〈希望の()(しん)――池田先生の指導に学ぶ〉 初級・3級試験に向けて㊦

· 真の仏法は「差別の(かべ)」を()(やぶ)

 (れん)(さい)「希望の()(しん)――池田先生の指導に学ぶ」では、テーマごとに(しゅ)(ぎょく)の指導・(げき)(れい)(けい)(さい)します。今回は10月1日に行われる「教学部初級試験・青年部教学試験3級」のために、「教学入門」「世界広布と創価学会」について、先生の言葉を(しょう)(かい)します。(㊤は9月15日付)

2017年9月、全国各地で行われた「教学部初級試験・青年部教学試験3級」(宮城で)。どの試験会場でも、求道の友の真剣な顔、輝く顔が見られた

【教学入門】

毎日が「新しい出発」だ

 「広布に戦おう!」「信心で勝つのだ!」――その心が決まったとき、勝利への歯車は音を立てて回り始める。信心強き人が最後は必ず勝利する。(みょう)(ほう)には絶対にムダはない。学会活動はすべて自分の(ふく)(とく)となっていくのである。
  
 南無妙法蓮華経は、「()(おん)(がん)(じょ)の法」である。それを(とな)える私たちの生命もまた、「久遠元初の生命」である。ゆえに、御本尊を(はい)する私たちは、毎日が「久遠元初」である。毎日が「新しい出発」である。(いっ)(しゅん)一瞬がつねに「いよいよ、これから」なのである。(中略)
  
 いくつになっても、(わか)(わか)しい生命力で、前へ前へ! どこまでも、戦う心を()やしながら、ともどもに「勝利の(げき)」を(かざ)ってまいりたい!
  
(『池田大作全集』第99巻、100ページ)
  

(みょう)(ほう)()()(だい)(どう)(あゆ)

 (じゅん)(すい)に御本尊を信じ、一心に仏道修行に(はげ)んでいくことが(だい)()なんです。
  
 大聖人は、「(にょ)(せつ)(しゅ)(ぎょう)」すなわち、仏の説の(ごと)く修行せよと(さけ)ばれた。私たちは現代にあって、末法の()(ほん)(ぶつ)であられる大聖人の(おお)せ通りに広宣流布を進めてきました。()(のう)に打ちひしがれていた私たちが、御本尊に(めぐ)()い、見事に人生を()(せい)させ、仏の使いとして、最高の(せい)(ぎょう)にいそしんでいる。その姿(すがた)こそ、()()()(さつ)の出現です。
  
(小説『新・人間革命』第28巻「(だい)(どう)」の章、159ページ)
  

宮崎で(2017年9月)

今この時を(のが)さない!

 仏法が()く「一念三千」の(てつ)()も、わが一念、すなわち(しゅん)(かん)瞬間の生命に、()(ちゅう)をも(つつ)む一切の可能性が(そな)わっていると教えている。
  
 ()(せい)(くん)には、「命(すで)に一念にすぎざれば仏は一念(ずい)()()(どく)と説き(たま)へり」(全466・新517)と(おお)せである。
  
 今、この時を(のが)さない。(まど)を開け放つように、わが生命を全開にして、(かん)()あふれる「仏」の()()(ちから)(はっ)()していくのだ。これが(みょう)(ほう)である。
  
 「今」の瞬間が、(われ)(われ)(ため)している。(いっ)(しゅん)一瞬が勝負なのである。

(『(ずい)(ひつ) 平和への(だい)(どう)』、34ページ)
  

(そく)()に幸福の「原因」が

 戸田先生は、『(かん)(じんの)(ほん)(ぞん)(しょう)講義』を発刊された一九五五年(昭和三十年)頃、各地で、()(かえ)し「(じゅ)()(そく)(かん)(じん)」の(ほう)()を語られました。
  
 ある時には――人間は(みな)、平等でありたいと思っていても、現実には、(せん)()(ばん)(べつ)(なや)みや苦しみがある。しかし、御本尊を受持して、(みょう)(ほう)(とな)えきっていけば、()(だい)な「()(とく)」が(げん)(ぜん)と現れ、「宿命の(てん)(かん)(びん)(ぼう)、病人、家庭の(なや)み等、いっさい人生の苦を解決することは、絶対に(うたが)いない事実である」と。
  
 また、ある時には――御本尊を受持すれば、自分が過去世につくらなかった、(ゆう)(ふく)になるなどの幸福の「原因」を(そく)()にくださる。「あとは自分の信心と、(しゃく)(ぶく)によって、結果を勝ちとらなければいけない」と。
  
 「万人成仏の法」を、一人一人が(じっ)(せん)し、その一人一人が人間革命を()()げる。そのために御本尊があるのです。
  
(『人間革命の宗教』、240ページ)
  

(みな)さんこそ()()()(さつ)

 御書には「()()の義」との言葉がある。広宣流布の使命を(にな)い、人びとを(すく)うために、陸続と地涌の()(さつ)が出現することを意味しています。(みな)さんは地涌の菩薩なんです。
  
 皆さんには希望もあるでしょう。また、大きな(なや)みもあり、()(せつ)もあるでしょう。人生とは、()(なん)との(とう)(そう)であるといえるかもしれない。しかし、すべての苦難、()(のう)は、それを()()えて、仏法の()(だい)なる(ちから)を証明するためにある。つまり、苦悩の宿命があるからこそ、それを打開することによって、仏法の真実と正義が立証でき、仏法を流布していくことができる。そして、地涌の菩薩としての使命を()たしていくことができるんです。
  
 いわば、苦悩は、地涌の使命を果たしていくうえで、必要不可欠な条件なんです。ゆえに、宿命は(そく)使命であり、どんなに(はげ)しい宿命の(あらし)()()れようが、乗り越えられないことなど絶対にありません。
  
(小説『新・人間革命』第30巻〈上〉「(ぎょう)(しょう)」の章、392ページ)
  

徳島で(2017年9月)

【世界広布と創価学会】

世界宗教の(にな)()たれ

 (1951年7月11日、男子部結成式の席上、戸田先生は)広宣流布こそが青年部の使命であることを示されたうえで、「仏法西(せい)(かん)」について語られた。
  
 「われわれの目的は、日本一国を目標とするような小さなものではなく、日蓮大聖人は、(ちょう)(せん)、中国、遠くインドにとどまることなく、全世界の()てまで、この(だい)(びゃく)(ほう)を伝えよ、との()(めい)(れい)であります。
  
 なぜかならば、大聖人様の五字七字は、じつに()(ちゅう)(へん)(まん)し、宇宙をも動かす大生命(てつ)(がく)であるからであります」
  
 青年に、()(へん)(てき)にして(ちから)ある世界宗教の(にな)()たれと()びかけられたのです。この言葉に、大聖人の「仏法西還」の意義が(あま)すところなく示されるといってよい。
  
(『御書の世界』第3巻、106ページ)
  

(ぶっ)()を苦しめた(そう)たち

 学会の(そう)(そう)()から、(そう)たちが(ころも)(けん)()をかざし、(ぶっ)()である学会員を苦しめる事実が数多くあったが、それは、(しゅう)()・大聖人の()(せい)(しん)に反する。「総じて日蓮が弟子(だん)()等・自他()()の心なく」(全1337・新1775)等の()(もん)に明らかなように、僧も、在家も、本来、平等であるというのが大聖人の教えであるからだ。
  
 人間の差別の(かべ)()(やぶ)る、万人平等の(ほう)()こそが、真の仏法である。大聖人は、(みな)が等しく仏の生命を(そな)えていることを明かされ、万人に成仏の道、すなわち絶対的幸福(きょう)(がい)の確立の道を示された。つまり、「生命の(そん)(げん)」と「人間の平等」の根幹をなす法理を()かれたのである。
  
(小説『新・人間革命』第30巻〈上〉「(たい)(ざん)」の章、23ページ)

 

〈希望の()(しん)――池田先生の指導に学ぶ〉 (こう)(ふく)(じょう)部・(のう)(ぎょ)(こう)部・社会部・(せん)(もん)部の友へ2023年10月11日

·         ()()()()()()を重ねて努力しよう

 1973年(昭和48年)10月24日、団地部(現・(こう)(ふく)(じょう)部)、農村部(現・(のう)(ぎょ)(こう)部)、社会部、(せん)(もん)部の設置が発表されました。今回の(れん)(さい)「希望の()(しん)――池田先生の指導に学ぶ」では、今年で結成50周年を(むか)える各部への、(しゅ)(ぎょく)の指導・(げき)(れい)(しょう)(かい)します。

「さわやかな(あい)(さつ)」が(だい)()

 私も(ほま)れある“団地部”の一員として歴史を(つづ)った。
 一九四九年(昭和二十四年)の五月、私は故郷・大田の大森にある「青葉(そう)」に住み始めた。二階建て三(とう)からなり、九十世帯ほど住んでいた。その三号館の一階、やや北寄りの(せま)(ひと)()で、私は三年間を過ごした。事業が(きゅう)()にあった()(しょう)戸田先生を、(いっ)(しん)()(らん)にお守りした()(とう)時代だ。朝早く(しゅっ)(きん)し、連日の残業と学会活動で、()(たく)は深夜になるのが(つね)であった。
 「この部屋は、本当に住んでいるのか」などと、(うわさ)されていたようだ。
 私は決意し(いの)った。「信心は最高の生活法だ。戸田先生の弟子として、このアパートの中で接しゆく(かた)(がた)を妙法の()(どく)(つつ)んでいくのだ」と。
 私はいつもいつも、さわやかな(あい)(さつ)(だい)()にした。(みな)(えにし)深き方々である。何か意味があって、このように近所におられるのだと、大切にしていった。でき得る限り、友好と親交を結ぶことを心がけた。
 やがて、私の部屋で開いた座談会にも、同じアパートや(きん)(りん)の方々が参加されるようになり、そして(いく)(にん)かが入会されたのである。(『池田大作全集』第135巻、58ページ)

地域が()(せい)する原動力に

 (山本)伸一が、何よりも(つう)(かん)していたのは、人と人との(きずな)を固くし、強い共同体意識を(はぐく)まねばならぬということであった。(しょう)(らい)(こう)(れい)(しゃ)(ひと)()らしなどが増えていけば、(となり)(きん)(じょ)の声かけや(はげ)まし、助け合いなどが、ますます必要不可欠なものとなるからだ。
 また、(わか)い夫婦などの場合、育児に(なや)むことも少なくないが、子育てを終えた経験豊富な年代の人たちのアドバイスや協力が得られれば、どれほど大きな(ちから)になるだろうか。
 災害への(たい)(さく)や防犯などにおいても、行政の()(えん)だけでなく、住民(そう)()の協力や結束こそ、地域を支える大きな力となる。
 そのために必要なことは、同じ地域、同じ団地のなかにあって、(たが)いに人びとのために()くそうとする、心のネットワークづくりである。人間の心が(かよ)い合う新しいコミュニティー(共同体)の建設である。
 伸一は、その使命を、団地部のメンバーが(にな)()ち、社会()(せい)の原動力となってほしかったのである。
 “分断された人間関係の()てにあるのは、()(どく)(あん)()だ。それを(てん)ずるのが団地部だ”(小説『新・人間革命』第24巻「灯台」の章、350ページ)

私も()()()の息子である

 「田園の耕作は精神をも開発する」(『コルシカ憲法草案』遅塚忠躬訳、『ルソー全集』5所収、白水社)
 わが農村部の(とうと)き友の(かつ)(やく)を思う時、私の心に()かぶルソーの(さけ)びである。
 彼は、“農業こそ人間の最も(こん)(ぽん)をなす、最も(そん)()(いとな)み”とも(ろん)じた。
 私は、全く同感である。その労苦の(あせ)も、土にまみれた手も、断じて作物を守り育てゆかんとする(たましい)も、何と(こう)(ごう)しく光っていることか。
 来る日も来る年も、わが農村部の同志は大地を(たがや)し、人間の精神を(はぐく)んでこられた。
 地域の(しん)(らい)の灯台として、その(かがや)きは(いち)(だん)と、使命の国土を()らしてやまない。
 (しき)(しん)()()()(しょう)不二の大生命(てつ)()(いだ)きて、「生命の世紀」の先頭に立つ、(ほま)れの(かい)(たく)(しゃ)こそ、農村部だ。
 私も、()()()の息子である。
 (いっ)(しょう)(がい)、農村部、(ぎょ)(そん)部の心で生きゆくことを、(ほこ)りと思ってきた。(『池田大作全集』第134巻、433ページ)

(ほう)(よう)(りょく)()んだ自身(きず)

 農村地域が、やがて、その重要性を再評価され、(きゃっ)(こう)()びる時代が必ず来る――それが、(山本)伸一の未来()(そく)であり、確信であった。
 伸一は(うった)えた。
 「今後、社会の関心は、農村地域に集まっていかざるを()ない。したがって、現代における農村の()(はん)となるような、(ばん)(じゃく)な家庭を(きず)き上げることができれば、そのご一家は、地域社会を()らす確固たる灯台となります。
 そして、そのご一家との交流を通して、妙法の種は()ろされ、広宣流布の(けん)()(いしずえ)が築かれていきます。ゆえに、私は、農村部の(みな)さんには、『地域の灯台たれ』『学会の灯台たれ』と申し上げておきたい。
 また、農村には、地域のさまざまな伝統行事や風習もあるでしょう。私たちの信心の(こん)(ぽん)は、どこまでも御本尊です。それ以外の(こと)(がら)については、(ずい)(ほう)()()の原理に(のっと)り、社会を最大限に大切にして、()()を働かせて、地域に友好と(しん)(らい)を広げていってください。
 そして、一人ひとりが、福運を(まん)(まん)とたたえて、()(りょう)(ほう)(よう)(りょく)()んだ自身を築き上げていっていただきたいのであります」(小説『新・人間革命』第24巻「灯台」の章、362ページ)

未来部の夏季講習会で、参加した友と一緒に、農作業に汗を流す池田先生(1972年8月、静岡で)

(だい)(せい)(じつ)」で時代を()らせ

 社会部、(せん)(もん)部が(たん)(じょう)したのは、昭和四十八年(一九七三年)、オイルショックで、日本(けい)(ざい)(しん)(こく)()()(ひん)していた時であった。
 私は心に決めていた。
 「価値(そう)(ぞう)」の仏法を(かか)げる私たちこそが、人生に勝ち、社会で勝ち、勇気と希望と()()()(だい)(こう)(みょう)となって、時代を()らしていこう、と。
 その深き決意で、社会の第一線で(ふん)(とう)する友とともに、社会部と専門部を結成したのである。
 以来、わが同志は(はげ)ましあいながら、バブル(けい)(ざい)(ほう)(かい)後の(あら)(なみ)()()え、勝利の実証を示してこられた。
 私が対談集を発刊した、フランスの行動する文化人アンドレ・マルロー氏は明言している。
 「(だい)()はつねに苦境のなかで成しとげられる」(竹本忠雄『マルローとの対話』人文書院)
 (らん)(せい)だからこそ、「仏法(そく)社会」の智慧が光る。大事業を成し()げるチャンスがある。
 さらに、「大事業というものは、きびしい(せい)(じつ)さの上にだけ(きず)きあげられるもので、それ以外のなにも要求しないのである」(『カーネギー自伝』坂西志保訳、中央公論新社)とは、アメリカの(てっ)(こう)王カーネギーの(てつ)(がく)であった。
 社会部、専門部の(みな)さんの勝利も、大誠実の勝利である。(『池田大作全集』第97巻、393ページ)

仏法は(そく)「人の()()い」

 大聖人は「世間の法が仏法の全体」(全1597・新2053)と明かされた。
 この現実の社会のなかでこそ、(みな)が仏になっていくのだ。
 「仏法(そく)職場」であり、「職場(そく)仏法」である。そして、仏法は即「人の()()い」である。
 社会での(しん)(らい)の広がりは即、仏法正義の確立となり、創価への共感の拡大となる。
 社会部、(せん)(もん)部の皆様が健在であれば、学会は(ばん)(じゃく)だ。
 いよいよ、創価完勝の(きょく)(じつ)(のぼ)り始めた。
 「戦えば戦うだけわれわれは強くなる」(『怒りについて 他一篇』茂手木元蔵訳、岩波文庫)と、ローマの(てつ)(じん)セネカは(さけ)んでいる。
 どうか、皆様が(しき)(しん)ともに健康第一で、「創価の(ぜん)(けん)大使」として、勝利(はん)(えい)の歴史を(つづ)りゆかれんことを、私は(せつ)に切に(いの)りたい。(『池田大作全集』第135巻、34ページ)

()(だん)なく堂々と動こう!

 地道に学会活動を続ければ、必ず「福運の()(どう)」に入ります。
 ()(ぼう)であればあるほど、そのなかを(がん)()って活動すれば、なおさら「福運の追い風」が()くのです。なんと楽しいことでしょうか。なんと意義深き人生でしょうか。
 わが社会部の使命は、まことに重要であります。戸田先生は、言われました。
 「職業をよくよく(だい)()にして、あらゆる()(さく)を重ねて、成功するよう努力すべきである」
 「自分の(つと)めに、楽しみと研究とを持ち、自分の持ち場をがっちりと守る(かく)()の生活が大事である」と。
 また「われら御本尊を(じゅ)()する者は、その不景気を(なげ)くだけであってはならない。()(だい)な生命力を(はっ)()して、さてどうしたら良いかと考え、かつまた苦心をなして、この苦しい(けい)(ざい)(かい)()()けるならば、これこそ()(あき)らかなりとも、()(ほう)()るともいうべきであろう」と。
 大切なのは「()()」です。「努力」です。「表現力」です。そして、その根底をなす「偉大な生命力」です。
 “仏法は(しん)(けん)勝負”――これが大聖人の教えであります。ゆえに仏法者は勝たねばならない。
 仕事においても、生活においても、()(だん)なく、堂々と、「勝つ心」「勝つ行動」「勝つ実証」を重ねてほしいのであります。(『池田大作全集』第67巻、29ページ)