春日太一『あかんやつら-東映京都撮影所血風録』は、戦後の日本の映画界をリードしてきた東映の動向を内側からの入念なきわどい取材をもとに書かれた話題作。本書は東映京都撮影所で映画を製作していた人々を「あかんやつ」と形容しているが、この言葉はオマージュで、決してだめなやつらという意味ではない。中には、映画制作の事情で暴力団と仲良くなりすぎて、区別がつかなくなってしまう人とか(警察官にもこういう人種は多いようだ)、日ごろの重労働の鬱憤で、酒を呑んだときに自制心が効かなくなって、大騒ぎをして、一般人に迷惑をかけたり、人権感覚というものがなく、めちゃくちゃな労働やそれ以外の苦痛を働いている男女に課して、映画のためだなどと勘違いしている監督なんかも出てくるが、こういう人は日本のどの会社にもたくさんいるので、特別に映画界にだけ字義通りのあかんやつらが集まっているようにも読めなかった。
本の中盤のあたりに、びっくりするような東映映画が紹介されている。大川橋蔵主演『天草四郎時貞』。監督は「松竹ヌーベルバーグの旗手として新時代を牽引していた」大島渚。その内容は次のようなものだという。
映画では籠城戦は描かれることはなく、うす暗い画面の中、ひたすら観念的な神学論争が展開されたのだ。
当然、この映画は興行的にずっこけて、東映資本には利潤をもたらさなかった。時代劇を量産して利益を上げていた東映が、新たな方向を目指してこういう作品に挑戦したのだろうが、大島渚は商業映画を軽んじていたのだろうし、興行的に成功することを目的に映画を作っていなかったのだろうから、こういう経過はすべて合理的であり、何の不思議もない。大川橋蔵や大友柳太朗が神学論争を展開したというこの映画、どういう映画だったのか。興味は尽きない。DVDも発売されているようなので、いつか購入して見てみたいが、つまらなそうな映画ではある。
ところで、大島渚。この人、映画監督としての評価は高いが、どうなんだろう。代表作は、「愛のコリーダ」、「戦場のメリークリスマス」といったところだろうか。松竹とか、東映で利益優先の会社の方針と戦いながら、低予算の映画を作っていたとき(少なくとも、会社が利益を考慮せずに映画制作をするはずがない)、あるいは独立プロのような環境で自分で資金をかき集めながら映画を製作していた時期の作品は、彼の思うようにならないことが多くて、その分を差し引いて評価しなければならないだろうが、少なくとも「戦場のメリークリスマス」は、相当な制作費を投下して、思うままの映画を撮る環境を確保されていたのではないかと思える。そして、この映画、どうなのだろう。制作費を回収して、利益を得た映画なのだろうか。どこか疑問なのだ。そもそも大島の作品は、制作費を回収できる興行収入を得たものが一つでもあったのだろうか。
かつて、新宿紀伊国屋書店の社長も協力したという「新宿泥棒日記」という作品が話題になったのだが、最近、数年前だろうか、Youtubeかなにかで見ることができたので、期待して鑑賞しようとしたところ、佐藤慶とか、およそ美しいとは言えない俳優が、つまらない議論を延々と展開していて、とても最後まで見ることができるものではなかった。『天草四郎時貞』もあんな感じだろうか。どうもお金を出して見ることには逡巡する。
この『あかんやつら』の登場人物で、字義通りのあかんやつのナンバーワンは、誰か。
鶴田浩二と若山富三郎は映画と現実の区別がつかなくなり、自分の組のようなものを撮影所内に作って抗争したという。大川博は、現場を無視した経営姿勢で、映画制作を圧迫し続けたという。石井輝男は、変態的な異常性愛映画にのめりこんで、泥鰌責めの刑で出演女優の性器に泥鰌を何々した~~。どのかたがたも字義通りのあかんやつの素質はありそうだ。
しかし、これらの人々のあかんぶりはやはり今ひとつ何かが足りない。私の感想では、あかんナンバーワンは、制作費を興行収入で回収するという当たり前の原理を理解できずに、生涯、観念的な映画論の世界から結局出てこなかったように見える大島渚が大川橋蔵たちに神学論争をさせたその瞬間ではないか。などと感じます。