〈ONE GOSHO~この一節とともに!~〉男子部教学室編
華果成就御書
創価三代の魂を受け継げ
恩師・戸田城聖先生の構想実現へ、池田大作先生が第3代会長と立たれて、60周年の「5・3」を間もなく迎える。今回は、師匠への報恩の心がつづられた御書から、弟子としての日蓮大聖人の姿勢を学ぶ。
御文
よき弟子をもつときんば師弟・仏果にいたり・あしき弟子をたくはひぬれば師弟・地獄にをつといへり、師弟相違せばなに事も成べからず
(御書900ページ)
通解
よい弟子をもつならば師弟はともに成仏し、悪い弟子を養うならば師弟はともに地獄に堕ちるといわれている。師匠と弟子の心が違えば何事も成就することはできない。
背景
本抄は弘安元年(1278年)4月、日蓮大聖人の故郷・安房国(現在の千葉県南部)の清澄寺で活動する若き日の兄弟子・浄顕房と義浄房に送られたお手紙である。この2年前、大聖人が仏門に入られた際の師匠であった道善房が死去。三回忌に当たり認められたと考えられる。
道善房は、大聖人の折伏を受け、一時は、法華経の信仰を持つように見えたものの、結局は、念仏への執着を断ち切れなかった。そうした師に対しても、大慈悲の心で報恩感謝の念を示されているのが本抄である。
解説
今回の拝読御文の前の部分では、稲が実る譬えが説かれており、それが題号の「華果成就」の意義である。
本抄で大聖人は、稲が「二度華果成就するなり」(御書900ページ)と仰せである。最初の華果成就とは、稲が成長し、花を咲かせ、穂が垂れるほど豊かに実ること。2度目は、実った稲は刈り取られるが、米の精(大本の生命力)は消えず、大地に収まるゆえに、残った株から新たな芽が伸び、再び稲が実ることである。
師弟の関係について、師匠の存在を大地、草木を弟子とした場合、師匠という大地から弟子という草木が成長し、花が咲き、実がなる(成仏する)ことが、最初の華果成就となる。米の精が大地にかえるのと同じく、その弟子の功徳が師匠に還り、師匠をも成仏させゆくことが、2度目の華果成就となる。
大聖人は本抄の冒頭で、「草木は大地がなくしては生長することができない」(同ページ、趣意)等の比喩を使い、弟子を大きく育んでくれる存在への理解と感謝を示されている。こうしたことから、御自身を育んでくれた旧師・道善房に対する、尽きせぬ報恩の心が伝わってくる。
道善房は最後まで念仏への執着を捨て切ることができなかった。たとえそのような師匠であっても、大聖人は弟子としての報恩を示され、御自身の妙法弘通の大功徳を回向していかれたのである。一切衆生を救済しゆく根本法を確立された大功徳を回らし向ける――これ以上の報恩はない。
続く拝読箇所では、「華果成就」の原理から、“よき弟子”をもてば師弟共に成仏することができ、一方で邪道に迷う“悪しき弟子”であれば、自身が成仏できないゆえに、師弟共に地獄に堕ちてしまうと説かれている。そして、「師弟相違せばなに事も成べからず」とあるように、「師弟不二」こそが、あらゆる勝利の鉄則であると示される。
大事なことは、師弟の真価の一切は「弟子」によって決まる、ということである。
人類の幸福と世界の平和を目指す広宣流布の未聞の運動は、未来まで続く間断なき闘争である。ゆえに、師に続く弟子の実践に全て懸かっている。
真の「師弟の道」を示された大聖人に直結し、広宣流布の道なき道を切り開いてきたのが、創価三代の会長である。なかんずく、牧口先生、戸田先生の心をわが心として、先師・恩師の構想をことごとく実現し、創価学会を世界宗教へと飛翔させたのが池田先生である。その偉大な功績は仏法史に燦然と輝き続ける壮挙であろう。私たち男子部にとって、先生の闘争は、まさに「よき弟子」の模範である。
先生は小説『新・人間革命』第22巻「新世紀」の章につづられている。「師匠が、先人たちが、築き上げてきた敢闘の歴史は、その心を受け継ぎ、新しき戦いを起こそうとする後継の弟子によって、今に燦然たる輝きを放つのだ」
まもなく先生の第3代会長就任60周年の5月3日を迎える。私たちは今一度、世界広布の道を大きく開かれた師匠への深い感謝を胸に刻んでいきたい。そして、新型コロナウイルスの一日も早い感染終息と世界の安穏を強く祈り抜きながら、智慧を発揮し、広布伸展の新たな歴史を開きたい。
苦難に直面したときこそ、“弟子の真価”が問われるときである。一人一人が、師から学んだ不屈の学会精神を体現し、前進していこう。