〈希望の()(しん)――池田先生の指導に学ぶ〉 初級・3級試験に向けて㊤

· ()(きょう)」とは「相手の仏界を(らい)(はい)する」こと

 (れん)(さい)「希望の()(しん)――池田先生の指導に学ぶ」では、テーマごとに(しゅ)(ぎょく)の指導・(げき)(れい)(けい)(さい)します。今回は10月1日に行われる「教学部初級試験・青年部教学試験3級」のために、出題(はん)()である御書2編について、先生の言葉を(しょう)(かい)します。

(りっ)(しょう)(あん)(こく)(ろん)

()()(かお)りで(つつ)()

 大聖人は(りっ)(しょう)(あん)(こく)(ろん)で、客と対話する主人を「(らん)(しつ)の友」(全31・新43)と()んでいます。蘭の部屋では、その(かお)りが自然に衣服などに()みついていきます。同様に、対話は、()()の香りが相手をつつみ()むようでありたい。
  
 ()(きょう)()しつけでもなければ、組織のためでもない。弘教は、相手の仏界を(らい)(はい)することだから、最高に相手を(そん)(けい)する(こう)()なのです。
  
(『法華経の()()()(きゅう)(ばん)〈上〉、445ページ)
  

創価の師弟の強き(いの)

 第二代会長に(しゅう)(にん)された戸田先生は、「(らく)()日本を(きず)くのだ」「この地上から『()(さん)』の二字をなくすのだ」との一念で、(いち)(だん)(ごう)(じょう)なる(いの)りを開始された。
  
 弟子の私も、第三代に就任した五月三日(一九六〇年)より、いやまして強く、祈り続けてきた。
  
 「世界が平和であるように」
  
 「(おお)()(しん)がないように」
  
 「(ほう)(さく)であるように、()(きん)がないように」
  
 (さん)(さい)(しち)(なん)に負けずに、(みん)(しゅう)(あん)(のん)と社会の(はん)(えい)、そして地球の平和を実現する。この人類の()(がん)へ、(われ)らは()(ぎょう)()()(みょう)(ほう)(ろう)(ろう)(とな)え、(りっ)(しょう)(あん)(こく)(ちょう)(せん)(つらぬ)いていくのだ。
  
(『(ずい)(ひつ) 永遠なれ創価の(だい)(じょう)』、70ページ)
  

「人間」に(しょう)(てん)を当てよ

 昭和五年(一九三〇年)、牧口先生は『創価教育学(たい)(けい)』の第一巻を出版された。
  
 当時は、世界(だい)(きょう)(こう)(あらし)()()れ、(けい)(ざい)()(きょう)(しん)(こく)。時の総理大臣・(はま)(ぐち)()(さち)()(げき)されるなど、(そう)(ぜん)たる()(せい)であった。今の世相と()ている。軍国主義の暴走も始まっていた。
  
 「(りっ)(しょう)(あん)(こく)(ろん)」には(にん)(のう)(きょう)の文を引かれ「国土(みだ)れん時は()()(じん)乱る鬼神乱るるが(ゆえ)(ばん)(みん)乱る」(全31・新43)と。
  
 その(こん)(めい)のなかで、牧口先生の(けい)(がん)(するど)(どう)(さつ)(りょく)は、すべて「人間」に光を当てておられた。
  
 仏法の(てつ)(がく)を根底に「人間」をつくり、「人間」を育てることを、すべての()(じく)とされ、(こん)(ぽん)とされた。
  
 政治も経済も宗教も、“人間をつくる”ことを(わす)れれば必ず行き()まる。「人間」に(しょう)(てん)を当てるしかない。「人間」をつくる以外にない。
  
(『池田大作全集』第85巻、378ページ)
  

「社会への(こう)(けん)」が使命

 大聖人は「(なんじ)(すべから)く一身の(あん)()を思わば()()(ひょう)(せい)(ひつ)(いの)らん者か」(全31・新44)と(おお)せである。
  
 自身の幸福を願うならば、まず社会の(はん)(えい)と平和を(いの)るべきであるとの()()(なん)である。
  
 仏法(そく)社会なるがゆえに、仏法者は、自身の人間革命の光をもって社会を()らし、時代建設の汗を流し続けるのだ。
  
 わが学会が、その(めい)(しょう)に「創価」すなわち「価値の(そう)(ぞう)」を(かか)げていること自体、社会への(こう)(けん)を使命とする(せん)(げん)といってよい。また、そこに学会が、人類史を(かく)する、人間宗教たるゆえんがある。
  
(小説『新・人間革命』第14巻「()(ゆう)」の章、97ページ)
  

全ては一念の(へん)(かく)から

 わが一念の(へん)(かく)から、人生も、(かん)(きょう)も、やがて世界も変えていける。その人間革命の(てつ)()が、どれほど勇気と希望の(こう)(げん)となることか。
  
 「()()(とも)の幸福」を(いの)り、友情の対話と社会への(こう)(けん)()(かさ)ねることこそが、最も地道でありながら、最も確実な世界平和への(じき)(どう)なのだ。
  
 「(りっ)(しょう)(あん)(こく)(ろん)」の(けつ)(ろん)(だん)には、「(なんじ)早く(しん)(こう)(すん)(しん)(あらた)めて(すみやか)に実乗の一(ぜん)()せよ、(しか)れば(すなわ)ち三界は(みな)仏国なり」(全32・新45)と()()けられている。
  
(『(ずい)(ひつ) (かがや)(みん)(しゅう)(だい)(じょう)』、62ページ)
  

どこまでも「対話」で!

 人間のため、人類のために! ここに日蓮仏法の本質も、学会の精神もある。
  
 「(りっ)(しょう)(あん)(こく)(そく)「世界平和」のために、(われ)らは前進する。どこまでも「対話」という平和的(しゅ)(だん)で、人間と人間を(むす)ぶのだ。
  
 主人と客人の間に()わされてきた「立正安国論」の対話は、「(ただ)()が信ずるのみに(あら)(また)()(あやま)りをも(いまし)めんのみ」(全33・新45)と、客の(すが)(すが)しい決意で結ばれる。すなわち、一つの対話の終わりは、新たな対話への出発であった。
  
 今、日本中、世界中で、わが創価の同志が(てん)(かい)している(かい)(かつ)な「立正安国」の対話から、(かぎ)りない希望が生まれ、広がっている。(『(ずい)(ひつ) 我らの勝利の(だい)(どう)』、169ページ)
  

牧口先生の座像を、池田先生ご夫妻が見つめる(2001年7月、八王子市の東京牧口記念会館で)。大聖人直結、御書根本の生涯を貫かれた牧口先生。学会は永遠に、御書と共に前進する

(にち)(にょ)()(ぜん)()(へん)()

なにを(こん)(ぽん)に生きるか

 無宗教という人にも、何か、心の底で、いちばん(そん)(けい)しているものがある。その人がいちばん大切にしているもの、それが(ほん)(ぞん)です。
  
 (くち)では何と言おうと、ある人は、「お金」が本尊になっている。ある人は「地位」が本尊になっている。ある人は「(こい)(びと)」や「家族」が本尊になっている。ある人は「知識」が本尊になっている。また、(ばく)(ぜん)とした神とか天とか真理とかを本尊としている人もいるでしょう。
  
 (こん)(ぽん)として何を尊敬して生きているか――本尊によって人生が変わってしまう。
  
 日蓮大聖人の仏法では「仏の生命」を本尊とする。(だい)()(ちゅう)と一体の永遠の大生命を本尊とするのです。しかも、その本尊とは、決して、遠いところにあるのでも(ちゅう)(しょう)(てき)なものでもない。自分自身の生命そのものでもある。
  
 日蓮大聖人は言われている。
  
 「()の御本尊全く()()(もとむ)る事なかれ・(ただ)()()(しゅ)(じょう)の法華経を(たも)ちて南無妙法蓮華経と(とな)うる(きょう)(ちゅう)の肉団におはしますなり」(全1244・新2088)――この御本尊は、まったく別の所に求めてはならない。ただ、われら(ぼん)()が御本尊を信じて持ち、南無妙法蓮華経と唱える胸中の肉体の中にいらっしゃるのである――と。
  
(『青春対話1』〈()(きゅう)(ばん)〉、351ページ)
  

「信」こそ成仏への()(どう)

 大聖人は、「()の御本尊も(ただ)信心の二字にをさまれり()(しん)(とく)(にゅう)とは(これ)なり」(全1244・新2088)と(おお)せです。
  
 成仏への(こん)(ぽん)()(どう)こそ「信心の二字」です。()()第一の(しゃ)()(ほつ)でさえ、「信」によって法華経の(ごく)()に入ったのです。それが「以信得入(信を(もっ)()ることを())」です。
  
 (まっ)(ぽう)(ぼん)()は、仏の(だい)(きょう)(がい)(ただ)ちに(あらわ)された御本尊を(はい)する時、より深く、より強き信によって、(がん)(じょ)の晴ればれとした御本尊の世界に入ることができるのです。
  
(『勝利の経典「御書」に学ぶ』第11巻、27ページ)