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 エンディングでは、映画作りに貢献した人とか団体とか、そんな情報が、すべて記載されたリストが延々と流れていくが、前にはこのエンディングが始まった段階で、観客たちは席を立ち始め、ぞろぞろと会場を後にしていったものである。昔は、みんな忙しかったのだろうか。映画が娯楽の王様だった時期から、その余韻を保っていた時期まで、映画館が満員で、横に長い席にぞろりと観客が座っていたので、両隣の客が席を立って館を離れようと意思表示すると、自分だけでんと座っているわけにはいかないものだ。それでもがんばって、エンディングの文字列の流れを見たいという欲求もないので、自分もみんなと混じって、退館の行列に合流することになる。

 しかし、最近の映画館では、割とエンディングも全部見ている人が多いようだ。映画館がそれほどすし詰め状態ではなく、映画を鑑賞しようなどという人たちは、まあそれなりに時間に余裕がある、つまり暇な人たちだからだろうか。シンデレラを観た日も、エンディングの間にほとんど観客の動きはなく、上映が完全に終わって、劇場が明るくなるまで、大体のお客さんは座ったままだった。このエンディングの意味であるが、もし、自分が、何らかの形で映画の製作に参加していて、たとえば、映像処理の一部分を担当していて、エンディングの隅っこに自分の名前が出ていたら、その部分のカットは格別なものになるだろう。そういう社会の仕組みが分かって、初めてこの部分の重要さとかが実感できるのだ。

 映画製作は、総合芸術で、いろいろな人がチームに参加している。音楽を担当する人も、CGの技術者も、監督も、プロデューサーも、脚本家も、いろいろな人の名前がこのリストに記されるが、なんといっても映画の中心にいるのは、演者、女優と俳優だ。たとえ、音楽がなくとも映画はできるが、女優がいなかったら、映画の体をなさない。たとえば、ギターの愛のロマンスというスペインかどっかの民謡が、フランス映画『禁じられた遊び』の映画音楽として、有名だが、実は、この映画は制作予算が不足していて、本格的な音楽までお金が回らなかったので、一人の演奏者のギター曲で、音楽を間に合わせたということだ。結果的にはそれが成功したというのだが、この映画の最初のタイトルの部分などは、素人っぽい、学生の映画のような自主映画のような感じだ。

 当然、エンディングの情報で、一番気になる部分はキャストである。東映なんかの映画人の話では、俳優さんたちがこの配役の記述の順序をすごく気にして、文句を言ったりするので、映画製作者が頭を痛めたということをよく聞く。そのせいではないのかと思うのだが、たとえば、NHKの大河ドラマなどでは、ドラマの配役の部分の映像が実にうまく編集されていると感じるのは、私だけだろうか。配役の流れが一筋ではなく、場所も、意表を突くようなところに現れ、最上位の俳優・女優を示す場所が簡単には識別できなくなっている。最初に一番重要な俳優の名前が出てくるかと思うと、最後に格上の名前が出てきたり、それで終わりだと思っていたら、また俳優の名前が出てきて、「特別出演」などという添え書きがついていたりする。しかし、「シンデレラ」では、そんな苦心の跡は見てとれず、ほとんどぶっきらぼうと見えるくらいに、キャストが下から上に流れていった。ハリウッド映画は大体こんなものなのだろうか。いままで、エンディングをそんなに一所懸命見ていなかったので、よくわからない。

 この映画でシンデレラを演じたのは1989年生まれのリリー・ジェームズというイギリスの女優である。この映画の主役だが、エンディングのキャストのリストでは二番目になっていた。先頭に書かれていたのは、継母を演じたケイト・ブランシェットという女優だった。ケイトは、オーストラリア出身で1969年生まれ。どちらも、私はよく知らないのだが、調べてみるとケイトは1998年に「エリザベス」でアカデミー主演女優賞を、2004年に「アビエイター」で助演女優賞を受賞していて、評価の高い女優であることが分かった。アカデミー賞という賞であるが、ハリウッドの私のお好みの女優が、ノミネートされたことがあるだけで受賞経験がなかったりで、あまり、大したものとも思いたくないのだが、映画界における、女優に対する信頼を示す尺度ではあるだろう。それに比べると、シンデレラ役のリリーは、もう26歳になっているけれども、駆け出しの若手女優ということになる。

 さて、このキャストの記述順位で、シンデレラのリリーよりも継母役のケイトが上にいたのは、単に女優・俳優の格に敬意を払ったからなのだろうかというと、そんなことは絶対にないと思う。

 やはり、この映画の製作者たちが、ストーリーにおいて、継母のキャラクターが最も重要なパートであるという認識をもっていたことをしめすものではないだろうか。シンデレラは、恋愛のハッピーエンドの話である。そのカップルの一方は王様、映画の描写から判断するに、現代のイギリス王室とは性格を異にする絶対権力者のようだ。要するに、強者の結婚の話である。王子様が迎え来てくれるのを待っている乙女の話と解すれば、それで意味があるが、目の肥えたお客さんをうならせるには何か不十分だ。たとえば、どこかの大企業の創業一族の御曹司が、美しい女優と結婚して、見上げるようなウエディング・ケーキにナイフを入れたなどという話を聞いても、観客がどれほど共感するだろうか。まあ、いいところ、「あ、そう、おめでとう」で終わってしまうだろう。この映画に観客が共感するためには、二人の純愛を理不尽に妨害して、シンデラレかわいそう、王子様がんばれと、観客に感じさせるための味つけが必要であり、そのためには、継母の役の演技がとても重要なのである。この役を演じる女優がダイコンだったら、映画はぶち壊しになり、興行成績も上がらず、批評家には酷評され、映画会社は赤字と不評のダブルパンチを受けることになる。

 さらに進んで、このストーリーにおける継母のキャラクターには、それ以上の含意があるかもしれない。たとえば、漱石の『坊ちゃん』の敵役の赤シャツだが、作者は自分の姿を赤シャツになぞらえていたという話も聞いたことがある。敵役がストーリーにおいて重要なのは、単に話を盛り上げるという効果では語りきれない、深い意味があるのではないかと思えるのである。