人間は反省することができる。動物にはできないと言い切るのは人間の傲慢だが、反省は自己嫌悪だったり自虐だったり、果てしない悔恨だったり、うじうじしたところがある。だから、人間はそういううじうじした悔恨にとらわれることのない動物の姿に、一種の憧憬を感じる。
第二次世界大戦で多数の人間が人間の行為によって殺され、さらに何十年経ってもこの「愚かな」殺人行為である戦争をやめることができず、人間全体を何度も絶滅させることができる武器を集積して、あるいはそういう風に自覚していた人間は、自分の築いてきた文明が愚劣で、悪辣なのではないか疑わざるを得なくなった。
だから、動物の中で、人間だけが利己主義的な動機で人間を殺すのだと訴えて、人間の愚かな行為を修正しようとしていた。狼が群れの順序を決めるために、オス同士で闘うことがあるという。そのとき、負けたほうが降参の意思表示をすると、牙をむき出して、憎しみの表情で唸り声をあげながら、勝者は自分を押し殺して、攻撃を止めるという。同じ条件にあった人間が、果たして同じように自制心を発揮できたのだろうかと問いかける人がいた。確かに、人間は軟弱だから、そのときに敗者を殺さないでいるだけの強さを持たないかもしれない。フランス革命、魔女狩り、異端審問、ホロコースト、スターリンの粛清、それに南京大虐殺もこれに加えたい。人間は自分を抑えられない軟弱な存在である。
しかし、人間以外の動物が同じ種の動物を決して殺さないというのは、甘い考えだ。群れで順位を決めるときの競争的な戦いで、勝った狼が負けた狼を毎回殺していたら、群れが消滅してしまうのだから、そんなときに勝者が自制するのは当然だ。しかし、動物も同種の動物を殺すことはある。たとえば、ライオン。ライオンのオスは子殺しをする。これはライオンだけの習性なのだろうか。むかし、犬のオスは生まれた子供を殺してしまうので、お産の後の雌犬は雄犬を拒絶するのだというような話を聞いた、ぼんやりとした記憶がある。ライオンの子殺しは、ぼんやりとした記憶ではなく、多くの研究報告で確認されている事実である。
昔の動物映画で、ライオンのオスはまじめに働かないろくでなしの亭主だというような内容の作品があった。ライオンはプライドと呼ばれる群れを形成する珍しい猫系の食肉獣だが、群れを養うためには狩りをして、定期的に食料を取得しなければならない。そこから、つい食物を獲得するための狩りを人間社会の生産活動になぞらえたくなる。ところが、ライオンの群れでは、狩りをするのは雌ライオンだけで、立派なタテガミを誇る雄ライオンは狩りを助けず、いわばぶらぶらしていて、しかも雌ライオンが狩りに成功して獲物を得ると、真っ先に割り込んできて、肉を食べ始めるという。人間社会でこういうオスがいたら、こういうオスはたくさんいそうだが、まさにろくでなしだ。
しかし、人間の生産活動とライオンの狩りを疑似的に比較するのは無理がある。ライオンのオスが、まじめに働くようになって、せっせせっせと草食獣を狩猟することになっても、意味はない。ライオンは空腹を満たす食糧だけを求めており、余剰の生産物、剰余価値は不要なのだ。この生産に関する人間とライオンの行動様式の相違を、人間が特別な存在であることの証左であると考える人もいるようだが、筆者はそういう見方には同調できない。
ライオンの群れ、プライドは、ある程度の個体数が集まることで、安定してなわばりを形成することができ、生存に有利な環境を確保する。その群れは、比較的多数の雌ライオンの成獣と、1頭から数頭の雄ライオンの成獣と、彼らの間で生まれた子ライオンから成っている。子ライオンは三年位で成獣になるが、このとき、雌ライオンはそのままプライドに残り、プライドの一員になる。ところが、雄ライオンは、プライドを去り、放浪生活を経験しなければならない。この群れには、すでに雄ライオンがいて、彼または彼らが縄張りのようなものを主張するので、成獣になった雄ライオンを許容することができないのだろう。若い雄ライオンは、群れに属さないライオンになり、いわば修行して、どこかのプライドの雄ライオンが席を譲ってくれないのか、端的に言えば群れを乗っ取る機会を狙う。このとき、数頭で共同行動をとることもある。プライドの雄ライオンは、挑戦してくる若い雄ライオンと闘い、これを退けなければならないが、群れに君臨できる期間は短く、数年で群れを乗っ取られることが多いという。10年間群れの所有者であり続ける例は非常にまれだという。
群れを追われた後、雄ライオンは、はぐれライオンになるのだが、そこでまた修行して技を磨き、プライドを取り返したり、別のプライドを乗っ取ったりするのかと思いたいのだが、悲しいことに、そうではなく、群れを追われた後、その雄ライオンは、間もなく死を迎える。ライオンの野生のオスの寿命は、長くても10年くらいしかないらしい。
筆者としては、ライオンはもっと永遠の百獣の王であってほしいのだが、それが現実なのだ。挑戦して元の所有者を追放して、新たな群れの所有者になった雄ライオンは、群れを構成している子ライオンを殺してしまう。ライオンのこのような生態がはっきりとわかったのは、そう古いことではないと思う。少なくとも、ジョイ・アダムソンがエルザを野生に復帰させようとした1950年代には、こういうことは分かっていなかったはずだ。なぜ、ライオンのオスが、子供を殺すというような非「人道的」なことを行うのか、それは早く雌ライオンと交尾して、自分の子供を産ませたいからだということだ。雌ライオンは、子育てをしている間はオスを受け入れない。雄ライオンがそのプライドの支配者であることのできる期間は、数年間しかないのだから、雌ライオンの子育てが終わるまで待っていることはできないのだろう。
人間が戦争や粛清で、同じ人間を無慈悲に殺戮することは、おぞましいことだ。だから、これは人間の本来帰属している、もっと大きな自然界の摂理を、人間と言う傲慢な生き物が破壊して、こういうことをしているのだと考えることは、自虐的であるよりは、自救的な考え方である。実際には、人間が所属する哺乳類の動物たちも、生きるためとか、あるいはそれ以外の気まぐれのようなもので、同胞や友達を殺すことがあるのだ。たとえば、ジョージ・アダムソンは、エルザの野生復帰に挑戦したあと、映画「野生のエルザ」の撮影に協力し、映画に登場したライオンたちを野生に復帰させる事業を始めた。このころ、ライオンの生態の知識は現在よりもかなり限定されていたと思うが、ジョージ・アダムソンは、エルザを野生に復帰させようとしたときに、ライオンの群れをエルザを中心に形成することができず、エルザに苦労させた経験から、人間に育てられたライオンを集めて、ライオンのプライドを作ってライオンを野生復帰させようとしたのである。このとき、彼が非常に信頼していた雄ライオンが、彼のプロジェクトに協力していたメンバーを攻撃して殺してしまった。彼は、このライオンを殺さなければならなかった。ライオンは人間を見ればすぐに攻撃して、殺すわけではない。ライオンと人間の間にお互いに認知関係を形成し、友達になることもできる。しかし、そのライオンが行動する範囲が、人間の望む範囲に収まることはない。そのライオンがなぜ、ジョージ・アダムソンのプロジェクトのメンバーを攻撃したのか、彼には理解できなかったという。
ライオンは殺戮の悪魔ではないが、人間の醜い性質から自由な真の智慧の護持者でもない。人間が戦争や権力闘争で、殺戮し合うという、望ましくない性質に支配されざるを得ないという現実は、実は人間と言う特殊な種が何かの摂理を逸脱したことでたどり着いた状態ではなく、少なくとも人間が広い意味で属する哺乳類までの動物が共通に持つ、自然の摂理に根差しているとみるべきなのではないだろうか。