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クロスカのブログ

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 7月もそろそろ終わってしまう。何か記事を書かねば。しかし、何も書くことがない。思い浮かばない。これではブログも考え物だ。


 とにかく、このブログが生きていることを証明するためにアリバイ的な記事を書こう。と言うことで、テーマであるが、ライオンにする。しかし、ライオンとアダムソン夫妻の友情の物語を離れ、動物と人間の関係という下がった視線から考えたい。


 人間が動物の一種であることは、真面目に観察を行えばだれでも納得するはずだ。しかし、動物に対し、人間は優越した異質の存在であるというドグマが、現在同様、過去も昔も語られ、信じられてきた。印象でしかないが、この傾向は、洋の東西で言えば西欧文明に、権力者と民の区別で言えば、権力者に近い人々に強いのではないか。


 まず、西欧文明の背骨である聖書を考えなければならない。旧約聖書は、神が自分に似せて人間を創ったと書く。さらに、神は人間と契約し、地上の動物たちを支配し、殺して食する権利を付与したともかく。どこだか一々調べるのは面倒なので、出典を注記しないが、実際にその個所が必ずあるので、疑う人はぜひ自分で調べてほしい。いまどき、聖書はオンラインで読むことができる。


 さて、このようにして、ユダヤ人たちは自分たち人間が神の姿をかたどった特別な存在であると、宗教原理から信じていた。確かに、その人間が牛の像を崇拝するなどと言うのは、筋が通らない。ユダヤ教からキリスト教が発展したが、このテーゼはその文化にも継承されたと見える。こういう宗教的な心情がないと、大量の家畜を虐殺し、食料を工業的に生産したり、ミンチにしたり、骨を粉にして利用したり、そんなことをしていたら、神経を病んでしまうだろう。


 しかし、神を見た人はいないし、こういう宗教信条で自らを武装するためには、聖書の大著を読みこなさなければならない。それを読みこなし、合理的な思考ができるようになると、多くの人は聖書に書いてあることが、実際に証明されたものではないことに気付く。神と契約して、動物虐殺免許証をいただいたと言っても、その現物は誰も見ていない。神学ではそもそも神は存在するのかが多分最初の問題ではないだろうか。神が存在すると信じれば存在することに納得するのだろうが、その体系を知らない人間には、その信条は無である。


 さて、神との契約がいささか独善的で怪しいのではないかと気づいた西欧の知識人は、合理的な考え方で矛盾を止揚しようとしただろう。しかし、そもそも中世のヨーロッパでは、知識人はキリスト教の教会に集まっていたのだから、このように合理的な思考に目覚めた知識人のルーツはキリスト教会にあったというべきだろう。このあたりの考察は、アバウトで少し自信がないのだが、厳密性を保証しなければならないわけでもないブログなので、その次に行きたい。


 フランス革命を見ると、この段階で革命指導者は完全にキリスト教を否定し、神への服従を理性の賞賛に置き換えたかに見える。このようにして西欧に近代が訪れ、キリスト教のそこでの位置もだいぶ異なるものになったが、西欧の知識人の一部は完全に論理的に、世界観的にキリスト教を捨て去ろうとしたが、そうでない人はキリスト教の信仰と理性とを統一しようとした。そこで、キリスト教に引導を突き付けようとした思想について考えたい。


 神との契約とか、神の約束とか救済とかいう話を捨て去った西欧の知識人は、神の存在を前提にしない考え方を建設して、さまざまなものを説明しようとした。科学などともいうが、本来、科学は神の存在を否定するとかしないとかいう断定に関与しないものだと思うので、別の言葉を使うべきだ。唯物論という言葉が、ふさわしいだろう。無神論などと言う言葉もあるが、この言葉が元の西欧文化の中でどういう意味合いで使用されているにしろ、私の印象ではニヒリスティックな印象を与えるので、却下する。


 唯物論の世界では、大変、優秀な思想家で科学者であるカール・マルクスは、古典派経済学を批判することで、社会の神髄を抉り出そうとしたのだと思うが、彼の体系の入り口のところで、彼はわざわざ「類的な存在」などという概念を導入して、人間が動物一般に対して特別な異質の存在であることを論証しようとする。初めてマルクスの体系に触れたときに、講師役だった人がこの「類的存在」という言葉をやたらに強調して、人間の特別性を論じたのを覚えているが、何となく違和感を感じたのにもかかわらず、そういうものなのだろうかなどと納得しようとしていた。


 なぜ、このような前提が、人間社会を解明する前提として必要なのだろうか。生産力とか生産関係の分析、あるいは価格と市場の分析において、このような前提は不要に思える。このような考察が必須になったのは、社会の科学的な分析のためではなく、キリスト教が知識人に保証していた総合的な世界観との決別のためだというべきだろう。キリスト教によって、信仰によって保証されていた重要なドグマは、キリスト教を廃棄したのちにも、別の形で継承しなければならない。その必要が、こういう考察を要求し、そして、神との約束で与えられたものと同じドグマが、科学的な考察の名の下に正当化されたのだと思う。


 名前は明かさないがイギリスの著名な経済学者で、ドイツ語で書かれた本には読むべき価値のあるものはあまりないというような、ものすごいことを言った人がいる。私は、彼ほど優秀でも自信家でもないが、そういうことを言ってくれていたので、ドイツ語で書かれた思想や学問などの研究から、早々に身を引くことができた。向坂逸郎のように、資本論にはすべてがあると言っていた人もいるので、その世界を堪能する機会を自ら放棄した愚かな選択だったのかもしれないとも思うが、とにかく、私は類「としての人間」に関するマルクスやらフォイエルバッハやらの議論についてはあまり自信を持って語れない。だから、上に書いた類的人間の考察の元の理由についても、厳密に語ることはできない。私の見方が誤りであると思う人は、具体的に指摘してほしい。


 私が言いたいのは、そのようにして科学的な、新たな立場を切り開いた人たちの考え方も、旧約聖書の人間の定義と変わらないドグマに支配され続けていることが多いということだ。たとえば、動物学者今泉吉晴によると、日本の教育機関では動物学を志す理由に動物が好きだというものがあってはならないとされているらしい。むしろ、動物学者は動物に感情移入せず、たくわんを切るように動物を殺して解剖することができる人でなければならないらしい。シートンは、彼の著『私が知っている野生動物』の冒頭で、

 

 「私は、動物に冷たい目を向ける人(動物学者)が、ときたまの観察や実験にもとづいて、動物の種の一般的な習性を記述する今の科学の手法をさけ、あえて一個体の動物の、本当の個性と心の生き方を描くことにしました。」


と書いているという。要するに、科学も、厚いフィルターを通して動物を記述し、これが真理に近いなどと独善的に考える人を大量生産してきたのである。西欧には、この自信にみちた鼻持ちならない傾向に対する反省もあり、別の視点も提起されているはずだが、明治以来西欧文明を「皮相上滑り」で飲み込んだ日本では、その葛藤が欠けたまま、結論だけが絶対真理のように信じられているように見える。たとえば、シートンの作品は、勝手に編集されて『シートン動物記』などとして、児童文学の書棚に押し込められているようだ。


 ようやく、ここで、ライオンとアダムソン夫妻の話に少し触れることができる。ライオンを子供として育て、友達として付き合った彼らの経験を、そういう「科学」的な視点で批判した人たちがいたはずだが、そのような見方が動物を科学的に認識できている訓練された科学者の正しい見方であるというのは、荒唐無稽な迷信以前の妄説なのだ。