最近、少しだけ囲碁が強くなった気がする。初めて囲碁に出会ってからずいぶん経っているのだが、一向に上達しなかったのは、まじめにやっていなかったからだ。囲碁に限らないだろうが、勝負事で負けることを自分で容認できない人は、決して勝負事で上達しないだろうし、そういう人は初めからやらないほうがいいだろう。と言いながら、実は自分がそういう人だったのである。
初めて、囲碁をやったとき、広い十九路盤で、いったいどこに石を置けばいいのか、意味が分からずにダレテしまっていた。はっきり言って途中で飽きてしまうほど、気の長いゲームなのだ。私としては、こういう難解なゲームよりもトランプのほうが好きだった。しかし、今はあまりトランプで遊ぶ人を見ることがない。
しかし、囲碁というのはとんでもないゲームである。ゲームの焦点が一点ではなく、多数、ほとんど無限に近いほどあり、しかも、焦点になった部分では正確な読みと計算が要求される。互いに石を置いていくゲームなので、自分が石を置き、それに対して相手がどういう石を置くのか、その可能性をいくつか検討し、さらにそれに対して自分の対応する手を複数検討し、最適なものを考えながら、ゲームを続けていかなければならない。そこで、ある一つの焦点について、考えられる限りの手を検討し、それに対する相手の手を可能な限り予想し、という具合に考えに考えてくたくたになってから、石を置くと、相手はそれについて予想もしなかった手を返してくることもあるし、もっと頭に来るのは、全然、別の焦点の部分に石を打ってくる場合だ。思考力の限界まで(相当貧弱な思考力だが)考えて、手を選んだ結果が、別の焦点になる部分でさらに問題を提起されると、もう自分にはその局面を検討する力が残っていないか、とにかく新たな焦点の、しかもその焦点は元の焦点を代替するものではなく、並立し、あるいは微妙に、迂遠に、あるいは近接に関連しているのである。
こういうゲームを面白いと思えるほど、今までの私には知的能力が豊富でなかった、知的水準が高尚でなかった、あるいは忍耐力がかけていたのである。
しかし、それでもなぜ囲碁をやってきたのだろうか。暇なときに、今はインターネットで簡単に囲碁ができるので、便利だからだが、ある意味では一種の見栄である。昔の中国の紳士、君子というか、知識人は、囲碁のたしなみがあったようだ。落語でも、ちょっと高級なご隠居さんとか、浪人は囲碁を楽しむものだ。囲碁が出てくる落語としては、笠碁はそのまんまだが、文七元結(もっとい)、柳田格之進などでも囲碁は実に渋いところで話の重要な要因になっている。
というわけなのだが、これまでの、愚かな自分の囲碁との付き合い方を恥じて、今後はもっとまともに囲碁と友達になっていきたい。囲碁は長い友達になってくれそうな気がするし、そう期待する。