〈希望の()(しん)――池田先生の指導に学ぶ〉 親と子の対話

· ワキ役ではない あなたも“主役”

 (れん)(さい)「希望の()(しん)――池田先生の指導に学ぶ」では、テーマごとに指導・(げき)(れい)(けい)(さい)します。今回は、「親と子の対話」。父母との(きずな)について語った、(しゅ)(ぎょく)の言葉を(しょう)(かい)します。

元気な笑顔こそが喜びに

 親元を(はな)れた青年たちに会ったとき、私は、お父さんやお母さんの(きん)(きょう)(たず)ねる場合がある。そして「たまには両親に元気な顔を見せてあげなさい」と言うと、「(いそが)しくて」といった返事がよく返ってくる。しかしそれは、忙しいというより、(めん)(どう)くさいからという場合が多いようだ。
  
 日蓮大聖人は、南条時光に(あた)えられたお手紙のなかで、次のように(おお)せである。
  
 「親によき物を与へんと思いてせめてする事なくば一日に二三度()みて(むか)へとなり」(全1527・新1850)と。
  
 私が青春時代、まことに(かん)(めい)した一節である。
  
 たまには親に何かしてあげたいと思っても自分はまだできない。そういうときは、せめて元気な笑顔を見せてあげなさい、きっと何よりも喜んでくれることでしょう、との御()(あい)あふれる御言葉である。
  
 (『池田大作全集』第68巻、69ページ)
  

共に家庭を(こう)(せい)する一員

 利害、あるいは感情の対立はよくあることだ。そしてそれが、しばしば対話を(けつ)(れつ)させる。
  
 それは結局、()()の立場に()(しつ)するところからくる()(たん)にほかならない。親子の(だん)(ぜつ)も、親は親、子は子として(たい)()しているかぎり、(よう)()()()えられるものではない。
  
 しかし、両方が、ひとたびともに家庭を(こう)(せい)する一員であるとの共通感情に立つならば、事態は意外にたやすく(こう)(てん)するはずである。その共通感情が、(すう)(こう)なものであればあるほど、自分と(こと)なる、さまざまな生き方を(ほう)(よう)することができ、対話が(みの)り多いものになることは言うまでもないだろう。(『池田大作全集』第19巻、518ページ)
  

()いのない道”を歩もう

 親の言うとおりにして、順調に進んでいる場合も多い。だが、(じゃっ)(かん)、親が古い考え方である場合とか、親の思いやりの()(じゅう)さが(わざわ)いとなって、子どもに(なっ)(とく)と理解をさせないで、強引に、その方向に行かせようとしている(おそ)れもある。
  
 時代とともに変化するものも大きいし、(けつ)(ろん)(てき)には、自分自身の希望の道を、自分自身が責任をもって、自分自身がつくりあげ、自分自身が苦労し、()いのない道を決め、歩んでいくことが正しい方向であると思う。
  
 なぜなら、一生は長いからです。歩むのは自分自身であり、戦うのも、勝利するのも自分自身です。いつまでも、親がいるわけではない。
  
 親は、子どもの希望の方向へ、(ちから)(づよ)()(えん)していく姿()(せい)のほうが、親子ともに満足の方向が見いだせるのではないかと、私は思う。
  
(『青春対話2』〈普及版〉、27ページ)
  

私は“この家”に生まれた

 それぞれの家庭に、それぞれの事情があると思う。本人にしかわからない苦しみがあるでしょう。ただ、一つ言えることは、どんな親であっても、親は親です。親がいなければ自分は(そん)(ざい)しない。この一点だけでも、重大な意味があることを理解しなければならない。
  
 どうして自分は、この家に生まれてきたんだろう。どうして、ほかの人のように、もっと両親が(やさ)しいうちじゃなかったんだろう。どうして、もっと(りっ)()な家で、もっといい家族に(めぐ)まれて生まれてこなかったんだろう。こんな家なんか出たい。そう思う人もいるかもしれない。しかし、自分は、この地球上の、この地の、この家に生まれてきた。ほかの、どの家にも生まれなかった。そこにすべての「ありとあらゆる意味」が(ふく)まれている。仏法に(ぐう)(ぜん)はない。必ず意味がある。
  
(『青春対話1』〈普及版〉、28ページ)
  

アメリカ・デンバーにあるフェリル湖。仲良く泳ぐ水鳥たちを、池田先生がカメラに収めた(1996年6月)。先生は語っている。「今の自分に育つまでに、親をはじめ、たくさんの人から、どれほどの苦労、どれほどの励まし、どれほどの愛情がそそがれたことか――その感謝を忘れてはいけません。今度は自分が、その恩を、子どもたちや後の世代に返していく番です」

 
たまにはサービス精神も

 親というものは、()(おん)の昔以来、子どもを(しか)るものである。また、なんとか親の(けん)()(めん)(ぼく)をたもとうとする。その(せつ)ない立場をわかってあげることだ。
  
 お父さんが、()()りだしたら、「うん、お父さんは、今世は願って(しょ)(みん)に生まれてきた。だけど、せめて家では、ミニ“大統領”か“大社長”になってみたいんだな。オヤジも苦しいところだ。ここはひとつ、()(せい)(てき)精神で、(みん)(しゅう)の一人になって、聞いてあげよう」と。こう考えられたら、その人は大人である。
  
 また、お母さんが(おこ)りだしても、ともかく返事だけは「はい」「そのとおりです」と素直さを上手に演じておけば、向こうも、それ以上、怒りようがなくなる。
  
 (むね)の中では「こんなに泣いたり、怒ったり、(ひゃく)(めん)(そう)みたいだな。(じょ)(ゆう)になれなかったから、来世にそなえて練習しているのかな」と考えてあげる()(ゆう)をもっていてもいい。
  
 そして、たまには「父上、(かた)でもおもみしましょう」、「母上、きょうは格別、おきれいですね」と、お()()でいいから言って、「さすがに良い子どもに育った」と、喜ばせてあげるくらいのサービス精神があってもよいのではないだろうか。
  
 ともあれ、(しょ)(くん)もまた家庭における“主役”である。ワキ役ではない。
  
 自分の家庭を、自分の主体的な努力で明るく、健康な方向へ、幸福の方向へと建設していく(けん)()がある。
  
 (『池田大作全集』第73巻、32ページ)
  

「はい!」は“()(ほう)の言葉”

 特に、返事が(だい)()だ。「はい!」の一言は、親を安心させる“()(ほう)の言葉”なんだよ。
  
 「いってらっしゃい。気をつけるのよ」「はい! いってきます」
  
 「ちょっと、宿題がまだでしょう」「はい! 今やります」
  
 「いいかげん、テレビ消して!」「はい! すぐ消します」
  
 何でもいいんだよ。とにかく元気に「はい!」と返事をすることです。そうすれば、親はまず安心するんです。
  
(『未来対話』、102ページ)
  

(ちが)う」ことが「当たり前」

 親の言うことが、「自分」の意見と合わないのは、むしろ当然です。世代が全然(ちが)うし、感覚も、生きている(かん)(きょう)も違う。時代の変化も(もう)スピードだ。だから「違っていて、当たり前」です。問題は、その「違い」を()()えて仲良くしていくのか。「違う」から「けんか」してしまうのかです。(『希望対話』〈普及版〉、135ページ)
  

なぜ法華経を()かれたか

 そもそも(しゃく)(そん)が、なぜ法華経を()かれたのか。
  
 大聖人は「父母の()(こう)(よう)のため」(全1564・新1899)と(おお)せである。
  
 すなわち、大恩ある両親に、今世だけではない、三世に(くず)れざる幸福を送るためには、どうすればよいか――そのために、法華経を説かれて、三世永遠の(じょう)(らく)(きょう)(がい)を教えられたのである。(中略)
  
 戸田先生は青年にこう言われた。「(しゅ)(じょう)を愛さなくてはならぬ戦いである。しかるに、青年は、親をも愛さぬような者も多いのに、どうして他人を愛せようか。その()()()の自分を()()えて、仏の慈悲の境地を()(とく)する、人間革命の戦いである」(「青年(くん)」)と――。
  
 どうか、いつも笑顔で、ご両親に喜びを送りゆく青年であっていただきたい。
  
 (『池田大作全集』第80巻、99ページ)