これが日蓮仏法だ!!

 

 

〈いのちの賛歌 心に刻む一節〉 生死と向き合う 
三世の生命の絆を確信
不慮の事故。なぜ妻が――
 企画「いのちの賛歌 心に刻む一節」では、御聖訓を胸に、宿命に立ち向かってきた創価学会員の体験を紹介するとともに、池田先生の指導を掲載する。今回は「生死と向き合う」がテーマ。北海道岩内町の壮年部員に話を聞いた。 過去の因を知らんと欲せば、その現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲せば、その現在の因を見よ(開目抄、新112・全231)
 過去の因を知りたいと思うなら、その現在の果を見なさい。未来の果を知りたいと思うなら、その現在の因を見なさい。
 突然のことだった。2020年1月3日、齊藤覚さん(73)=副総県長=が、妻・雅子さんと近隣の知人を訪ねていた時、道路を横断する妻が目の前で乗用車にはねられたのだ。
       ◇
 ドン、という鈍い音がしたかと思うと、車のブレーキ音が辺りに響く。
 「その瞬間は何が起きたのか理解できなくて。倒れている妻の名前を何度も呼びました」雅子さんは救急車で病院へ緊急搬送され、懸命な手当てを受けたものの、息を吹き返すことはなかった。齊藤さんは横たわる妻の前で、ぼうぜんと立ち尽くした。
 やがて、離れて暮らす長女・邦子さん(40)=副白ゆり長=と長男・淳一さん(38)=地区リーダー=も駆け付けたが、母親の顔を見て、二人とも言葉を失った。
 「あの時、あの場所を通らなければ。いや、あの日、家を出なければ……。考えてもしょうがないですが、悔しさとやるせなさが込み上げてきて。なぜ、妻だったんだ、と」
 最愛の人。齊藤さんがそう呼ぶ雅子さんと結ばれたのは、1981年(昭和56年)のこと。見合い結婚だった。以来、三つ年上の妻に引っ張られるようにして、齊藤さんは広布の最前線を共に歩んできた。度重なる病苦や経済苦も、二人三脚の祈りで越えた。
 「妻は私にとって、広宣流布の“戦友”でした」
 齊藤さんが圏長の時には、雅子さんも圏婦人部長(当時)を務め、広大な地域を二人して同志の激励に駆け巡った。
 齊藤さんが定年退職してからは、二人で過ごす時間も増え、さらに地域のために尽くそうと話し合っていた。不慮の事故は、その矢先だった。
 「妻を失い、日常は一変しました。帰宅しても話す相手がいない。慣れない家事も自分でやるしかない。そのたびに“ああ、もういないんだな”と」
 静かな家に一人でいると孤独感が襲う。命が後ずさりした。
 気にかけてくれる地域の同志の存在が、どれほどありがたかったか。
 壮年部の同志から「俺の信心で守ってあげられなくて、申し訳なかった」と涙を流しながら頭を下げられた時には、感情があふれて男泣きした。
 悲しみを振り払うかのように、齊藤さんは学会活動に没頭した。御本尊に向かいながら、妻の死の意味を求めた。
 来る日も来る日も、重ねる葛藤。その中で、齊藤さんの心を捉えたのが、
日蓮仏法の「三世の生命観」だったという。
 「生と死は永遠に繰り返す。それが生命の実相であるという深遠な法理です。そうであれば、妻の生命は永遠であり、私と妻との命の絆も途切れません。来世で再び会うことだってできる。祈る中で確信が深まっていった時、ようやく
前を向けたような気がします」暗闇の先に見えた一筋の光。 この時に拝した御書の「未来の果を知らんと欲せば、その現在の因を見よ」(新112・全231)との一節が、心のひだに染み込んだ。

 「広布に生き抜いた妻は、間違いなく今世の使命を全て果たし、宿命転換したんだと確信できました。だから私も広布に生き抜いて、来世もまた、妻と共に広布に生きるぞと。そうやって自らを奮い立たせる以外ないですから」亡き妻の宿命転換。確信できたのはどうしてだろうか。「学会活動する中で、妻の存在が、周囲の励ましになっていると感じられるからです」
 雅子さんが結んできた仏縁が花開き、信心に目覚めた同志がいる。学会の良き理解者になってくれた友人もいる。二人の子どもたちも信心を受け継いでくれた。雅子さんの生きた軌跡は、今まさに誰かの力になっているのだ。
 「信心に励めば励むほど、妻の命をそばに感じられる。御本尊様に感謝です。題目を唱えながら、一日一日、命が尽きるまで前進します」雅子さんが亡くなった直後のことを、邦子さんは振り返る。
 「憔悴しきっている父の姿は見ていられなくて。ソファに座り、空を眺めているだけの日もありました」
 淳一さんは、「元気で信心強盛だった母が、突然いなくなる。私自身もショックでしたが、その瞬間を目の当たりにした父は、どれほどつらかったか……」。 雅子さんの一周忌を迎えた頃、二人の子に父は言った。
 「未来に向かって、頑張っていこう」
 それは、自分自身への宣言だったのかもしれない。
 悲嘆の中、齊藤さんが支えとした池田先生の言葉がある。
 
「『南無妙法蓮華経』という、宇宙の根本法則に生きぬいた人々の、不慮の死というものをよく見ると、必ずといっていいくらい『大きく宿命の転換がなされている』と、まわりの人々が言っております」「そうした人々の『死』の姿というものは、さわやかな夢のようであり、そのさわやかな夢が、縁ある人々をさらに勇気づけ、希望へと志向させながら、力強い波動の輪となっているようです」(『池田大作全集』第11巻所収、「生命と仏法を語る」)
 現在、齊藤さんは、地域に長年尽くした妻の思いを継ぐように、学会活動をはじめ、町内会や地域貢献の活動に励む。邦子さんと淳一さんも、“母の分まで”と、それぞれの地で広布後継の誓いを深めている。
 家族の心の中で、雅子さんの存在は今もなお、太陽のように光り輝いているのだろう。
 雅子さんが残した日記。最後に記された言葉は「前進! 前進! また前進!」だった。
 齊藤さんは笑顔で語る。
 「人の一生には限りがある。だからこそ、自らの命を“今、何に使っているのか”が大事なんだと思います。これからも、広布のために戦います。私の中に生き続けている、最愛の妻と一緒に」


教学コンパス
 
インドの詩人タゴールが、アジア人初となるノーベル文学賞を受賞して今年で110年。40代で最愛の家族を相次いで亡くす悲哀を乗り越えて、偉大な足跡を残した詩聖が、自らの詩につづった仏典の説話がある。
 ――わが子を病で失い、悲嘆のあまり「生き返らせる薬」を求め歩いていた母親に、釈尊は言った。「良い薬をあげよう。ケシの種をもらってきなさい。ただし、今まで死人を出したことのない家から」。母親は、町中の家々を必死に訪ね回るが、死を免れた家など一軒もなかった。ついに母親は理解する。死別の悲哀を抱えていない人は誰一人としていない、自分だけではないのだ、と。母親は生死という人生の根本命題の探求に目覚め、仏道に入る――。自らの悲しみを語り歩く先々で、話を聞いてもらえた。同じ苦悩を共有できた。「同苦してくれる人がいる」。それが何より希望の源泉になることを、仏法の英知は示してやまない。

 励ましの絆で結ばれた麗しい人間共和の世界。創価学会が目指す広宣流布の実像だろう。