって、鉄は一段と強靱になる。この不純物とは過去世の重罪のことであり、信心の実践によって「たたき出し」、今世の苦難として軽く受けているのである。苦難に遭うこと自体が法華経を持つ功徳であり、宿命転換の軌道を歩んでいる証しにほかならないのだ。
 また、大聖人は、石は焼けば灰となるのに対し、金は焼くことによって真金となると仰せである。困難に直面した時こそ、仏法者の真価が明らかになる。灰となって崩れ散ってしまうのか、真金となってますます輝きを放っていくのか。苦難とは「自身にとっての試金石」なのである。
 鉄の“脆さの原因”である不純物は、外ではなく、内部にある。このことは、この生命の鍛錬において真に向き合うべきは、自身の内にある「弱さ」であることにも通じよう。
 苦難や悩みに直面した時、逃げ出したくなる弱い心に打ち勝ち、“自身を鍛えるチャンス”と捉えて、前を向く。「石」であるか、「真金」であるかを決めるのは、まさに自らの勇気の信心であることを肝に銘じたい。
 新生活がスタートする季節。環境の変化によって、予期せぬ困難にぶつかることもあろう。いかなる状況も、全て乗り越え、意味あるものへと価値創造していけるのが、私たちの信心である。
 池田先生はつづっている。
 「一番大事なのは、『自分自身の心に勝つこと』『唱題に徹し抜くこと』です。『難を乗り越える信心』に生ききれば、必ず、変毒為薬することができます。必ず、宿命転換することができます。必ず、一生成仏の境涯を築くことができます。必ず、広宣流布の道が大きく開かれていくのです」
 師弟不二の男子部は、“難こそ誉れ”との雄々しき気概で、一人一人が使命の天地で、勝利を開いていきたい。