誓願 209~210ページ 【小説「新・人間革命」】第30巻〈下〉2024年1月4日

 あたらしきだいとびらせいねんによって開かれる。わかいつざいりくぞくそだち、いかんなくちからはっしてこそ、国も、しゃかいも、だんたいも、えいぞくてきはってんがある。ゆえにやまもとしんいちは、つねに青年のいくせいしょうてんて、いっさいの力をそそいできた。
 青年が、こうこうけいしゃとしてたいせいしていくうえでたいせつようけんは、何よりもしんじんへのるぎないかくしんをつかむことである。そして、ふか使めいかくし、しんみがきたえ、じんかくとうしていくことである。それには、ちょうせんしんにんたいりょくせきにんかんとうとうにつけ、自身のにんげんてきせいちょうはかっていくことがきわめてじゅうようになる。伸一は、そのための一つのとして、青年たちをちゅうしんに、かくほうめんけんぶんさいかいさいすることをていあんしてきた。
 文化祭は、しんこうによってせいめいやくどうかんひょうげんするみんしゅうさんたいである。さらに、しんらいゆうじょうがもたらすだんけつと力をもってえがしめす、人間きょうしゅくである。また、こうせん、すなわちかいへいへのちかいのひょうめいともなるぼうさいてんである。
 二十一せいに向かってしょうするそうがっかいぶんさいせんとなったのは、かん西さいであった。
 一九八二年(しょう五十七年)三月二十二日、おおさかながりくじょうきょうじょうで、第一回関西せいねん平和文化祭がかいさいされたのである。
 関西には、ぜんこく、全世界にだいかんどうこした、六六年(同四十一年)にはんしんこうえんきゅうじょうおこなわれた「あめの関西文化祭」のれきがあった。この文化祭のろくフィルムを、とうちゅうごくしゅうおんらい(チョウ・エンライ)そうで、創価学会をけんきゅうしていたそっきんの人たちもかんしょうしていた。その一人ひとりで、総理としんいちかいけんつうやくつとめたりんれいうん(リン・リーユン)は、こうかたっている。
 「若人わこうどどろんこになって生き生きとえんしている姿すがたを見て、ほんとうにすばらしいとおもったのです」「創価学会がたいしゅうばんとしただんたいであることをじっかんしました。ちゅうにちゆうこうへのたいせつな団体であるとふかにんしきしたのです」
 関西青年部には、この文化祭をえる、げいじゅつせいと学会だましいにあふれたかんどうたいにしなければならぬとの、つよちょうせんがいがあった。

 

誓願 210~212ページ 【小説「新・人間革命」】第30巻〈下〉2024年1月5日

 この文化祭のぜんねんにあたる八一年(しょう五十六年)十一月、第三回関西そうかいしゅっせきするため、おおさかおとずれたしんいちに、かん西さいせいねんたちは言った。
 「らいねん三月の関西青年へいぶんさいは、『がっかいここにあり、そうていけんざいなり!』と、まんてんしめたいにいたします!」
 「十万人の青年がおちしております!」
 伸一は、えるたいようのごとき、わかじょうねつかんじた。
 文化祭は、三月二十一、二十二のりょうじつにわたっておこなわれるていであったが、二十一日ははげしいあめちゅうとなった。この日、大阪入りした伸一は、らくたんしているであろう青年たちをはげまそうと、やくいんかいけつけた。
 文化祭で関西の青年たちは、なんわざである六だんえんとういどもうとしていた。ぜんねん四月に、とうきょうしたまちどうつどった東京ぞくゆうこうそうかいで、こうとうだんかんせいさせていたが、文化祭では、はつちょうせんとなる。そのほうこくを受けていた伸一は、こう言って励ました。
 「今日きょうは中止になって、さぞざんねんおもっているだろうが、六段円塔というきょくげんえんを二日もつづけることは、あまりにもこくです。こりやすい。むしろ雨がってよかったんです。明日あしたたのしみにしています」
 文化祭は、あんぜん、無事故がてっそくである。事故を起こしては、取り返しがつかない──関西のせいねんたちは、そうふかかくし、六だんえんとうへのちょうせんが決まると、ぜったいけつし、事故をこさぬためのふうけんきゅうかさね、みなしんけんしょうだいはげんだ。
 しゅつえんしゃたいそうきょうけいけんしゃなどをゆうせんしてあつめ、まず、てっていしたたいりょくづくりからはじめた。はしみやうでせ、あしこしたいかんきょうのためのうんどうなどが、来る日も、来る日もかえされた。おくがいれんしゅうじょうでは、などさせてはならないと、ちかくのそうねんじんが、しゅてきにガラスのへんいしひろい、せいそうつとめた。
 ぶっぽうどうである。しょに「さきざきようじん」(一一九二ページ)としめされているように、ばんぜんそなえがあってこそ、すべてのせいこうがある。

誓願 212~214ページ 【小説「新・人間革命」】第30巻〈下〉2024年1月6日

 「じょうしょうかん西さい」に、さわやかなぼうあおぞらひろがっていた。二十二日一時はん、関西せいねんへいぶんさいは、しんにゅうかいいん一万人の青年による平和のこうしんまくけた。
 ほまれのせいしゅんを、しんじつの生き方をもとめてそうみちすすんだ新入会の若人わこうどたちが、むねってあゆみをはこぶ。しゅうもんけんぎゃくふうのなかで、けんめいかれらと仏法たいし、きょうみのらせたどうたちは、そのほこらかな姿すがたに胸をあつくした。
 あたらしきちからこそが、新しいらいを開くげんどうりょくだ。
 こくれんそうがっかいへいにゅうじょうしたあと、しんいちせいねんたちにおくった「青年よ 二十一せいこうやまのぼれ」にきょくをつけたがっしょうきょくを、二千人のこんせい合唱団がねっしょうし、グラウンドいっぱいにじゅんぱくのドレスがう。じょそうさくバレエである。
 平和のてん使てきたいのパレードやこうとうのリズムたいそう、女子部のダンス、はかま姿すがたしいがくせいぐんおんがくひととナレーションでこうせいする「かん西さい創価学会三十年のあゆみ」、ちゅうとうしょうねんの体操、女子部のバレエ、音楽隊のパレード、だいえんそうじょうしょう太鼓」と、れいな、また、ゆうそうえんつづいた。
 やがて、だんみ体操となった。
 「ワァー」とたけびをあげ、男子部四千人がグラウンドにおどる。
 「くれないうた」「げんいどむ」など、学会歌がながれるなか、つぎつぎたいけいへんし、にんげんおおなみがうねり、人間ロケットがい、八つの五だんえんとうがつくられた。
 さらに、ちゅうおうでは六段円塔が組まれはじめた。
 一段目が六十人、二段目二十人、三段目十人、四段目五人、五段目三人、六段目が一人ひとり──一段目は立ったまま、そのかたに、あとの三十九人をせていく。一段目がらげば、じょうだんささえることはできない。
 二だんり、ちゅうごしたいせいえんじんむ。
 さらに、三段目、四段目……とじゅんに乗り、同じ体勢で、六段目が乗るのをつ。
 「いくぞーっ!」
 げんかいへのちょうせんというドラマがはじまった。みなには、たんれんとおしてつちかわれたしんがあった。

誓願 214~216ページ 【小説「新・人間革命」】第30巻〈下〉2024年1月8日

 六段えんとうの二段目のメンバーが、上に十九人を乗せたまま、こしばす。そのあしが一段目のともかたむ。ぶんたちが腰をしっかり伸ばしきらなければ、上に乗った人たちがバランスをくずしてらっすることになる。を食いしばって立ち上がる。
 つづいて、三段目が、四段目がつぎつぎと立った。皆、からだきざみにふるえている。
 じょうさつえいようのヘリコプターがぶ。
 バババババババー……。
 ヘリのこすかぜそうじょうはげしい。円塔がれる。しゅうのメンバーは、こころだいもくとなえる。やがて、ヘリはとおのいていった。
 五段目が立った。おんがくたいかなでるドラムのおとひびく。六段目となるさい一人ひとりが立とうとした。が、腰をかがめた。あしもとせいねんの肩に手をかけ、もう一度、体勢をととのえる。かんきゃくいきをのみ、いっせいに円塔のちょうじょうを見る。
 “立て! おれたちをしんじて立て!”
 かれささえるせいねんたちが、こころさけぶ。
 「がんれ!」
 かんきゃくせきからこえこる。
 青年はしんきゅうし、そらげた。そして、いっに立った。
 さいじょうだんで青年は、りょうひろげた。
 だいかんせいだいはくしゅが、ながりくじょうきょうじょうてんくうった。スタンドには、「かん西さいだましい」のひとあざやかにかび上がる。
 しんいちも、大きな拍手をおくった。
 えんとうのてっぺんで、青年が何かを叫んだ。
 「こう、やったぞ!」
 大歓声にかきされ、ることはできないが、たましいぜっきょうであった。円塔に立った青年はきくひろゆきといい、弘治とは、五日前にかいしたしんゆうだんいんうえ弘治のことである。
 二人ふたりは、同じすいどうこうかいしゃはたらいており、上野も、この青年へいぶんさいたいそうのメンバーとしてしゅつえんするていであった。しかし、三月十七日、彼はやまいのために他界した。親友のおもいをってのきくちょうせんであった。
 せいねんたちがてた六だんえんとうは、くずれぬ、うつくしきゆうじょうきんとうでもあった。

 

誓願 218~220ページ 【小説「新・人間革命」】第30巻〈下〉2024年1月10日

 上野弘治の妻は、伸一への手紙に、こう記した。
 「宿命と闘った主人は、子どものように純粋で美しい顔でした。主人は、私たちを納得させて亡くなりました。信心とはこういうものだ、宿命と戦うとはこういうものなんだ、と必死に生きて生き抜いて教えてくれました」
 さらに、関西青年平和文化祭の出演者らで、決意の署名をすることになった時、皆から上野の名も残したいとの希望があり、彼女が夫に代わって筆を執った。
 「我が人生は広宣流布のみ‼ 上野弘治 名誉本部長」──夫の心をとどめたのだ。
 その報告に伸一は、上野への追善の祈りを捧げるとともに、夫人が亡き夫の分まで広宣流布に生き抜き、幸福な人生を歩んでほしいと祈念し、題目を送った。

 文化祭に出演したメンバーの多くは、訓練や団体行動が苦手な世代の若者たちである。しかも、仕事や学業もある。皆、挫けそうになる心との格闘であり、時間との戦いであった。そのなかで唱題に励み、信心を根本に自分への挑戦を続け、互いに“負けるな!”と励まし合ってきた。
 そして、一人ひとりの人間革命のドラマが、無数の友情物語が生まれた。青年たちは文化祭を通して、困難に挑み戦う学会精神を学び、自身の生き方として体現していった。つまり、不可能の壁を打ち破る不撓不屈の“関西魂”が、ここに継承されていったのである。
 “関西魂”は、どこから生まれたのか──。
 “この大阪から、貧乏と病気を追放したい。一人も残らず幸福にしたい”というのが、戸田城聖の思いであった。
 この念願を実現するために、戸田は、弟子の山本伸一を、名代として関西に派遣した。伸一は、師の心を体して広宣流布の指揮を執り、関西の地を走りに走った。そして、一九五六年(昭和三十一年)五月には、大阪支部で一カ月に一万一千百十一世帯という弘教を成し遂げ、民衆凱歌の序曲を轟かせた。

 

誓願 220~221ページ 【小説「新・人間革命」】第30巻〈下〉2024年1月11日

 伸一は、一九五六年(しょう三十一年)七月、がっかいはじめてすいせんこうを立てたさんいんいんせんきょで、大阪ほうえんかつどうさいこうせきにんしゃつとめ、ごととうせんを勝ち取った。“当選などのうである”との、おおかたそうくつがえし、「“まさか”が実現」としんぶんほうじられた、げきてきだいしょうであった。
 よく五七年(同三十二年)の七月三日、かれは、同年四月におこなわれた参議院大阪地方区のけつ選挙で、選挙はんをしたというじつつみせられ、たいされる。大阪けんである。あたらしい民衆せいりょくたいとうおそれるおうぼうけんりょくだんあつであった。どういかりにふるえた。
 七月十七日、大阪けいならびに大阪けんきゅうだんする大阪たいかいが、なかしまの大阪ちゅうおうこうかいどうで開かれた。じょうがいも多くの人でうずまった。ちゅうからごうとなり、いなずまてんいた。そとの人たちは、あめたれながら、とくせつされたスピーカーからながれるこえみみをそばだてた。おさなったじんもいたが、だれかえろうとはしなかった。
 “じつやまもとしつちょうを、なぜたいしたのか! みんしゅうしあわせをねがってはしき、私たちにゆうをともしてくれた室長をはくがいする、けんりょくしょうを、私たちはだんじてゆるさない!”
 どうこころせいほのおは、あかあかがった。そのきょうちゅうふかく、“じょうしょう”のちかいがきざまれ、めた民衆のだいこうしんはじまったのだ。
 その時の、なかどもたちも、今、しきせいねんへとそだち、青年へいぶんさいおおたいらんし、ぜんしんで民衆のがいを、かんと平和をひょうげんしたのである。
 青年たちは、ごとがくぎょうのあと、いきせき切って、れんしゅうかいじょうけつけ、ひっに、けじだましいをたぎらせて練習にあせながした。そうそうたたかったそうねんじんは、まいにちのようにおうえんおとずれ、れて来たまごたちに言うのである。
 「よう見とき、あのけんめいがん姿すがたかん西さい魂や! がっかいせいしんや!」
 草創の同志は、こうけいわかたちが、ごとに育ち、たましいのバトンががれていくことに、よろこびとほこりをかんじたのである。

誓願 221~223ページ 【小説「新・人間革命」】第30巻〈下〉2024年1月12日

 おおさかしょみんのなかにとうじ、“このさんをなくす”“だれ一人ひとりとして幸せにせずにはおくものか!”と誓ったじょうせいいちねん──それはそく「平和の心」にほかならなかった。
 しんいちは、この戸田の心をむねに、そのじつげんのために、ぜんせいこんかたむけてほんそうした。
 そして、かん西さいどうは、しんいちともたたかい、けんりょくだんあつにもくっせず、みんしゅうさちせいれきつづってきた。まさに、“関西だましい”“がっかいせいしん”のけいしょうのなかで、「へいこころ」もがれていくのである。

 関西せいねん平和ぶんさいは、「平和せんげん」へとうつった。関西青年ちょうおおいしまさは、マイクに向かうと、「全関西のやまもともんせい十万の同志しょくん!」とちからづよびかけ、平和へのちかいをげていった。
 「一、われわれは、にちれんだいしょうにんぶっぽうひろだい精神、かい精神にまで高め、『せいめいそんげんにんげん平和しゅ』のねんにのっとり、りっしょうあんこくこうきゅう平和うんどうてんかいしゆくことを誓う。
 一、だいだいじょうせいかいちょうの『げんすいばくきん宣言』らい二十五年。今や、このどうの精神は第三代山本会長によって継承され、世界的なちょうりゅうとなって民衆のきょうめいを呼んでいる。我々は、このふかき仏法者のしんねんよりはっした平和こうどうを、二十一せいさらに高めて、この宣言のとうてつした理念をうったつづけ、かくへいはいぜつじつげんす。
 一、恒久平和けんせつの生命線は、民衆と民衆とのれんたいにかかっている。我々は、こうはんなる世界の平和をきゅうする青年のちからきゅうごうし、もってこくれんけんしょうの精神をまもあたらしい時代のこくさいろんけいせいし、二十一せいを、じんるいきゅうする、せいめいへいの世紀にすることをちかう」
 この「平和せんげん」は、きょうじょうくしたぜんいんさんどうだいはくしゅをもってさいたくされた。
 平和うんどうには、運動をささえるかったるてつがくもとめられる。ぶっぽうでは、ばんにんが「ほとけ」の生命をそなえているとく。つまりにんげんは、ひとしくそんげんなるそんざいであり、たれびとこうふくに生きるけんがあることをうらづけるほうである。

3・22「関西青年平和文化祭」から41周年 師弟のそこぢからを満天下に

2023年3月17日

大阪・長居陸上競技場(当時)で開催された第1回関西青年平和文化祭。常勝の空に六段円塔がそびえ立った(絵・間瀬健治)

大阪・長居陸上競技場(当時)で開催された第1回関西青年平和文化祭。常勝の空に六段円塔がそびえ立った(絵・間瀬健治)

 本年は、第1回関西青年平和文化祭から41周年。関西の同志は、“新たな師弟のきんとうを築く”との決意で広布に走る。ここでは、弟子のちかいととうそうで反転こうせいのぞんだ「3・22」の広布史を学ぶ。

学会ここにあり

 池田先生はかつて「広宣流布とは、弟子が師にちかい、それを果たすこと」と記した。
 師と苦楽を共にしてきた関西同志の心には、常にこの“師弟のせいがん”が脈打つ。先生の第3代会長辞任の時も、関西には弟子のちかいが燃えたぎっていた。
 「関西の弟子たちは/すじほどもるがなかった。/こうべを上げてむねを張り/強く強く また正しく/師弟のほまれを/さけび切っていったのである」(長編詩「永遠の常勝関西をたたう」)
 1981年(昭和56年)11月、第3回関西総会出席のためにらいはんした先生に、青年部が文化祭のかいさいを申し出た。
 「『学会ここにあり』と満天下に示すたいにいたします」
 先生は、その心意気が「ともかくうれしかった」とつづっている。
 その4カ月後の82年(同57年)3月22日、第1回関西青年平和文化祭が開かれた。“新しいちから”がやくどうし、人文字や新会員1万人の行進に、各界のらいひんきょうたんした。そして、くつたましいしょうちょうとしていどんだのが、ぜんじんとうの「六段円塔」であった。

くつかん西さいだましい

 「そのしゅんかん、人文字は、金地にしんの字で、『かん西さいだましい』とえがき出した。六段円塔は、雲一つない“常勝の空”に、人間と人間のかちどきたいを打ち鳴らしながら、そびえ立った」(「随筆 新・人間革命」)
 あらゆるこんなんと戦い、広布拡大の対話に走り、限界にいどんだ青年たち。「不可能を可能に」とのとうこんは、熱とちからと団結の「六段円塔」に結実した。池田先生は、つづった。
 「立ったのだ! ついに立ったのだ! 勝ったのだ! われらは、断固として勝ったのだ! われらはちょうせんし、ついに世紀の勝利のとうを打ち立てた!」(同)
 この歴史的な文化祭は、反転こうせいの流れを大きく加速させた。
 弟子が勝利してこそ師の正義は証明される。この年、関西は10万世帯のしゃくぶくを達成。あっとうてき拡大で、広布をはばむ暗雲を打ち払っていった。
 先生は文化祭しゅうりょう、関西の友に句をおくった。
 「あなうれしし 池田門下の 船出たり」
 3・22は、師弟の“かん西さいだましい”をけいしょうしゆく新たな出発の日である。いよいよ常勝のそこぢからを示す春がとうらい! 全関西が総立ちとなり、師弟のがいとどろかせゆこう。