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 孔子は怪力乱神を語らずと言ったという。また、弟子に死について聞かれたときに「未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん」と答えたという。自分は生きることについてまだ知らないのだから、死について知っている訳がないということ。論理的に考えればハチャメチャな答えだ。世の中には、あることは知っているが別のことは知らない人間が五万といる。


 しかし賢い答え方でもある。一種のはぐらかしのようにも思えるが、これが儒教の教義の基本になった。だから、中国の儒教では死後の世界は語られず、その役割は道教や仏教に渡されていた。


 この孔子の問答から見えることだが、一種の上昇志向に支配されたいわば貧乏人の人生だったことが推し量れる。死後の世界などをいろいろと空想的に考えるのは、生活に不安のない暇な人間の特権かも知れない。ゴーダマシッダールタは何不自由ない王子だったから、瞑想する余裕があったのだろう。同じ古代の中国人でも、秦の始皇帝は、権力を極めたので不死を考える余裕があったらしい。不死を考えるということは、少なくとも死に関する何かを考えることだ。しかし、残念ながら、死の問題に関しては、彼の世界観や方法論では満足のいく答えに行きつくことはなかったようだ。


 孔子のこの問答のもう一つの特色は、彼がある意味で意地の悪いインタビュアーに突っ込んだ質問をされて、うまく答えたという一面である。弟子という存在は、師を尊敬すればするほど、師を試そうとするのではないだろうか。イエスキリストも、いろいろな意地の悪い質問に対して、はぐらかしのような上手な答えで質問者をいなしている。その中で、特に印象に残ったものが「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に」という章句だ。『生き残った帝国ビザンチン』の著者井上浩一は、このイエスの言葉を引用し、被支配者がこのような態度でいてくれることが権力者にとってどれほど好ましいことなのかと述べ、コンスタンティウス帝のキリスト教への改宗は、フォイエルバッハの深遠な考察を借りなくとも自明に理解できるなどと、書いている。最初に彼のこの記述を読んだときには、筆者はなるほどと納得したが、後でよく考えてみると井上はイエスを試そうとしたインタビュアーの悪意を後押ししただけのようにも思えてきた。まあ、どちらでもいいことだが。


 毛沢東は人間の社会的な実践を、①生産活動、②階級闘争、③科学実験の三種類に分類できると述べた。要するに、人間は自然の中で社会を形成して、自然を改造したり、自然から生産物を得るものであり、つまり自然とを相手とする社会的実践が生産活動である。また、人間は生産活動を行うために、共同で活動するのだが、社会では階級が形成され、ある階級が他の階級を支配し、搾取するという状態になるので、階級間の闘争が絶えず発生する。この階級闘争を完全に解決する、つまり止揚、アウフヘーベンするのが共産主義なのである。と言うのだが、つまり社会の中での人間関係のために、人間はいろいろ悩むのであり、そういう活動が階級闘争だと言い替えることも可能だろう。科学実験に関しては、説明する必要はないと思う。


 人間はまず自然に向き合うのだが、そこは驚異に満ちた世界だ。人間は自然の中の多数の驚異に対して、これを神と表現するのは当然の帰結だろう。多くの動物が神として扱われるのも当然の成り行きだろう。古代エジプトでは、猫も、糞喰い虫も神だった。日本でも、稲荷の社では狐が神だ。爬虫類の姿に感動した中国文明が、龍という神獣を創作したのも当然ではないだろうか。


 しかし、ユダヤ教は、厳しい自然の中で生まれたかもしれないが、彼らが直面していたものは人間だった。毛沢東の言葉を借りれば階級闘争と言えるだろう。ユダヤ人は紀元前6世紀に国を滅ぼされてから、他国の支配を受けながら、何百年もアイデンティティーを保ち続けた。この社会状況の中から、一神教のユダヤ教が生まれたという。彼らは人間社会の問題をずっと考え続け、そこから一つの思想体系を生み出したのだろうか。自然と人間を含めた神の考察にまで、宗教が進んでしまったのだ。


 支配するものは支配されるものをあまり観察しないが、支配されるものは非常によく支配者を観察し続けるというのは、一種の法則である。だからユダヤ教を生み出したユダヤ人は、何百年もの間、支配者としての人間を深刻に観察し続けたはずだ。ユダヤ教は絶対的な神に関する考察、神の言葉を借りた考察であると同時に、それは自然ではなく人間の観察から生まれた思想、いや思想などと言うと怒る人がいるかもしれないので、宗教と言うべきだろうか。そういう宗教なのである。だから、神が人間を創ったのか、人間が神を創ったのかという、近代ヨーロッパの論争の根源は、ユダヤ教の本質に組み込まれていたというべきだろう。