【師子の光彩――大願を果たさん】第1回 青年部の室長就任70周年㊤2024年1月1日
誓いを果たす人生ほど美しいものはない。池田先生のご生涯は、戸田先生の構想を、自らの大願として成就する歩みでもあった。新連載「師子の光彩――大願を果たさん」では、AI(人工知能)でカラー化された写真とともに、師弟の大願のドラマを紹介する。
第1回北海道体育大会「若人の祭典」での戸田先生と池田先生(1957年8月、札幌・美香保グラウンド〈当時〉で)。師弟の眼は、若人が躍動する広布の未来を見つめて
勝利の方程式を全部、築いていく
「一段、一段、学会の中核となって、広布の推進をせねばならぬ。これが、自己の使命だ。草花あり、花を咲かせる。これ使命なり。自己あり、妙法の流布をいたす。これ使命なり」
1954年(昭和29年)3月30日、青年部の室長(当時は参謀室長)に就任した池田先生は、満々たる決意を日記につづった。
恩師・戸田先生にとって、池田先生は“懐刀”だった。恩師のもとで、蒲田支部幹事(1952年1月就任)、男子部の第1部隊長(53年1月就任)、文京支部長代理(同年4月就任)として指揮を執り、恩師の生涯の願業である75万世帯の達成へ向け、拡大の金字塔を打ち立てた。
54年2月、戸田先生は広布の未来を見据え、池田先生を中心とした青年たちに、自らが担ってきた広布推進の“スクリュー”の役割を与えることを決断する。
翌月、室長に就いた先生は、広宣流布の一切の企画・立案・遂行を担うことになった。“広宣流布の勝利の方程式を全部、築いていく”との覚悟を定めた。
当時、青年部の陣容は、1支部に1部隊だった。青年の連帯をさらに広げるため、先生は男女青年部の育成に、全精魂を注いだ。
54年5月9日、男女青年部5千人が結集し、戸田先生の会長推戴3周年を記念する集いが開催された。終了後、恩師は1万人の青年部の集いを10月に行うことを提案。恩師から「できるか」と問われると、池田先生は「できます。必ずやります」と即答した。
この師弟の呼吸から、青年部の怒濤の拡大が始まった。大幅な部員増加、教学の研さんが各地で活発に展開された。
同年10月、青年部の戦いに合わせるかのように、恩師は「大白蓮華」の巻頭言に、「青年よ国士たれ」を発表。「国に十万の国士あらば、苦悩の民衆を救いうること、火を見るよりも明らかである」とつづった。
池田先生は戸田先生に会うと、即座に決意を述べた。
「必ず十万の青年を結集いたします。見ていてください」
恩師はうれしそうに答えた。
「そうか。やってくれるか。頼むぞ」
その出発点となる1万人の結集を、池田先生はこの月、成し遂げたのである。
先生は斬新な発想を次々と取り入れ、青年部の活動に新たな息吹をもたらした。その一つが、同年5月6日、先生の提案で結成された音楽隊である。結成から3日後、青年部の5千人の集いに初めて出動し、演奏が行われた。
11月には、東京・世田谷の日大グラウンドで青年部主催による初めての体育大会が開催される。体育大会を企画したのも、先生だった。この「世紀の祭典」が、学会の文化祭の源流となった。
先生は語っている。
「青年は、信心、信心と口で叫んでいるだけでは行き詰まってしまう。学会は信心を根本にした幅広い文化活動が必要なのです。だから、私は戸田先生の許可をいただいて始めたんだよ」
創価の文化運動は、広布の新章節の扉を開いた。それは、青年部から始まり、青年部の手で発展していったのである。
最前線に入り活路を開け!
「“まさか”が実現」と世間を驚嘆させた1956年(昭和31年)の「大阪の戦い」。池田先生は最前線の隅々まで激励に歩いた。自転車を3台乗りつぶし、約半年で8000人と会った。
座談会には、経済苦や病と闘う友が集っていた。ある会場で、先生は訴えた。
「貧乏人と病人のどこがわるいのですか」「この御本尊は絶対に間違いありません。皆、信心をして幸せになるのですよ」
その確信の声は、“この仏法で必ず宿命転換できる”との希望の光明を、友の胸中にともした。
「大阪の戦い」だけではない。「札幌・夏の陣」(1955年8月)、「山口開拓指導」(56~57年)など、先生は全国各地で拡大の突破口を開きながら、広布史に刻まれるドラマをつづっていく。
「御書根本」「強盛な祈り」「中心者の鋭き一念」「電光石火のスピード」――先生の行動から、多くの同志が勝利の方程式を学び、広布のリーダーとして成長を遂げていった。
57年(同32年)、権力の魔性が迫害の牙をむき、「夕張炭労事件」「大阪事件」が起こる。先生はその一切の矢面に立って、恩師と学会を守り抜いた。
アルゼンチンの人権の闘士・エスキベル博士は、かつて述べた。
「創価学会の歴代会長は、不正義と戦いました。ゆえに迫害され、牢に入りました。しかしながら、自らを犠牲にすることによって、未来の希望を育みました。
創価学会は、今なお闘い続けております。闘いはまだ終わっておりません。いな、闘いとは、永遠に持続されてゆくべきものであります」
同年12月、池田先生の不惜身命の激闘によって、学会は75万世帯を達成した。青年部の室長の闘争について、先生はこう記している。
「現場第一である。そして、同志が苦しまないよう、戦いやすくなるよう、また、広布の長い展望のうえから、電光石火のスピードで、あらゆる課題に手を打っていった。机上で小手先の策を練るのではない。自らが最前線に飛び込み、誰よりも苦労して、智慧を湧かせ、活路を開いていくのだ」
広布の本舞台は、どこか遠くにあるのではない。使命の地域で、同志と共に創意工夫を重ねていく――そこに、師弟共戦の大絵巻がつづられていく。
【AIカラー化写真】今回掲載されているカットは、モノクロ(白黒)でしか見ることのできなかった聖教新聞社所蔵の写真を、編集部の責任のもと、AI(人工知能)を活用してカラー化したものです。
【師子の光彩――大願を果たさん】第2回 青年部の室長就任70周年㊦2024年1月9日
1961年11月5日に行われた、歴史的な第10回男子部総会(東京・国立競技場で)。恩師への誓いを実現し、10万人が一堂に会した同総会について、池田先生は「私の青年部の室長としての最後の仕事」と。この総会が、11・5「男子部の日」の淵源となった
必ず10万の青年を結集いたします!
さわやかな秋晴れが、国立競技場の空に広がった。1961年(昭和36年)11月5日、全国の代表10万人が集い、同競技場で「第10回男子部総会」が開催された。
池田先生は、この日を心待ちにしていた。“精鋭10万結集”は、池田先生が立てた、恩師・戸田先生への誓願だったからである。
54年(同29年)3月30日、池田先生は青年部の室長に就任。7カ月後の10月、戸田先生は「大白蓮華」の巻頭言に、「青年よ国士たれ」と題し発表する。その中で、恩師は記した。
「国に十万の国士あらば、苦悩の民衆を救いうること、火を見るよりも明らかである」
池田先生は、戸田先生に「必ず10万の青年を結集いたします」と固く誓った。
当時の男子部員は1万人ほどである。前年の53年(同28年)4月に開催された第1回男子部総会の参加者は700人。10万人の結集は、夢物語のように思われた。
池田先生は、覚悟を定めた。
“たとえ、誰がやらなくとも、私は、断じて、先生のご構想を実現してみせる!”
全国を駆け巡り、青年たちに渾身の激励を送った。その中で、若き地涌の友が、一人また一人と広布の使命に目覚めていった。
56年(同31年)、池田先生は室長として、元日付の本紙に寄稿。男子部約3万、女子部1万5千の陣列が整ったことに言及し、烈々と呼びかけた。
「戸田先生の御門下として、己が使命を果たすまで、最後の最後まで勇躍歓喜して、本年も闘おうではないか」
この年、池田先生は「大阪の戦い」や「山口開拓指導」の指揮を執り、拡大の金字塔を打ち立てていく。
翌57年(同32年)12月、恩師の生涯の願業である75万世帯が達成された。男子部の部員数は7万8千にまで拡大した。
58年(同33年)1月、池田先生は恩師に報告した。
「今年は、男子部は部員10万人の達成ができます」
戸田先生は、衰弱した体を起こして言った。
「10万人の青年が集まれば、なんでもできるな。民衆のための、新しい時代の夜明けが来るぞ……」
「はい。男子部が10万人を達成いたしましたら、国士10万の結集を行いますので、ぜひ、ご覧になってください」
同年9月、男子部は部員10万人を達成した。だが、4月2日に逝去した戸田先生が、その朗報を耳にすることはなかった。
池田先生は、第3代会長就任2カ月後の60年(同35年)7月、千葉・犬吠埼で行われた、男子部の人材育成グループ・水滸会の野外研修に出席し、幹部に質問する。
「今すぐ、東京に男子部を結集したら、何名が集うか」
会長就任後も、室長時代に恩師に誓った“精鋭10万結集”が、頭から離れることはなかった。
61年5月3日、第3代会長就任から1周年となるその日、男子部10万の結集を行うことが発表された。翌6月の男子部幹部会で、先生は力説した。
「戸田先生は、国に10万の国士がいるならば、苦悩の民衆を救うことは間違いないと断言された。私は、この恩師の叫びを絶対に虚妄にしたくはないのです」
「大仏法の正義を証明する、人生の勝利者に」――第10回男子部総会で、講演に立つ池田先生
世界の民衆は私たちの同胞
61年11月5日、10万の精鋭が集った第10回男子部総会に臨んだ池田先生は、心で恩師に叫んだ。
“今、(戸田)先生との誓いを一つ果たしました。先生の御精神を体した、10万の若人の代表をご覧ください”
午前9時45分、総会が開幕した。先生がグラウンドに姿を現すと、音楽隊の勇壮なファンファーレが鳴り響き、青年たちの入場が始まった。スタンドの上に掲げられた「勝利」の文字が、青年たちを見守っていた。
登壇した先生は、人類が直面する核兵器の不安と恐怖に言及し、訴えた。
「私どもは、自己の人間革命と、社会、世界の平和を可能にする、完全無欠なる日蓮大聖哲の大生命哲学をもっております。
この大生命哲学こそ、人類を救済しゆく、最高の指導原理であるということを、私どもは、声を大にして、叫び続けていこうではありませんか!」
1週間後の11月12日、横浜・三ツ沢の競技場で、第9回女子部総会が開催され、8万5千人が集った。先生は、恩師が「原水爆禁止宣言」を師子吼した場所で、「次の時代の女性指導者は、最高の哲学をもった皆さんである」と大確信の声を放った。
男女青年部の総会は今、広布史に燦然と刻まれる。その意義は、総会を目指して、一人一人が自らの人間革命に挑んだことにある。
さらには、この総会が、核兵器などの世界が直面する諸問題の解決へ向けて、青年が立ち上がる起点となったことにある。
小説『新・人間革命』第2巻「勇舞」の章には、アメリカのメンバーが、「国士」の「国」の意味について、青年部幹部に質問する場面がある。その問いに、青年部幹部は、こう答えた。
「戸田先生は、一応は日本の国という意味で使われていますが、それは、日本の青年に対する指導だからです。アメリカの皆さんにとっては、祖国であるアメリカの繁栄と平和ということになります。
また、世界中の人びとが、皆、同胞であるというのが仏法の考え方ですから、世界を一つの国ととらえ、人類の幸福を思い、行動していく人が国士といえるのではないでしょうか」
人類の幸福と世界の平和のために、今いる場所で「行動の連帯」を広げていく――「世界青年学会 開幕の年」、若き池田門下の新たな勝利劇が始まった。
軽やかな友情の調べで、第9回女子部総会を彩った鼓笛隊(1961年11月12日、神奈川・三ツ沢の競技場で)
【モノクロ写真をカラー化】
第10回男子部総会のカットは、モノクロ(白黒)でしか見られなかった聖教新聞社所蔵の写真を、編集部の責任のもと、AI(人工知能)を活用してカラー化したものです。
1961年11月5日の第10回男子部総会(カラー化する前のモノクロ画像)
第10回男子部総会での講演(カラー化する前のモノクロ画像)
【師子の光彩――大願を果たさん】第3回 地球民族主義2024年2月16日
水滸会の野外研修で、慈愛のまなざしを注ぐ戸田先生と池田先生(1955年6月、山梨で)。水滸会では、『水滸伝』に始まり、『モンテ・クリスト伯』『ロビンソン・クルーソー』等、世界の名著を通して学習。屋外での研修も行われ、中核の青年たちが育っていった
アジア、世界との“対話の道”を開かん
「この重大問題に対する、われわれの在り方の根本は、“絶対に戦争を起こさない、起こさせない”という、強盛な祈りです」
1962年(昭和37年)10月28日、池田先生は全国の幹部会の後に行われた指導会で、“キューバ危機”に対する信仰者としての姿勢を烈々と訴えた。
この月、ソ連軍の中距離ミサイルがキューバに配備されていることが判明し、アメリカ本土の中心都市が攻撃の射程圏に入った。
22日、ケネディ米大統領は、ミサイルの脅威を取り除くため、海上封鎖を行うことを発表。米市民の間で、ソ連との衝突はやむを得ないとの雰囲気が広がっていった。
24日、アメリカはキューバへの海上封鎖を開始。米軍がカリブ海全域に封鎖線を敷いたものの、ソ連船が封鎖海域に近づいていく。
人類は、核戦争の一触即発の状況に直面した。最終的に船は引き返し、最悪の瞬間を免れはしたが、この危機は、核抑止による平和維持の危うさを露呈したのである。
28日の指導会で、先生は恩師が提唱した「地球民族主義」の理念を確認する。
「世界は、東西両陣営に分かれていますが、学会は、右でも左でもなければ、アメリカ寄りでもソ連寄りでもありません。地球民族主義です。全世界の民衆を、平和の方向へ導こうとする立場です」
参加者は仏法者の使命を自覚し、胸を熱くした。
戸田先生が、地球民族主義について言及したのは、52年(同27年)2月17日のことだった。
青年部の研究発表会に出席した折、「私自身の思想を述べておく」と前置きした上で、それは共産主義でもなければ資本主義でもなく、「結局は地球民族主義であります」と宣言する。
当時、朝鮮戦争(韓国動乱)が続いており、東西冷戦の溝が深まっていた。恩師の壮大な構想を、愛弟子は心に深く刻み、その実現へ向けて思索を重ねていく。
戸田先生は、後継の青年たちが、アジア、そして世界という広い視野に立つことを望んだ。人材育成グループである女子部の「華陽会」や男子部の「水滸会」では、世界の名著を題材として扱いながら、青年の使命を教えていく。
さらに、少年少女が集う会合でこう期待を寄せる。
「将来、誰もが幸せを嚙みしめることができて、国境や民族の壁のない地球民族主義の平和な世界を築かねばならない。みんなは、きょうのこのおじさんの話を忘れないで、少しでも、この夢を実現してほしい」
全ての民族が同じ“地球民族”として、差別にとらわれることなく共存できる世界を――それが、恩師の願いだった。
第3代会長に就任した池田先生は、60年(同35年)10月2日、世界広布の第一歩をしるす。
地球民族主義の理念をわが心とし、“アジア、そして世界との対話の道を開きゆかん”と、翌61年(同36年)1月、初のアジア訪問へ。さらに10月には、欧州に初めて足跡を刻んだ。
10月7日、ドイツに入った先生は、翌8日、ベルリンのブランデンブルク門へと向かった。その2カ月前、街を分断する「壁」がつくられ始めたばかりだった。
門の周辺には装甲車が走り、銃を抱える兵士がいた。どこから銃弾が飛んでくるか分からない危険な状況である。門の近くに到着した先生は、車から降りた。さらに壁が立ちはだかる境界線を車で視察した後、再び、ブランデンブルク門の近くで車の外に出る。
そして門を仰いだ。
「30年後には、きっと、このベルリンの壁は取り払われているだろう……」
希望や願望ではなく、世界平和への固い決意の言葉だった。
装甲車の向こうに、東西冷戦の象徴となったドイツのブランデンブルク門が見える。池田先生は、門に向かって深い祈りをささげ、平和への誓いを新たにした(1961年10月)。分断の時代にあって、危険を顧みず“対話の道”を開いていった
学会精神をわが精神に
“憎悪と分断”から“友情と対話”の時代へ――池田先生は、世界の指導者たちと本格的な語らいを重ねていく。
中ソ紛争が深刻化していた74年(同49年)5月、中国を初訪問。9月には初めてソ連を訪れ、コスイギン首相と会談する。ソ連は中国を攻めることはないとの発言を引き出すと、12月に再び訪中し、首相の意向を中国首脳らに伝えた。
さらに、翌75年(同50年)1月の訪米の折には、キッシンジャー国務長官と会談し、中東問題の解決に向けた提言を手渡した。
先生は、日中、日ソの友好という次元にとどまらず、中ソ紛争の和解、さらには、国際情勢の安定化に向け、世界中に“対話の橋”をかけていったのである。
同月26日に開催され、SGI発足の場となった米グアムでの第1回「世界平和会議」。会場の入り口に置かれた署名簿の「国籍」の欄に、先生は「世界」と記す。心の中には、地球民族主義の理想の火が赤々と燃えていた。
先生の初のドイツ訪問から28年後の89年(平成元年)、「ベルリンの壁」は崩壊し、冷戦は終結。世界は大きな変化の時を迎えた。
96年(同8年)、恩師の生誕の日である2月11日に「戸田記念国際平和研究所」が誕生する。テヘラニアン所長との会見で、先生は、同研究所を創設するに当たっての思いを述べた。
――恩師が地球民族主義を提唱した時、多くの人々が夢物語だと笑ったこと。そうした中で、民衆と民衆の心を結ぶため、世界を駆け続けてきたこと。時代は、地球民族主義を志向していること。
そして、民衆の国際交流による国家悪の監視が、地球民族主義を具体化する第一歩であるとし、「民間外交」の重要性を強く訴えたのである。
先生は、この月の本部幹部会で高らかに宣言する。
「このたびの『戸田記念国際平和研究所』の創設をもって、私は戸田先生との一切の具体的なお約束は、すべて実現した。仏法を基調にした平和・文化・教育運動のすべての拠点をつくり、運動の根本軌道をつくりあげた」
さらに、創価の旗を掲げる青年たちに、こう強く呼びかけた。
「私もいよいよ、全世界に牧口先生の思想、戸田先生の哲学の真価を宣揚していく決心である。 いかなる迫害も陰謀も恐れない。私は師子の子である。戸田先生の弟子である。若き後継の弟子である青年部も、この学会精神をわが精神として、私のあとを立派に継いでいただきたい」
【モノクロ写真をカラー化】
今回掲載されているカットは、モノクロ(白黒)でしか見られなかった聖教新聞社所蔵の写真を、編集部の責任のもと、AI(人工知能)を活用してカラー化したものです。
1955年6月に行われた水滸会の野外研修(カラー化する前のモノクロ画像)
ブランデンブルク門と池田先生(カラー化する前のモノクロ画像)