誓願 209~210ページ 【小説「新・人間革命」】第30巻〈下〉2024年1月4日
新しき時代の扉は青年によって開かれる。若き逸材が陸続と育ち、いかんなく力を発揮してこそ、国も、社会も、団体も、永続的な発展がある。ゆえに山本伸一は、常に青年の育成に焦点を当て、一切の力を注いできた。
青年が、広布の後継者として大成していくうえで大切な要件は、何よりも信心への揺るぎない確信をつかむことである。そして、地涌の深き使命を自覚し、自身を磨き鍛え、人格を陶冶していくことである。それには、挑戦心、忍耐力、責任感等々を身につけ、自身の人間的な成長を図っていくことが極めて重要になる。伸一は、そのための一つの場として、青年たちを中心に、各方面や県で文化祭を開催することを提案してきた。
文化祭は、信仰によって得た生命の躍動や歓喜を表現する民衆讃歌の舞台である。さらに、信頼と友情がもたらす団結の美と力をもって描き示す、人間共和の縮図である。また、広宣流布、すなわち世界平和への誓いの表明ともなる希望の祭典である。
二十一世紀に向かって飛翔する創価学会の文化祭の先駆となったのは、関西であった。
一九八二年(昭和五十七年)三月二十二日、大阪の長居陸上競技場で、第一回関西青年平和文化祭が開催されたのである。
関西には、全国、全世界に大感動を呼び起こした、六六年(同四十一年)に阪神甲子園球場で行われた「雨の関西文化祭」の歴史があった。この文化祭の記録フィルムを、当時、中国の周恩来(チョウ・エンライ)総理の指示で、創価学会を研究していた側近の人たちも観賞していた。その一人で、総理と伸一の会見で通訳を務めた林麗韞(リン・リーユン)は、こう語っている。
「若人が泥んこになって生き生きと演技している姿を見て、本当にすばらしいと思ったのです」「創価学会が大衆を基盤とした団体であることを実感しました。中日友好への大切な団体であると深く認識したのです」
関西青年部には、この文化祭を超える、芸術性と学会魂にあふれた感動の舞台にしなければならぬとの、強い挑戦の気概があった。
誓願 210~212ページ 【小説「新・人間革命」】第30巻〈下〉2024年1月5日
この文化祭の前年にあたる八一年(昭和五十六年)十一月、第三回関西総会に出席するため、大阪を訪れた伸一に、関西の青年たちは言った。
「来年三月の関西青年平和文化祭は、『学会ここにあり、創価の師弟は健在なり!』と、満天下に示す舞台にいたします!」
「十万人の青年がお待ちしております!」
伸一は、燃える太陽のごとき、若き情熱を感じた。
文化祭は、三月二十一、二十二の両日にわたって行われる予定であったが、二十一日は激しい雨で中止となった。この日、大阪入りした伸一は、落胆しているであろう青年たちを励まそうと、役員会に駆けつけた。
文化祭で関西の青年たちは、至難の技である六段円塔に挑もうとしていた。前年四月に、東京下町の同志が集った東京家族友好総会で、江東区男子部が完成させていたが、文化祭では、初の挑戦となる。その報告を受けていた伸一は、こう言って励ました。
「今日は中止になって、さぞ残念に思っているだろうが、六段円塔という極限の演技を二日も続けることは、あまりにも過酷です。事故も起こりやすい。むしろ雨が降ってよかったんです。明日を楽しみにしています」
文化祭は、安全、無事故が鉄則である。事故を起こしては、取り返しがつかない──関西の青年たちは、そう深く自覚し、六段円塔への挑戦が決まると、絶対無事故を決意し、事故を起こさぬための工夫、研究を重ね、皆で真剣に唱題に励んだ。
出演者も体操競技の経験者などを優先して集め、まず、徹底した基礎体力づくりから始めた。走り込みや腕立て伏せ、足腰や体幹強化のための運動などが、来る日も、来る日も繰り返された。屋外の練習場では、怪我などさせてはならないと、近くの壮年・婦人部が、自主的にガラスの破片や小石を拾い、清掃に努めた。
仏法は道理である。御書に「前前の用心」(一一九二ページ)と示されているように、万全な備えがあってこそ、すべての成功がある。
誓願 212~214ページ 【小説「新・人間革命」】第30巻〈下〉2024年1月6日
「常勝関西」に、さわやかな希望の青空が広がっていた。二十二日午後一時半、関西青年平和文化祭は、新入会員一万人の青年による平和の行進で幕を開けた。
誉れの青春を、真実の生き方を求めて創価の道に進んだ新入会の若人たちが、胸を張って歩みを運ぶ。宗門事件の逆風のなかで、懸命に彼らと仏法対話し、弘教を実らせた同志たちは、その誇らかな姿に胸を熱くした。
新しき力こそが、新しい未来を開く原動力だ。
国連旗、創価学会平和旗が入場したあと、伸一が青年たちに贈った詩「青年よ 二十一世紀の広布の山を登れ」に曲をつけた合唱曲を、二千人の混声合唱団が熱唱し、グラウンドいっぱいに純白のドレスが舞う。女子部の創作バレエである。
平和の天使・鼓笛隊のパレードや高等部のリズム体操、女子部のダンス、袴姿も凜々しい学生部の群舞、音楽と人文字とナレーションで構成する「関西創価学会三十年の歩み」、中等・少年部の体操、女子部のバレエ、音楽隊のパレード、和太鼓演奏「常勝太鼓」と、華麗な、また、勇壮な演技が続いた。
やがて、男子部の組み体操となった。
「ワァー」と雄叫びをあげ、男子部四千人がグラウンドに躍り出る。
「紅の歌」「原野に挑む」など、学会歌が流れるなか、次々と隊形変化し、人間の大波がうねり、人間ロケットが飛び交い、八つの五段円塔がつくられた。
さらに、中央では六段円塔が組まれ始めた。
一段目が六十人、二段目二十人、三段目十人、四段目五人、五段目三人、六段目が一人──一段目は立ったまま、その肩に、あとの三十九人を乗せていく。一段目が揺らげば、上段を支えることはできない。
二段目が乗り、中腰の体勢で円陣を組む。
さらに、三段目、四段目……と順に乗り、同じ体勢で、六段目が乗るのを待つ。
「いくぞーっ!」
限界への挑戦というドラマが始まった。皆には、鍛錬を通して培われた自信があった。
誓願 214~216ページ 【小説「新・人間革命」】第30巻〈下〉2024年1月8日
六段円塔の二段目のメンバーが、上に十九人を乗せたまま、腰を伸ばす。その足が一段目の友の肩に食い込む。自分たちが腰をしっかり伸ばしきらなければ、上に乗った人たちがバランスを崩して落下することになる。歯を食いしばって立ち上がる。
続いて、三段目が、四段目が次々と立った。皆、体が小刻みに震えている。
頭上を撮影用のヘリコプターが飛ぶ。
バババババババー……。
ヘリの起こす風が予想以上に激しい。円塔が揺れる。周囲のメンバーは、心で題目を唱える。やがて、ヘリは遠のいていった。
五段目が立った。音楽隊の奏でるドラムの音が響く。六段目となる最後の一人が立とうとした。が、腰をかがめた。足下の青年の肩に手をかけ、もう一度、体勢を整える。観客も息をのみ、いっせいに円塔の頂上を見る。
“立て! 俺たちを信じて立て!”
彼を支える青年たちが、心で叫ぶ。
「頑張れ!」
観客席から声が起こる。
青年は深呼吸し、空を見上げた。そして、一気に立った。
最上段で青年は、両手を広げた。
大歓声と大拍手が、長居陸上競技場の天空に舞った。スタンドには、「関西魂」の人文字が鮮やかに浮かび上がる。
伸一も、大きな拍手を送った。
円塔のてっぺんで、青年が何かを叫んだ。
「弘治、やったぞ!」
大歓声にかき消され、聴き取ることはできないが、魂の絶叫であった。円塔に立った青年は菊田弘幸といい、弘治とは、五日前に他界した親友で男子部員の上野弘治のことである。
二人は、同じ水道工事の会社で働いており、上野も、この青年平和文化祭に組み体操のメンバーとして出演する予定であった。しかし、三月十七日、彼は病のために他界した。親友の思いを背負っての菊田の挑戦であった。
青年たちが打ち立てた六段円塔は、永遠に崩れぬ、美しき友情の金字塔でもあった。
誓願 218~220ページ 【小説「新・人間革命」】第30巻〈下〉2024年1月10日
上野弘治の妻は、伸一への手紙に、こう記した。
「宿命と闘った主人は、子どものように純粋で美しい顔でした。主人は、私たちを納得させて亡くなりました。信心とはこういうものだ、宿命と戦うとはこういうものなんだ、と必死に生きて生き抜いて教えてくれました」
さらに、関西青年平和文化祭の出演者らで、決意の署名をすることになった時、皆から上野の名も残したいとの希望があり、彼女が夫に代わって筆を執った。
「我が人生は広宣流布のみ‼ 上野弘治 名誉本部長」──夫の心をとどめたのだ。
その報告に伸一は、上野への追善の祈りを捧げるとともに、夫人が亡き夫の分まで広宣流布に生き抜き、幸福な人生を歩んでほしいと祈念し、題目を送った。
文化祭に出演したメンバーの多くは、訓練や団体行動が苦手な世代の若者たちである。しかも、仕事や学業もある。皆、挫けそうになる心との格闘であり、時間との戦いであった。そのなかで唱題に励み、信心を根本に自分への挑戦を続け、互いに“負けるな!”と励まし合ってきた。
そして、一人ひとりの人間革命のドラマが、無数の友情物語が生まれた。青年たちは文化祭を通して、困難に挑み戦う学会精神を学び、自身の生き方として体現していった。つまり、不可能の壁を打ち破る不撓不屈の“関西魂”が、ここに継承されていったのである。
“関西魂”は、どこから生まれたのか──。
“この大阪から、貧乏と病気を追放したい。一人も残らず幸福にしたい”というのが、戸田城聖の思いであった。
この念願を実現するために、戸田は、弟子の山本伸一を、名代として関西に派遣した。伸一は、師の心を体して広宣流布の指揮を執り、関西の地を走りに走った。そして、一九五六年(昭和三十一年)五月には、大阪支部で一カ月に一万一千百十一世帯という弘教を成し遂げ、民衆凱歌の序曲を轟かせた。
誓願 220~221ページ 【小説「新・人間革命」】第30巻〈下〉2024年1月11日
伸一は、一九五六年(昭和三十一年)七月、学会が初めて推薦候補を立てた参議院議員選挙で、大阪地方区の支援活動の最高責任者を務め、見事、当選を勝ち取った。“当選など不可能である”との、大方の予想を覆し、「“まさか”が実現」と新聞で報じられた、劇的な大勝利であった。
翌五七年(同三十二年)の七月三日、彼は、同年四月に行われた参議院大阪地方区の補欠選挙で、選挙違反をしたという無実の罪を着せられ、逮捕される。大阪事件である。新しい民衆勢力の台頭を恐れる横暴な権力の弾圧であった。同志は怒りに震えた。
七月十七日、大阪府警並びに大阪地検を糾弾する大阪大会が、中之島の大阪市中央公会堂で開かれた。場外も多くの人で埋まった。途中から豪雨となり、稲妻が天を切り裂いた。外の人たちは、雨に打たれながら、特設されたスピーカーから流れる声に耳をそばだてた。幼子を背負った婦人もいたが、誰も帰ろうとはしなかった。
“無実の山本室長を、なぜ逮捕したのか! 民衆の幸せを願って走り抜き、私たちに勇気の灯をともしてくれた室長を迫害する、権力の魔性を、私たちは断じて許さない!”
同志の心に正義の炎は、赤々と燃え上がった。その胸中深く、“常勝”の誓いが刻まれ、目覚めた民衆の大行進が始まったのだ。
その時の、背中の子どもたちも、今、凜々しき青年へと育ち、青年平和文化祭の大舞台に乱舞し、全身で民衆の凱歌を、歓喜と平和を表現したのである。
青年たちは、仕事や学業のあと、息せき切って、練習会場に駆けつけ、必死に、負けじ魂をたぎらせて練習に汗を流した。草創期を戦った壮年や婦人は、毎日のように応援に訪れ、連れて来た孫たちに言うのである。
「よう見とき、あの懸命に頑張る姿が関西魂や! 学会精神や!」
草創の同志は、後継の若師子たちが、見事に育ち、魂のバトンが受け継がれていくことに、喜びと誇りを感じたのである。
誓願 221~223ページ 【小説「新・人間革命」】第30巻〈下〉2024年1月12日
大阪の庶民のなかに身を投じ、“この世の悲惨をなくす”“誰一人として幸せにせずにはおくものか!”と誓った戸田城聖の一念──それは即「平和の心」にほかならなかった。
伸一は、この戸田の心を胸に、その実現のために、全精魂を傾けて奔走した。
そして、関西の同志は、伸一と共に戦い、権力の弾圧にも屈せず、民衆の幸と蘇生の歴史を綴ってきた。まさに、“関西魂”“学会精神”の継承のなかで、「平和の心」も受け継がれていくのである。
関西青年平和文化祭は、「平和宣言」へと移った。関西青年部長の大石正志は、マイクに向かうと、「全関西の山本門下生十万の同志諸君!」と力強く呼びかけ、平和への誓いを読み上げていった。
「一、我々は、日蓮大聖人の仏法を広く時代精神、世界精神にまで高め、『生命尊厳・人間平和主義』の理念にのっとり、立正安国の恒久平和運動を展開しゆくことを誓う。
一、第二代戸田城聖会長の『原水爆禁止宣言』以来二十五年。今や、この不動の精神は第三代山本会長によって継承され、世界的な潮流となって民衆の共鳴を呼んでいる。我々は、この深き仏法者の信念より発した平和行動を、二十一世紀へ更に高めて、この宣言の透徹した理念を訴え続け、核兵器廃絶の実現を期す。
一、恒久平和建設の生命線は、民衆と民衆との連帯にかかっている。我々は、広汎なる世界の平和を希求する青年の力を糾合し、もって国連憲章の精神を守る新しい時代の国際世論を形成し、二十一世紀を、人類が希求する、生命・平和の世紀にすることを誓う」
この「平和宣言」は、競技場を埋め尽くした全員の賛同の大拍手をもって採択された。
平和運動には、運動を支える確固たる哲学が求められる。仏法では、万人が「仏」の生命を具えていると説く。つまり人間は、等しく尊厳無比なる存在であり、誰人も幸福に生きる権利があることを裏づける法理である。
3・22「関西青年平和文化祭」から41周年 師弟の底力を満天下に
2023年3月17日
大阪・長居陸上競技場(当時)で開催された第1回関西青年平和文化祭。常勝の空に六段円塔がそびえ立った(絵・間瀬健治)
本年は、第1回関西青年平和文化祭から41周年。関西の同志は、“新たな師弟の金字塔を築く”との決意で広布に走る。ここでは、弟子の誓いと闘争で反転攻勢に臨んだ「3・22」の広布史を学ぶ。
学会ここにあり
池田先生はかつて「広宣流布とは、弟子が師に誓い、それを果たすこと」と記した。
師と苦楽を共にしてきた関西同志の心には、常にこの“師弟の誓願”が脈打つ。先生の第3代会長辞任の時も、関西には弟子の誓いが燃えたぎっていた。
「関西の弟子たちは/毛筋ほども揺るがなかった。/頭を上げて胸を張り/強く強く また正しく/師弟の誉れを/叫び切っていったのである」(長編詩「永遠の常勝関西を讃う」)
1981年(昭和56年)11月、第3回関西総会出席のために来阪した先生に、青年部が文化祭の開催を申し出た。
「『学会ここにあり』と満天下に示す舞台にいたします」
先生は、その心意気が「ともかく嬉しかった」とつづっている。
その4カ月後の82年(同57年)3月22日、第1回関西青年平和文化祭が開かれた。“新しい力”が躍動し、人文字や新会員1万人の行進に、各界の来賓は驚嘆した。そして、不屈の魂の象徴として挑んだのが、前人未到の「六段円塔」であった。
不屈の関西魂
「その瞬間、人文字は、金地に深紅の字で、『関西魂』と描き出した。六段円塔は、雲一つない“常勝の空”に、人間と人間の勝鬨の太鼓を打ち鳴らしながら、そびえ立った」(「随筆 新・人間革命」)
あらゆる困難と戦い、広布拡大の対話に走り、限界に挑んだ青年たち。「不可能を可能に」との闘魂は、熱と力と団結の「六段円塔」に結実した。池田先生は、つづった。
「立ったのだ! ついに立ったのだ! 勝ったのだ! 我らは、断固として勝ったのだ! 我らは挑戦し、ついに世紀の勝利の塔を打ち立てた!」(同)
この歴史的な文化祭は、反転攻勢の流れを大きく加速させた。
弟子が勝利してこそ師の正義は証明される。この年、関西は10万世帯の折伏を達成。圧倒的拡大で、広布を阻む暗雲を打ち払っていった。
先生は文化祭終了後、関西の友に句を贈った。
「あな嬉し 池田門下の 船出たり」
3・22は、師弟の“関西魂”を継承しゆく新たな出発の日である。いよいよ常勝の底力を示す春が到来! 全関西が総立ちとなり、師弟の凱歌を轟かせゆこう。