アフリカ大陸 東ルートとアラビア半島 総集編 前編(南アフリカ~ケニア)7,800 km | インベストメントライダーふるさんのブログ Investment rider Seiji Furuhashi travelling around the world by motorcycle

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オートバイで世界を駆け回るインベストメントライダーを目指す個人投資家。
オートバイでのユーラシア大陸横断と南北アメリカ大陸縦断、アフリカ大陸とアラビア半島横断、東南アジア・インド・中近東を走行後、2024年4月~5月オーストラリアツーリング。

アフリカ大陸 東ルートとアラビア半島 総集編 前編(7,800km)2019年8月~10月

 

南アフリカ~ボツワナ~ザンビア~タンザニア~ケニア 

 

南アフリカからボツワナ、ザンビア、ジンバブエ、タンザニア等のアフリカ大陸東側諸国を経由してエジプトへ至る道路ルートをアフリカ東ルートと呼ぶ。

 

南アフリカからエジプトまでの東ルート縦断の道路は舗装道路だと聞いていた。実際工事中の区間の迂回路を除けば、幹線道路はほとんど舗装道路で西ルートよりは走行し易かった。

 

東ルート上の国々には外国でも知れ渡った観光地が多く、英語を公用語とする国も多いため外国人観光客には行き易い地域でもある。

 

南アフリカでの走行距離は3km1ヶ国としては最長であった。見どころも多くオートバイツーリングの楽しさを感じた場所でもあった。

なだらかな丘陵地は開墾され、広い農地が続く。何世代にもわたる開墾だっただろうと初期の開拓者の苦労が脳裏に浮かんだ。

 

農地化するには池や湖あるいは川があり、灌漑を可能とさせる立地条件も必要だろう。内陸部には灌漑がない丘陵地帯もあり、そのような場所は単なる牧草地の用途しかない。

(灌漑設備がある農地)

(灌漑設備が無い牧草地)

 

内陸部のピーターマリッツブルグ(Petermaritzburg)へ向かう途中の山間部の道路が一番怖かった。山間部を走行中に日没となり、あたりが真っ暗闇になった。しかも雨も降ってきた。 寒い。ヘルメットのシールド内が息のため曇り、前方が良く見えない。シールドを開けて走行しても、メガネに雨粒があたり、視界が非常に悪い。

 

頼りになるのはオートバイの前照灯に反射する道路上の反射板の薄光だけだった。雨のため、どこに道があるのかもよくわからず、気が付けば対向車線を走っていることもしばしばあった。雨の山間部を抜け、ピーターマリッツブルグの街の明かりが遠くに見えた時は「助かった」と嬉しさが込み上げてきた。

 

南アフリカ最大の都市ヨハネスブルグは治安が悪い都市だと聞いていて警戒した。街の中心部を避け、郊外の住宅地に宿泊したためか、それほど治安が悪いとは感じなかった。

(ヨハネスブルグの中心部。 元大統領ネルソンマンデラ氏の像)

 

(ヨハネスブルグの中心部)

 

ヨハネスブルグは首都プレトリアと隣接して縦横無尽に走る首都高速道路により大首都圏を形成していた。アフリカで突出する経済の活力を感じた。

 

南アフリカの隣国ボツワナは黒人系住民が中心な豊かな国だった。ダイヤモンド採掘のおかげで豊かだという。乾燥したサバンナの草原には野生動物も生息して、道路脇で初めて野生の象を見た。 

 

人口が2百万人強の国のため内需の拡大は期待できないが、サバンナを農地に変え、輸出用の農作物を作る大規模農業が将来有望だと首都ハバローネにある証券取引所関係者から聞いた。聞いていた通りの広いサバンナが広がる国だった。

(ボツワナのサバンナ。 今にも動物が出てきそうだ。)

 

(道路脇の茂みにいた野生の象)

 

(ボツワナの大規模の農業)

 

ボツワナのカサネの町から国境のザンビエ川を渡ればザンビアだった。ザンビエ川は小さなはしけのようなフェリーに乗り渡った。現在ザンビエ川を渡る大きな橋が建設中だ。近い将来はフェリーを使わず、橋を通過してザンビアへ入国できるだろう。

(国境のザンビエ川をボツワナ側からザンビア側へとフェリーで渡る。)

 

(ザンビエ川に架かる建設中の橋)

 

ザンビアのリビングストーンは世界三大瀑布の一つであるビクトリアの滝を見物するための観光拠点だった。ビクトリアの滝はリビングストーンから10km程度離れたジンバブエとの国境にある。 

 

ビクトリアの滝はジンバブエ側から見たほうが滝全体を見渡せて良い。当方はジンバブエとザンビアの往来が自由なビザ(Kaza Visa)を利用してジンバブエ領に入り、ビクトリアの滝の景色を堪能した。 

(ビクトリアの滝)

 

(乾季のため水が無い部分が多かったビクトリアの滝)

 

ザンビアの首都ルサカでは学生時代の友人を探した。当方がスペイン語の勉強のためマドリッドに留学中に同じ宿舎で知り合ったイギリス人だった。十数年前にルサカへ移住したが、最近は消息が分からなかった。

 

ルサカで友人が勤務していた会社を訪ねたところ、友人の義理の母(友人はザンビアの女性と結婚していた)を紹介され、その義理の母から友人が数年前に家族全員で母国のイギリスに戻ったことを知った。再会できなかったのは残念だったが、友人の消息を知り、電話で話せたことは嬉しかった。

(ザンビアの幹線道路)

 

(ザンビアの首都ルサカのショッピングモール)

 

タンザニアは英語を公用語とするが、住民は日常スワヒリ語を話していた。「ハクナ・マタータ」という言葉をウォルトディズニーの動物アニメで聞き、その言葉だけは覚えていた。その言葉が「ノー・プロブレム」と同じ意味のスワヒリ語だとは知らなかった。

 

この言葉だけでも、役立った。やはり当方のような外国人が同国の言葉を少しでも発すれば、住民との距離はぐっと近くなるし、親近感も持ってくれる。

 

タンザニアから内陸部のルワンダそしてウガンダ経由ケニアへと行くか、それともタンザニアのインド洋に面したダル・エス・サラーム経由ケニアへ行くか迷った。

 

ルワンダは1990年代初頭の内戦で百万人規模の大量虐殺があった国だったが、内戦終了後、経済が急発展したとボツワナで聞いて、同国の訪問を勧められていた。

 

しかしながら、日本外務省はルワンダとタンザニア国境は盗賊が出没する危険地域との見立てだった。

 

危険地域を避けるルートがある以上、敢えて危険地域を通過する必要が無いと思いルアンダ・ウガンダ行きはやめた。またダル・エス・サラーム経由ならルート上の途中にあるアフリカ最高峰のキリマンジェロが見られると思い、ダル・エス・サラーム経由へ進んだ。

(ダル・エス・サラームの街。 路線バスの駅)

 

(ダル・エス・サラームのインド洋に面する海岸)

 

タンザニアでは広大な自然公園に生息する野生動物を見るサファリ・ツアーに参加した。

タランゲレ国立公園(Tarangire National Park)とンゴロンゴロ・クレーター(Ngorongoro Crater)の2か所をサファリ車で回る一泊二日の日程だった。象、キリン、シマウマ等多くの野生動物を至近距離で見ることができたが、外人観光向けツアー料金はぼったくりだと思った。

(タランゲレ国立公園内の水辺に集まる象の群れ)

 

(ンゴロンゴロ・クレーター内を走るサファリー車)

 

(ンゴロンゴロ・クレーター内の野生動物)

 

国立公園で野生動物に見るより、一般道をオートバイで走行中に思いがけず野生動物(象とキリン)と遭遇した時の方が感激した。

(タンザニアとケニアの国境付近の道路で見かけた野生のキリン)

 

ケニアの首都ナイロビでは東ルートの更なる進行を諦めかけた。在ナイロビアのエチオピア大使館で同国ビザ取得がかなわなかったからである。

 

しかしながら、日本人のオートバイライダーがeビザ(インターネット上のウェブサイトで取得するビザ)でエチオピアへ入国したことを知り、同ライダーに見習ってeビザを取得した。また、エチオピアの次のスーダンのビザも在ナイロビのスーダン大使館で取得した。

 

ナイロビの交通渋滞は酷かった。書類や小荷物を運ぶバイク便は渋滞中の道路を避け、歩道や土手、道路の逆走等交通ルール無視で、躊躇なく先へ進んでいた。当方もバイク便を見習い歩道を走ったりしたが、逆走だけはまねなかった。

 

ケニアもタンザニア同様にスワヒリ語と英語を公用語としていた。ケニアとタンザニアは兄弟のような関係で、人々の往来も多い。やはり言葉が同じなことが経済発展につながっているようだ。

 

ケニア北部ではまだ雨季が終わっておらず、荒涼とした砂漠地帯にも関わらず、突然豪雨に襲われた。

(ケニアの首都なナイロビの中心部)

 

(山と盆地があるケニアの風景)

 

(雨季のため枯れ川にも泥水が流れ、木々が緑の葉を付けていた。)

 

後編に続く