インタビュー デューイ協会元会長 ラリー・ヒックマン博士2024年1月6日
- 〈危機の時代を生きる 希望の哲学〉
本年は、創価教育の父である牧口常三郎先生の殉教から80年(11月18日)。牧口先生が敬愛した人物の一人が、同時代を生きたアメリカの教育哲学者ジョン・デューイであった。ジョン・デューイ協会元会長のラリー・ヒックマン博士に、デューイと牧口先生の教育哲学などを巡りインタビューした。(聞き手=萩本秀樹)
ヒックマン博士 新年のごあいさつを申し上げます。この一年の始まりは、皆さまにとって、池田第3代会長の業績への感謝を深め、会長が示した道に続く決意を新たにする機会であることと思います。
――私たちは今、ウクライナや中東の情勢、気候変動をはじめ、地球規模の危機に向き合っています。ジョン・デューイ(1859~1952年)が生きた時代のアメリカも、分断と対立が深まっていました。
博士 おっしゃる通り、デューイは混迷の時代を生きました。南北戦争と2度の世界大戦、さらに朝鮮戦争を見て、亡くなったのは「核時代」の始まりとも言える時です。アメリカ社会には、構造的な人種差別、社会の周縁に追いやられた民族や文化集団への迫害が横行していました。
その中でデューイは、誰もが敬意を払われ、成功と幸福への方途を提供されるべきであると考えました。例えば彼は、アフリカ系アメリカ人(African-Americans)やイタリア系アメリカ人(Italian-Americans)など、アメリカ国外に民族性のルーツを持つ人々について、このハイフン(-)はアメリカ社会を隔てるのではなく、つなぐものであると述べました。
彼は、「アメリカは国や民族の“るつぼ”である」という、一人一人の個性を消すような考えを嫌いました。むしろ、それぞれの楽器が固有の音色を奏でて調和をなす、「交響曲」のような国であらねばならないと信じていたのです。
2050年には、アメリカ人口の約4分の1を中南米系の移民が占めるという調査を、最近、目にしました。私が生まれ育ったテキサス州にも、ヨーロッパやアジアからの移民が多くいて、豊かで多様な文化の形成に貢献しています。気候変動とともに人口移動が加速する今、移民の人たちの存在はますます大きくなるでしょう。
経済的また政治的なストレスの増大や現下の国際情勢の影響で、難民の数も増え続けており、多くの国で移民政策の見直しが議論されています。創造的かつ人道主義の観点から、早急に解決されなければならない問題です。
デューイと牧口先生
――池田先生とのてい談(『人間教育への新しき潮流』)では、同時代を生きたデューイと牧口常三郎先生について、さまざまな点から語り合われています。
博士 二人には非常に多くの共通点がありました。
まずは二人の違いに着目してみると、第一に、牧口会長は日本社会の伝統に収まらない革新性を持ち合わせ、それ故に多くの批判を受けた一方で、デューイは、哲学や教育学の分野ですでに広く尊敬を集めており、その意味で、アメリカ社会の伝統の“内側”にいた人物であったと言えます。実際に、デューイは、アメリカ心理学会とアメリカ哲学会の会長を務め、ニューヨークタイムズは彼を、「アメリカの哲学者」と呼んでたたえています。
第二に、牧口会長が、教育改革を推し進める中で日蓮仏法に帰依したのとは対照的に、デューイは、キリスト教の原理主義者であった母を見ていたことで、キリスト教は哲学や教育の改革に不向きな偏狭なものであると捉えました。
もっとも、デューイは信仰それ自体に否定的であったのではなく、科学や人文科学が進歩する中で変わることができない、形骸化する宗教組織や制度に批判的であったということです。
次に、デューイと牧口会長の共通点についてですが、まず、教育に対する革新的なアプローチと、環境意識の高さが挙げられます。二人とも、ダーウィンの進化論などの科学的な世界観、そして恐らく最も重要な点として、機械論的ではない有機的な世界観に影響を受けていました。
心と体を対立するものとして区別せず、人間を全体として捉えていた点も共通しています。デューイは著書『経験と自然』の中で、「身体―精神(Body-Mind)」とハイフンを使った言葉を用いています。ここでも、彼にとってハイフンは、「つなぐもの」を意味していました。
また、デューイも牧口会長も、自由な探究を妨げるものとは戦い、学校を地域生活に密着した場として捉えていました。さらに、コンテクスト(脈絡)を考慮する重要性も一致しています。学習者の過去の経験や文化的規範、そして地理的要因や歴史的要因などを考慮することが重要であるという主張であり、牧口会長が、地理学を基礎として他の学問領域にわたって多くの著作を残したことにもつながるものです。
米ジョン・デューイ協会元会長のヒックマン博士(左から2人目)、ジム・ガリソン博士(左端)が、池田先生と和やかに。この日、同協会の終身名誉会員証が先生に授与された(2008年8月、長野で)。3人の語らいは、てい談集『人間教育への新しき潮流』に結実している
対話を促すアプローチ
――昨年行われた日本デューイ協会の第66回研究大会で、博士は、デューイの「成長」と牧口先生の「価値創造」という概念の共通性について語られました。
博士 牧口会長の「価値創造」と、デューイが個人やコミュニティーの「成長」として表現したものは、程度の差こそあれ同じであったと考えます。
当時、「成長」の概念は曖昧すぎると批判を受けましたし、同様のことは「価値創造」にも当てはまったのかもしれません。しかし私はむしろ、それらの概念は曖昧なのではなく、結論が固定されていないがゆえの「オープンエンド」(途中で変更や修正が可能であること)な性質を帯びたものであると思うのです。
成長も、価値創造も、実験的なものであり、多分に進化論的な考えです。環境条件が変われば、適応し、生存するための戦略も変わるものですが、それは教育についても同様であるべきなのです。
思い起こすのは、アメリカ創価大学(SUA)で開催された創価教育会議で、「創価教育とは何か」を巡る問いと議論が飛び交っていたことです。この問いに対し、私たちは明確な答えを知りません。創価教育を定義する作業は、今なお進行中であるからです。
デューイは、人間の可能性への信頼によってのみ民主主義の創出は可能になると言いましたが、その意味で、価値創造も、成長も、挑戦的な目標であり、多くの作業を伴うものです。
――「オープンエンド」な方法が開かれた対話を促す一方で、結論が決まっている「クローズエンド」のアプローチは、広がりに欠ける側面もあります。
博士 その意味で、教育者は変化を恐れてはなりません。イギリスの経済学者であるケインズは、かつて自分の立場を変えたと非難されたとき、「状況が変われば私は意見を変える」と答えています。
では、曖昧であることとオープンエンドであることの違いをどう見極めるのでしょうか。曖昧さは、多くの場合、ただ問題を回避するための逃げ道となりますが、オープンエンドであることは、変化を受け入れ、新たな経験がもたらす価値を歓迎します。ゆえに、具体的に問題解決を進めていく方法たり得るのです。
教育哲学と実践の共鳴
――デューイと牧口先生の教育哲学と実践は、どのように共鳴していたとお考えですか。
博士 デイル・ベセル氏(米インタナショナル大学元教授)は、牧口会長の哲学をいくつかの主要なテーマに立て分けていますが、その一つ一つが、デューイの教育論においても重要であると言えるでしょう。
第一に、教育の目的は実生活のニーズの中で生まれなければならないということです。デューイもまた、子どもたちのニーズと関心が教育の中心にあらねばならないと考えました。
第二に、幸福は社会で共有された意識の中で育まれるという点です。デューイは、社会性を身に付けることそれ自体は、犯罪集団の間でも起こりうるものだと考えていました。ゆえに重要なのは、社会の意識を良い方向へと導き、人々がより幸せになる方法を見つけることです。
第三に、子どもは生まれながらにして探究心と創造性に富んでいるということです。ゆえに教育は、創造的で貢献的な人生を生きるための目標とツールを開花させゆくものです。
4点目に、牧口会長は、教育の目的は情報や価値の単なる伝達ではないと考えましたが、デューイも同様です。丸暗記や詰め込み教育、テストのための教育といった、従来の教育モデルの克服を目指しました。
5点目は、教育の科学の重要性です。牧口会長の実証主義に通ずる点として、デューイもまた、教育には科学的な根拠が必要であると考えました。
そして6点目に、フィールドワークの大切さです。デューイの教育哲学は①テーマ中心型の学習、②ピアラーニング(注1)、③サービスラーニング(注2)、④共同研究者としての教師という柱で表現されますが、これらは、SUAをはじめとする創価教育の柱でもあると私は考えています。
注1 学習者同士が協力しながら学び合う方法
注2 社会活動を通した学習
池田先生とヒックマン博士、ガリソン博士のてい談集の日本語版と英語版
身近な観察から視野を広げる
――池田先生は世界市民を育成する事業として、創価教育の学びやを国内外に創立しました。世界へと開かれた視野も、デューイと牧口先生の共通点でした。
博士 私の知る限り、世界市民という言葉は、デューイの時代には存在していませんでした。それでもデューイは、自国以外の文化や生活様式へと認識と理解を広げることを志向していましたし、彼自身、世界を広く旅しており、人類が進歩するためには、国家や文化の対立、偏見、競争心を克服しなければならないと考えていました。
「世界市民」と、通常言うところの「コスモポリタン」の間には、区別があります。コスモポリタンは縦横無尽な市民のことを指します。彼らは上昇志向を持ち、文化を超えて移動し、働きます。食べ物、音楽、芸術など、他の文化を高く評価しつつ、世界の宗教的多様性をよく理解した人たちです。
その意味で、コスモポリタンは世界市民の一部ではありますが、全体ではないのです。世界市民とは、地球規模での経済的な視点を、不公正も含めて正しく認識している人たちのことであるからです。そしてまた、生態系の実情を理解し、地球環境保護の重要性や環境正義に意識を向けていなければなりません。
経済正義やエコロジー、多様性、平和教育などの地球規模の問題に対して、自分の事として関心を持つ中で、コスモポリタニズムを超えた世界市民への道があると考えます。
――博士は長年、SUAの理事も務められました。創価教育のどのような側面に、デューイの精神が生きていると考えますか。
博士 例えば、SUAでは学生と教員の比率が約7対1であり、少人数の学習環境で両者が共同研究者となっているという意味で、デューイの教育の柱の一つが体現されています。
また、「ラーニングクラスター」のような学際的な授業を通じて、物事の相関関係を深く知ることができます。デューイが重んじた実証的な経験を、教育の中心に置いている実例です。
全ての学生が経験する留学も、異なる文化に身を置くことで、「教育ツーリズム」にとどまることのない世界市民教育の重要な一部となっています。また、ビジネスや産業界、NGO、教育など多様な分野で通用するリーダーシップを磨く経験や、平和研究に力を入れていることも重要です。
こうした創価教育の魅力は大学にとどまりません。今も思い出すのは、関西創価学園を訪問した時のことです。ある生徒たちは、環境衛生の指標としてホタルの個体数を調査しており、一方である生徒たちは、NASA(アメリカ航空宇宙局)とのプロジェクトに携わっていると知りました。
身近なホタルの観察を通して、より広い環境問題へと関心を向けながら、一方で、壮大な宇宙についての研究もある。素晴らしい教育だと実感しました。
そしてこれらは、池田会長が構想し、発展させた、世界市民教育のほんの一例にすぎません。こうした世界市民の育成が、創価教育のあらゆる場所、あらゆる学びやで、大きく花開いているのです。
Larry Hickman 1942年、アメリカ・テキサス州生まれ。アメリカ哲学振興協会会長、ジョン・デューイ協会会長などを歴任。南イリノイ大学カーボンデール校名誉教授。『ジョン・デューイのプラグマティック・テクノロジー』など著作・編著多数。池田先生と同協会元会長のジム・ガリソン博士と、てい談集『人間教育への新しき潮流』を発刊している。