【世界広布の(げん)(りゅう) 青年に語る創価の(たましい)】第2回 池田先生の入信75周年〈下〉

〈出席者〉田島学生部長、先﨑女子学生部長、山下未来部長、山口女子未来部長

「拡大」こそが師に(つら)なる(じっ)(せん)

 ◆田島 池田先生の入信から3年となる1950年(昭和25年)8月24日、戸田先生は、学会の理事長を()(にん)する意向を発表されます。
  
 ◇原田 この日、池田先生は恩師に「先生が理事長を()められると、これから、私の()(しょう)(だれ)になるのでしょうか」と(たず)ねます。それに対し、戸田先生は「君の師匠は、この私だよ」と答えます。池田先生は、“(しょう)(がい)の師匠は、(戸田)先生なんだ”と心に決めるのです。
 後日、池田先生は変わらぬ決意を、「(いにしえ)の/()しき(えにし)に/(つか)へしを/人は(かわ)れど/われは変らじ」との和歌に(たく)し、恩師に()(わた)しました。戸田先生は二つの返し歌を(おく)りました。
 戦後の(こん)(らん)()で、中小企業の(とう)(さん)が続出した時代です。(けい)(ざい)()(きょう)の中、戸田先生の会社でも、給料の()(はい)が続き、周囲の人間は手のひらを返して戸田先生のもとを()っていく。池田先生はただ一人、戸田先生を支え、東京・埼玉・神奈川などを()(めぐ)りながら、事業の活路を開いていきました。
 当時を()(かえ)りながら、先生は「指導者は(こん)(なん)(きょく)(めん)に強くならなければいけない」と教えてくださったことがあります。
 苦境にあればあるほど、(ごう)(じょう)(いの)りで「()()(おう)の心」を()(げん)させ、師匠を守り、学会を守り()く――池田先生の若き日の戦いこそ、私たちの(じっ)(せん)の永遠の()(はん)です。

後年、池田先生は筆を執り、次のようにしたためた――「古乃(いにしえの) 奇(く)しき 縁に 仕へしを 人は 変はれど われは 変はらじ」

()(なん)(さい)(げつ)に種子の育成

 ◆先﨑 小説『人間革命』第4巻「(しゅう)(そう)」の章には、50年から(よく)51年に(いた)るまでの、池田先生が戸田先生を支え抜かれた日々について、「この期間の()()のなかに、その後の創価学会の、(はっ)(てん)(そん)(ざい)との根本的な要因があったといえよう」とつづられています。
  
 ◇原田 戸田先生と池田先生が(こう)(きょ)のお(ほり)(ばた)を歩いていた時のことです。急に()り出した雨で、二人はずぶ()れになってしまいます。近くにはGHQ(連合国軍総司令部)の高いビルが立っていました。
 池田先生はビルを見上げて、戸田先生に(せん)(げん)します。
 「必ず、(しょう)(らい)、先生に乗っていただく車も買います。広宣流布のための(りっ)()なビルも()てます。どうか、ご安心ください」
 今、世界各地に立派な会館が立っています。その(げん)(りゅう)こそ、この先生の恩師への(ちか)いです。
 また、前回(8月24日付)も()れましたが、戸田先生と池田先生が聖教新聞(そう)(かん)の構想を語り合ったのは、50年8月24日のことでした。
 さらに、戸田先生が池田先生に、創価大学の設立の思いを()(れき)し、(ゆだ)ねたのは、50年の(ばん)(しゅう)です。
 一つの大学を設立することが、どれほど多くの労苦を(ともな)うことか。しかし、池田先生は、恩師の構想の実現に全(せい)(こん)(そそ)がれ、その約20年後の71年(同46年)に創価大学は開学します。
 「秋霜」の章に、「戸田の会長(しゅう)(にん)以後の()(やく)(てき)な学会の前進と、その(ぼつ)()における急速な(やく)(しん)も、すべて、その(みなもと)(たず)ねるならば、ひとえに大聖人の仏法の()(だい)さによることはもちろんであるが、この()(なん)(さい)(げつ)の間に、(すで)に決定的な種子の育成がなされていた」と記されています。
 「種子の育成」とは、「()(しょう)が弟子を(きた)えた」ということだけではありません。大事なことは、「弟子が師匠に(つか)えきる」ことです。その精神があってこそ、師匠の弟子に対する(くん)(とう)が花開いていくのです。

創価大学のキャンパス(2021年9月、八王子市で)。昨年、開学50周年の佳節を刻んだ

戸田大学に学ぶ“(ぜつ)(みょう)()(きゅう)

 ◆山口 この時期、池田先生は、(かよ)っていた()(がく)を断念されました。そうした中、戸田先生は個人教授を行います。これが「戸田大学」です。
  
 ◇原田 戸田大学を通して、私たちが学びたいのは、“師弟の(ぜつ)(みょう)()(きゅう)”です。
 池田先生は、49年(同24年)秋ごろから、夜学を休んで恩師の会社を支え、仕事が一段落したら、復学しようと考えていました。
 しかし、50年の年頭、戸田先生は、「君には、本当にすまないが、夜学は断念してもらえないか」と(まな)()()に語ります。
 池田先生は、戸田先生の深い思いを受け止め、「はい。先生のおっしゃる通りにいたします」と(そく)()に答えます。そして、一身を(ささ)げて、事業の再建に(ちから)(そそ)いでいきます。
 しばらくして、戸田先生は池田先生を()(たく)()んで、一対一の授業を開始します。個人教授は日曜日に行われ、やがて市ケ谷にあった会社の始業前にも開かれるようになります。
 恩師は御書を根幹に、政治、(けい)(ざい)(ほう)(りつ)、歴史、化学、物理学など、(ばん)(ぱん)の学問を講義します。戸田先生は、この個人教授だけではなく、日常のあらゆる機会を通して、池田先生を(くん)(とう)します。
 戸田先生はよく、池田先生に「今、何の本を読んでいるか」と聞かれました。
 50年10月2日の夜、電車の中で、ルソーの小説『エミール』が話題になります。池田先生が、かいつまんで感想を述べると、戸田先生は()みを()かべ、「大作とは何でも話せるな!」と語られました。
 池田先生は、戸田大学で学んだことを最大の(ほこ)りとされています。アメリカの青年に、「戸田大学は世界一の、最高の大学であると確信しています。私は、その戸田大学の(ゆう)(とう)(せい)として、それを世界に証明する義務がある」と、戸田大学を通して師弟の精神を(うった)えられました。
 世界の大学・学術機関から池田先生に(おく)られた名誉学術(しょう)(ごう)は400を()えています。人類史に(かがや)く英知の()(ぎょう)(げん)(りゅう)は、この戸田大学にあります。

東京・市ケ谷駅とその周辺を池田先生が撮影した(2019年3月)。同駅近くのお堀端に、「戸田大学」の舞台となった市ケ谷ビルがあった

 ◆山下 池田先生の入信75周年を(むか)えた先月24日、先生は全国・全世界の同志に3首の和歌を(おく)ってくださいました。
  
 ◇原田 その中の1首で、入信75周年を迎えられた心境について、こう()まれています。
  
 師に(ささ)
  七十五(とせ)
   入信日
  (えん)()に妙法
   (とどろ)(ほま)れは
  
 戸田先生は、()くなる前月の58年(同33年)3月、「君の本当の()(たい)は世界だよ。世界は広いぞ」「人類の幸福と平和の実現こそ、仏法の本義なんだからな」と、(まな)()()に世界広布の構想を(たく)されます。一人立たれた池田先生の(げき)(とう)によって、世界広布の大願は(じょう)(じゅ)されました。
 先生の75周年の入信記念日から、「青年・()(やく)の年」の総仕上げへと前進する青年部が、師匠に(つら)なりゆく(じっ)(せん)とは何なのか。それは、「拡大」にほかなりません。小説『新・人間革命』の中では、次のように何度もつづられています。
 “()でよ! (いく)(まん)、幾十万の山本伸一よ”(第3巻「(がっ)()」の章、第8巻「(ほう)(けん)」の章、第29巻「源流」の章)
 インドの青年部は、「アイ アム シンイチ・ヤマモト!(私は山本伸一だ!)」、「アイ アム ザット ワン ディサイプル!(私がその一人の弟子だ!)」との合言葉で、目覚ましい拡大のドラマをつづっています。
 広宣流布(だい)(せい)(どう)完成10周年の明2023年11月へ向け、学会は新たに出発しました。少子(こう)(れい)()をはじめ、社会にはさまざまな課題が(さん)(せき)しています。だからこそ、青年部の一人一人が、“新時代の山本伸一”との自覚で、広布拡大の(とっ)()(こう)を開き、見事な(こう)(けい)(あか)しを示していこうではありませんか。

真剣勝負の講義が続けられた「戸田大学」(画・内田健一郎=小説『新・人間革命』第23巻「学光」の章から)

 【参照】
 ◆小説『人間革命』=第4巻「怒濤」「秋霜」、第12巻「寂光」
 ◆小説『新・人間革命』=第3巻「月氏」、第8巻「宝剣」、第16巻「入魂」、第19巻「陽光」、第29巻「源流」