〈世界広布の源流 青年に語る創価の魂〉第8回 「七百年祭」と宗門事件㊦
「人間のための宗教」を!
〈出席者〉 
梁島男子部長
林池田華陽会委員長
田島学生部長
先﨑女子学生部長

1991年11月23日、宗門からの「魂の独立」直前――。本部幹部会で学会歌の指揮を執る池田先生(東京・大田池田文化会館で)。先生は「今も昔も、私の、そして創価学会の『広布大願』は、いささかも変わらない。否、迫害にあえばあうほど、何ものにも
縛られず、これまでの何倍、何十倍の知恵と力で、世界広宣流布に進んでいく。今こそ、その“時”である」と。障魔を打ち砕き、創価の師弟は悠然と前進する

 

 ◆梁島 前回は、小説『人間革命』第6巻「七百年祭」の章の「狸祭り事件」を中心に、宗門の“僧俗差別”の体質などについて伺いました。今回は、第1次・第2次宗門事件に関して聞きたいと思います。
 
 ◇谷川 宗門による創価学会への批判が激しさを増してきたのは、1977年(昭和52年)ごろからです。宗門が学会攻撃の材料の一つとしたのが、同年1月に行われた教学部大会での「仏教史観を語る」と題する池田先生の記念講演です。 講演では、仏教本来の「人間のための宗教」という視座に立ち返り、民衆と共に広布のために戦うのが、真の法師であり、指導者であることなど、教学上の事柄について具体的に論じられています。
 『新・人間革命』第24巻「厳護」の章には、「原点を見失い、草創の心と実践を忘れた宗教は、形式化、形骸化し、儀式主義に陥り、官僚化、権威化する。そして、民衆を睥睨し、宗教のための宗教となる。それは、宗教の堕落であり、精神の死である」とあります。
 当時、先生は世界広布の新段階を展望し、教学の深化と展開に力を注がれていたのです。ところが宗門は、先生の講演を宗門批判と捉え、“僧侶軽視”などと主張します。
 その後、各地の寺で、「学会は謗法だ。学会では成仏できない」と、学会員を前にして公然と誹謗・中傷を繰り返すようになります。
 1979年(同54年)4月24日、池田先生は第3代会長を辞任します。当時、私は大学4年生でした。あの時の「なぜ、先生が会長を辞めなければならないのか」との、やり場のない怒りは今でも忘れられません。
 その半年後の11月18日、学生部の代表として、神奈川文化会館で先生とお会いする機会がありました。先生は苦闘の渦中にあって、就職を控えた私たちに、次のように語られました。
 「仕事が忙しくて、学会活動ができない日が続くこともあるだろう。時には、勤行すらできない場合もあるかもしれない。だけど、今日、私と会ったということは絶対に忘れてはいけないよ」
 いかなる障魔が競い起ころうとも、先生の弟子として師弟に生き抜く覚悟を定めた、私自身の生涯の原点の一つです。
 
 ◆林 池田先生の会長辞任後、宗門は学会員に対して、「先生と呼んではならない」と強いてきます。
 
 ◇谷川 地区の座談会で、司会の「地区部長の導師で、お題目を三唱します」は、皆さんも何度も耳にしてきた言葉だと思います。
 この「導師」についても、宗門は“導師というのは僧侶のことであり、在家を導師と呼んではならない”と学会に言っていたのです。また、「私たちは地涌の菩薩である」についても、“「地涌の菩薩の眷属」と言い換えるように”と迫っていました。次々と僧俗差別、信徒支配の体質をあらわにしていきました。
 先生は会長辞任後、宗門の悪僧や退転・反逆者らの画策によって、会合に出席し、指導することができませんでした。
 しかし、その嵐の中でも、先生は激励を続けられました。“会合に出て、話をすることができないのであれば”と、ピアノを弾いて友を励まし、功労者のもとを一軒また一軒と訪問されました。
 『新・人間革命』第30巻〈上〉「雌伏」の章に、「地涌の菩薩の使命を自覚するならば、どんなに動きを拘束され、封じ込められようが、戦いの道はある。智慧と勇気の闘争だ」と記された実践を貫かれたのです。
 81年(同56年)11月の四国指導から、先生は本格的な反転攻勢の戦いを開始されます。先生の不屈の闘争によって、師弟分断の謀略を突き抜けて、創価の勝ち鬨が響き渡っていきます。
 
 ◆先﨑 宗門の卑劣な迫害があった後も、先生は「広宣流布」という一点で、僧俗和合を願い、外護の赤誠を尽くされました。
 
 ◇谷川 その先生の真心を踏みにじったのが、宗門が90年(平成2年)に実行した「創価学会分離作戦」――いわゆる「C作戦」です。「C」は英語の「CUT」のことで、「学会を切る」という意味です。
 この前年、宗門は3%の消費税が導入されることを契機に、御開扉料や食事代など、登山費の大幅値上げを実施しようとしました。当時、社会的にも「便乗値上げ」に対しては厳しい声が上がっていた。学会は宗門に考え直してはどうかと伝え、いったんは取り下げられました。
 しかし、その頃から、本山任務の創価班や白蓮グループのメンバーに、宗門僧らがとげとげしい態度で接するようになっていきました。
 そして90年3月、宗門は塔婆、永代供養等の冥加料について、軒並み引き上げることを、一方的に通告してきました。
 学会の建立寄進で末寺も整い、供養も取るだけ取って、財政基盤を固めた宗門は、学会を切るための計画を進めていくのです。
 同年秋に開催された大石寺開創700年を慶祝する文化祭で、私たちは最大の礼を尽くして日顕を迎えました。ところが、日顕は表情一つ変えない。雰囲気が悪化する中で、C作戦が起こりました。
鉄鎖を断ち切って 「魂の独立」果たす
 ◆田島 90年12月27日、宗門は突然、宗規を改変し、先生の総講頭職を罷免しました。
 
 ◇谷川 青年部だった私たちは、すぐに行動を開始しました。男子部・学生部で各地の末寺を訪れ、先生に対する不当な処分の撤回を求めました。大みそかにも、青年部で日顕に宛てた「質問状」を作成しました。
 対話によって、事態の解決を図ろうとする学会に対して、日顕は「お目通りかなわぬ身」と、会うことすら拒絶しました。
 その後、宗門は、学会の登山会の一方的な廃止や、海外での布教方針を改変するなど、広布破壊の謀略を次々と断行します。
 そして、91年(同3年)11月、「解散勧告書」「破門通告書」を学会に送り付け、学会員への御本尊下付を停止します。
 「破門通告書」には、一行の御書の引用もありませんでした。つまり、宗門は、学会を破門する仏法上の理由を全く示せなかったのです。
 日顕の謀略にも、学会は微動だにしませんでした。第1次宗門事件などを通して、宗門の卑劣さ、権威的体質、腐敗・堕落の実態を痛感していたからです。 宗門からの「破門」は、学会にとって「魂の独立」でした。宗門からの文書が届いた翌日(11月30日)、創価ルネサンス大勝利記念幹部会が開催されました。席上、先生は宣言されます。
 「これ以上、折伏・弘教し、これ以上、世界に正法を宣揚してきた団体はありません」
 「未来の経典に『創価学会仏』の名が厳然と記し残されることは間違いないと確信するものであります」
 仏とは決して特別な存在ではありません。苦悩する人に寄り添い、手を差し伸べ、共に立ち上がる存在です。自他共の幸福のために尽くす学会員こそ、仏の使いです。
 その学会員を“金儲けの道具”としてしか見なかった日顕宗は、衰退と自壊の一
途をたどっています。まさに、日蓮大聖人から“破門”されたのです。
 創価の三代会長の闘争は「宗教のための人間」という転倒を正し、日蓮仏法の本義にのっとって、「人間のための宗教」への転換を図る宗教革命でもありました。今、その闘争のバトンは私たちに託されているのです。
参照
 ◆小説『新・人間革命』=第24巻「厳護」、第27巻「正義」、第30巻〈上〉「雌伏」、第30巻〈下〉「誓願」