先日温泉に入りに行って、そこのリクライニングスペースで漫画「ザ・ワールド・イズ・マイン」を読み漁る。
途中までは学生のころ読んでて、そのまま縁なく止まってしまっていたが、この機会にと、一気に読み終えること三時間。
マリアが友人のヤンママと出会い、トシに惨殺されてからのマリアの発狂ぶりがすさまじい。
まずこの漫画には善悪の基準がない。というより、一般的な善悪の価値基準が、たった一人の男、モンによってあっけなく破壊されているところから始まる。
最終巻で明かされる主人公モンの哀しみに満ちた過去。母親に見放され、くまのぬいぐるみとともに与えられた母親からの最後の言葉は、「死ね」。
なにがよくてなにが悪いのか、その判断をもたないモンはなすがまま、現実を生き抜いた。
「俺は俺を肯定する」という言葉は、キルケゴールに感化されたイカれた空手親父からの受け売りだったが、モンにしてみれば、それは真実だったように思う。
ただ母親の面影をマリアに感じていたモンは、彼女の死後、静かに覚醒する。
世界中のテロリストと結託した彼は、最終的に、彼らに自発的に、核ミサイルのシャワーという、世界の終末を促す。
アメリカ大統領は、あまりにも素直すぎる最後の言葉を残し、全人類および、地球とともに消える。
世界はだれのもの。自分のものであり、同時にあなたのものでもあるのだ。
その強烈なメッセージとともに、漫画は終焉を迎える・・。
一方でもう一人の主人公トシは、最後まで一般人の代表だったように思う。(自分でも言っていたが)
モンの所業に右往左往し、殺人にまで手を染めてしまう彼の人間性は、あちこちに心が移ろう現代人の意識のありようを、見事に表現している。
一体人が人を殺すということはどういうことなのか。なぜ殺人はいけないのか。その答えをあざ笑うかのように、モンは大量殺戮を行う。
まるで呼吸をするように。
村上龍はその著書「イン・ザ・ミソスープ」の中で、フランクという外国人に、その所業をさせた。
息を吸って吐くように、まるでそれが当たり前であるかのように殺人を行う彼には、一般的な常識は通用しない。
その意味で、モンとフランクは酷似している。
また、幼いころに捨てられた(見放された)子供が、後に世界にとって脅威となる行動に出る、という意味でも、モンは同じく村上龍の「コインロッカー・ベイビーズ」のキクとハシに重なる。
生まれながらにして、神に見放された子は、殺人を犯す権利を有している。
とでもいわんばかりの作風は、二人の著者に共通するテーゼだ。
そこに世間の常識は通用しない。
あるのは、矛盾と、混沌と、わずかに見える美しい景色。
人類に少しでも希望が残されているとするなら、それは、その景色を見るために、悪戦苦闘しながら、何度も過ちを犯しながら、裏切り裏切られながら、それでも前へ進もうとする、考え続けようとする、ヒトの意志なのかもしれない。
そしてそれは、絶対的な暴力、超自然的な、科学では計れない悪意の元でしか、産まれないものなのかもしれない。
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余談
最後まで人を殺すことをためらい、運命に抗いつづけた塩見警部補こそが、あるいはこの残酷な物語の中で、一番まっとうな生き方だったのかもしれない。
「抗うな、受け入れろ、すべては繋がっている」
そのアンチテーゼこそが、人が人であるための最後の希望だったのかもしれない。