御書とともに

我らの肉体が妙法の当体

 

我等(われら)が頭(こうべ)は妙なり喉(のど)は法なり胸は蓮なり胎(はら)は華なり足は経なり此(こ)の五尺の身 妙法蓮華経の五字なり

(御義口伝、716㌻)

 

〈通解〉 我々の頭は妙であり、喉は法であり、胸は蓮であり、胎は華であり、足は経である。この五尺の身が妙法蓮華経の五字の当体である。

 

~同志への指針~

 

広宣流布のために頭を使い、体を動かすことが、どれほど偉大なことか。

法のため、人のため、社会のために真剣に祈り、動く時、仏の広大無辺の智慧が湧かないわけがない。仏の頑健な生命力が漲(みなぎ)らないわけがない。仏の師子王の勇気が脈打たないわけがない。この大確信で、今日も、勇躍の行動を!

 

第二回千葉県記念総会・第一回全国壮年部… 信仰は最極の幸福への権利

1990.5.13 スピーチ(1990.2〜)(池田大作全集第74巻)

 ともあれ「行動」した分だけ、「境涯」は広がる。またみずから歩き、労苦の汗をしたたらせた地域は、自身にとって永遠の歴史の国土となる。その栄光の歴史は、三世にわたって生命から消えない。
 「御義口伝」には「我等が頭は妙なり喉は法なり胸は蓮なり胎は華なり足は経なり此の五尺の身妙法蓮華経の五字なり」――われらが頭は妙である。のどは法である。胸は蓮である。腹は華である。足は経である。この五尺の身が妙法蓮華経の五字の当体である――と述べられている。
 甚深の意義があると拝されるが、一次元からいえば、この五体をすべて妙法に捧げることによって、事実のうえで、わが身が妙法の当体となっていくことを教えられているとも拝される。
 広宣流布のために、頭を使い、のどを使い、胸で心をくだき、体を動かし、足を使っていく――。そこに全身が、妙法の宝塔と輝きわたっていくのである。
 妙法の当体であれば、四菩薩が一体となって立ち添われることも当然である。
 御本尊には、こうした無上の功徳がある。「法華経」も、要は、その寿量文底に三大秘法の御本尊が秘せられているからこそ「経の王」なのである。そして、法華経では、この御本尊を信じ行ずる人の「功徳」と、反対に、その「法」と「人」を謗じる人の「罰」を明確に示している。
 ともあれ、だれのためでもない、全部、自分のための仏道修行である。「もっと健康になろう。そのために歩こう」「もっと幸福になろう。そのために動こう」との一念で、楽しく、生き生きと、足どりも軽く「行動」していただきたい。
 その一足ごとに、全宇宙の「福」が集まり、無上の「徳」が積まれていくと、仏法は説いているからである。(拍手)

-2011年7月18日付聖教新聞より-

辻武寿先生_08妙法蓮華経


 

御本尊と同じ功徳になることが一番大事だから一大事。

一大事というのは方便品の経文なんです。

世間では大変なことを一大事。地震があっても一大事。交通事故も一大事。火事になっても一大事。

何でもかんでも、すべてが一大事。

それはどこから来てるかっていうと法華経の方便品からなんです。この命が妙法蓮華経の五重の塔ですよ。

頭は「妙」っていうんです。喉は「法」というんです。胸を「蓮」というんです。胎(はら)は「華」。足は「経」。

この体が南無妙法蓮華経だよ。私と同じになっちゃうんだよ。

「ああ、もったいない。私のような、こんな私が御本尊様と同じ命になるんですか。

わかりました。ありがとうございます。」と感謝感激でジャブジャブ、ジャブジャブと

クリーニングするのが勤行っていうんです。そのとき、どんな病気も治るんです。

 

我等(われら)が頭は妙なり喉(のど)は法なり胸は蓮なり

胎(はら)は華なり足は経なり

此の五尺(ごしゃく)の身(み)妙法蓮華経の五字なり

(御義口伝巻上:716)

 

これが一大事。一緒に言って下さい。

 

我等(われら)が頭は妙なり喉(のど)は法なり胸は蓮なり

胎(はら)は華なり足は経なり

此の五尺(ごしゃく)の身(み)妙法蓮華経の五字なり

(御義口伝巻上:716)

 

これが一大事。頭の中に妙法蓮華経の「妙」がわいてくるんです。

頭の中がずっとすんできますよ。「いい気持だな。楽しいな。」ってなってきますよ。

もし頭が痛かったら、妙法蓮華経の「妙」じゃないということです。

拝んでるけれども頭が痛い。それはなぜか?邪宗の先祖代々の染み込んだ残りかすが取れないからです。

中から磨き方が足りないから。

喉は、声帯ポリープとか喉頭癌とか。先祖代々の笑った罪が、笑った罰が中からわいて出てくる。

中から磨き方が足りないから取れないんです。

喉は「法」です。胸は「蓮」ですから。乳がんの仏とか、肺がんの仏とか、心臓が悪い仏なんてないんです。

南無妙法蓮華経でクリーニング。

「妙法蓮華経の「蓮」なんだな。仏の胸にします。御本尊様。広宣流布のために仏の胸にしてください。」

と御本尊を体の中にわかすように丁寧に丁寧に磨いてください。そうするとすぐに治るわけです。

胎(はら)は「華」。足は「経」なんです。

 

「健康長寿の生命を勝ちとれ!」
創価学会名誉会長  池田大作


  断固して
   健康勝ちとれ
    偉大なる
   君の命は
     使命の生命と

 「人生にかける理想があり、それに向かって全魂を打ち込んで進む時、人間はいつまでも若いのです」と、ロシアの芸術の母ナターリヤ・サーツさんは微笑んでおられた。
 このサーツさんも「なんと若々しく、大きなエネルギーに満ちているのでしょうか!」と感嘆(かんたん)していたのが、創価の女性のスクラムである。
 若さは「心」で決まる。年を重ね、体が老いても、広宣流布に戦う心は、同志と共に躍動し、決して老けない。

 御義口伝(おんくぎでん)には、「我等(われら)が頭(こうべ)は妙なり喉(のど)は法なり胸は蓮なり胎(はら)は華なり足は経なり此の五尺(ごしゃく)の身(み)妙法蓮華経の五宇なり」(716ページ)と仰せである。

 仏法の極意(ごくい)は、遠くにあるのではない。父母から頂いた我が身こそが妙法蓮華経の尊極なる当体なのだ。
 ゆえに、題目を唱え、法のため、友のため、立正安国のため、頭を使い、足を運び、声を出す我が色心(しきしん)に、仏の智慧(ちえ)が冴(さ)えわたり、仏の大功力が満々と漲(みなが)ってこないわけがない。

 信心は最高にして無上の健康法である。ゆえに「張りのある勤行」を基本として、“絶対に健康になる”と一念を定め、一日一日、みずみずしい生命力で前進していくことだ。
 人の何倍も忙しい使命の毎日だからこそ、聡明(そうめい)に無駄(むだ)な時間を排(はい)して、上手に睡眠をとっていただきたい。無理を重ね疲れをためれば、病魔に付け入る隙(すき)を与えてしまうからだ。
 
「いのちと申す物は一切の財(たから)の中に第一の財なり」(1596ページ)である。
 自分が自分の名医となり、看護師となって、油断なく体調を整え、教養ある食生活も心がけていきたい。
 生老病死は人生の根本課題だ。誰人も、病気との闘いは避けられない。

 大聖人は、闘病中の壮年門下を労われて、「長い病にかかったことで、日夜ひまなく求道の心を起こされました」(1480ページ、趣意)と仰せである。
 信心が弱いから、病気になるのではない。信心を強めて、「人間革命」の転機とし、「一生成仏」の境涯を深めゆくために病気があるのだ。
 恐れなく病魔に立ち向かう中で、わが生命がどれほど尊厳であるかに目覚めることができる。どこまでも妙法と共に生き抜かんとする心に、永遠の仏の生命を感得できるのだ。

 幼い娘の病と闘う一家を励まされて、大聖人は「法華経の功力を思ひやり候へば不老不死(ふろうふし)・目前にあり」(1125ページ)と断言なされた。
 どんな病や苦しみがあろうとも、わが家は題目の師子吼(ししく)を轟(とどろ)かせて、断じて勝ち越えてみせる。この常楽我浄(じょうらくがじょう)の生命の勝利を示し切って、悩める友を励まし導いていくのだ。

 忘れ得ぬ長崎広布の母は、脳の大病を初信の功徳で見事に克服した。悪逆な坊主の迫害からも、島々まで奔走(ほんそう)して同志を守り抜いてくれた。
 87歳の今も「友を苦しめる三障四魔(さんしょうしま)は絶対に許さない!」と強盛に祈り、「青年を育てることが私の健康法です」と平和の対話を広げる。友人からも「貴女の声を聞けば、元気になる」と喜ばれる日々である。

 「『声仏事(こえぶつじ)』だよ。勇んで声を発せば、自分の仏の力が増す。わが生命力を吹き込んで、相手の命を蘇らせてゆくのだ」と、恩師は叫ばれた。
 病魔も退散する勇気凛々たる音声で、今日も生き生きと語り、闘おう!

  わが友の
   健康長寿を
     祈るらむ
    創価の城の
     完勝誓いて