2/16(金) リオバンバ 3泊目 休養
前日痙攣した足の痛みが引かない。足に体重が乗ると痛くて踏ん張れない。
リオバンバに延泊して足の回復を待つことにした。(後日判ったが、痙攣ではなく肉離れだった。)
スケジュールがぎっしり詰まった旅行ではないので、こんな時は楽だ。
休養といってのんびりしているわけにはいかない。ブログとフェースブックの更新をするタイミングだからだ。
ブログとフェースブックの更新で午後まで時間を費やす。
まだ、リオバンバの旧市街は見ていない。宿から旧市街の中心まで約1.2kmの距離を足のリハビリを兼ねて散歩する。 旧市街は歴史的な教会や現在は博物館、学校になっている立派な建物が多かった。旧市街の建物は3階~4階建ての高さに統一されているようで景観が整っている。
(リオバンバ旧市街の中心のスクレ広場)
15世紀までイスラム支配下にあったスペイン南部にはアラブ建築の影響が多々残っている。その建築様式を南アメリカへも持ち込んだのだろう。
ペルーもそうであったが、エクアドルでも小太りの若い女性が多い。男の若者は普通の体形だ。若いカップルが手を組んで歩いていると、女性の方が太い場合が多い。 ここでは太っていることが美人の証なのかも知れない。
宿(Hotel Ventura)の経営者の兄(Rowny Pulgar Noboa氏)が教養人だった。昼間は高校で教鞭をとる文学の教師だが、午後は宿の経営を手伝っている。 観光列車の電話予約をしてくれたり、バスターミナルまで当方に同行して案内してくれた。
当方のブログの中のモスクワでの写真で、19世紀のロシアの文豪トルストイ作のアンナ・カレーニナのモデルとされる女性の絵を見せたところ、同氏の口からトルストイの名前がすらすら出てきた「アンナ・カレーニナか?」と言い当てた。 同氏はロシアへは行ったことがない。
同氏に経済的に発展した北アメリカと比較して、何故南アメリカの経済は立ち遅れているか聞いてみた。これは当方が学生時代から抱き続けた問題意識だった。同氏はずばり「この地では法や秩序が遵守されていないのが一番の原因だ」と言い切った。 それは、当方も南米に来てから、ずっと思っていたことだった。
2/17(土) リオバンバ~首都キト(Quito) 194km
(エクアドル~コロンビアの地図)
本日は約200km先の首都キトへ移動するだけのため、気分に余裕がある。前日眠くて書けなかったツーリング日誌を書いたため出発の時刻が遅れた。 遅れても何も支障が出ないのでのんびりと11時に出発。
小雨がパラつく程度の天気だ。気温は14~15度と低い。リオバンバ~首都のキトは標高差がほとんどなく標高約2,800mだ。
この区間の大部分は2車線から3車線の高速道路となっている。ブラジル、チリとアルゼンチンの一部を除き今まで通過した国々の有料道路ではオートバイは無料だったが、リオバンバ~キトの区間めずらしく有料だった。といっても通行料金は安い。3回料金所を通過したが、それぞれ20セント(約25円)だった。
(リオバンバからキトへ向かう片側3車線道路)
エクアドルの一人当たりの国民所得は、ペルーとほとんど横並びの6千米ドル(年間約66万円)だが、道路の状況を見る限りではエクアドルの方が優れているようだ。
山の天気は変わりやすい。首都キトに近い山々が雨で白くなり見えない。数キロ進むと案の定、土砂降りになった。リオバンバから雨具を着て走行して正解だった。途中晴れ間も見えたが、雨具は脱がずに我慢してきた。
南米では「女の涙と山の天気は信じるな」と言う格言がある。まさにその通りだった。
キトの町はオートバイで走り易かった。渋滞も無く、車の運転マナーも悪くない。
ペルーの首都リマやボリビアの首都ラ・パスとは大違いだ。
午後の3時前に宿に到着後、宿の周りを散策した。近所に若者たちが集まるバーやカラオケ等の飲食店が多い。 夜になるとボリュームを上げた音楽が否応なく宿に部屋まで届く。 ガイドブック(地球の歩き方)に従いキトで比較的治安が良いと言われるラ・マリスカル地区に宿をとったが、宿選びに失敗した感がある。
投宿はArupo Bed & Breakfast (一泊14米ドル)
(キトで投宿したホスタル)
2/18(日) キト2泊目 市内観光
やはり前夜はよく眠れなかった。早朝まで近所の音楽バーの音、車のクラクション、大声で叫ぶ若者たちの声で何回も起こされ朝方まで寝付かれなかった。
ホスタル(民宿)の通りに面した当方の部屋の壁は薄く、外の音がそのまま耳に入って来る。
静かな宿に変わろうかと前日Booking.comで目星をつけた近所の宿を見に行くが今の宿と五十歩百歩だ。 金曜日と土曜日の夜は騒がしくなるが、本日は日曜日でほとんどの飲食店は休業するため静かな夜になるとのホスタル側の説明と道路に面していない部屋へ移ることで、同じ宿に留まることにした。
キトの旧市街は見応えがあると聞いていた。片道25セント(約30円)の路線バスに乗り3km程離れた旧市街の中心部へ行く。 路線バスの運転手が信号待ちで停車中ソフトクリームを買い、片手にソフトクリームを持ち、もう一つの手のみで運転をするのではないか。 ソフトクリームを食べながら路線バスを運転する人は初めて見た。
聞いていた通り旧市街の中心部はスペイン植民地時代に建てられた歴史的建物が雰囲気ある景観を作り出していた。
キトはスペインの南米植民地活動の中心となった場所で、キトからリマへと徐々に勢力範囲を南に拡大していったようだ。 贅を尽くして建設された教会の装飾に圧倒される。
(キトの旧市街とバシリカ教会の塔)
(キト旧市街の中心アルマス広場とカテドラル)
(キトの旧市街)
1535年に建立されたサン・フランシスコ教会・修道院はアンデスのエル・エスコリアル宮殿(スペインのマドリッド郊外に所在するスペイン歴代王家が居住したサン・ロレンソ・デ・エル・エスコリアル宮殿・修道院)と称されるほどだとガイドブックに説明されていた。 スペインのエル・エスコリアルを知るが、その通りだと思った。
その反面、インディオ(原住民)は差別をされ続けやっと1990年代に一般市民として
権利を保障されるようになったという歴史があるという。
(サン・フランシスコ教会)
(サン・フランシスコ教会内部)
2/19(月) キト3泊目 赤道記念碑(La Mitad del Mundo)見学
多忙な一日だ。 キト市の北約20kmに位置する赤道記念碑(La Mitad del Mundo)を見物に路線バスを2回乗り継いで行く。エクアドルの路線バスは安い。路線バスは距離に関係なく1回25セント(約30円強)だ。
赤道記念碑はエクアドルで一番観光客が訪れる観光地だというが、大したものがあるわけでない。高さ20m程度の塔と土産店や飲食店がテーマパークような敷地にあるだけだ。
観光客の目的は地上に引いてある赤道の線をまたいで記念写真をとることだ。
18世紀にフランスの観測隊が赤道を観測したが、GPSの発達で実際の赤道は
赤道記念碑の場所ではなく、山の上にあることが分かったという。
(高さ20m位の赤道記念碑)
(赤道記念碑の上から見た敷地。地上の黄色い線が赤道。写真奥の山の上に実際の赤道が通る)
午後にはキトの証券取引所を訪問。アポイントなく訪問するがマーケッティングアナリストの肩書の若手社員が対応してくれた。
キトの証券取引所は取引の9割以上が社債や国債等の債券で占められている。株式は270銘柄強が上場されているが、取引が活発でない。全株式の時価総額は8000億円程度だ。時価総額上位は食品、通信だが、国際的な知名度は無い。銀行の株式が割安に放置されていると言っていたが、説得力がある説明は無かった。
エクアドルは米ドルを通貨として採用するが、2年短期債の利回りが7~8%と言う。
通貨が同一の米国2年国債の利回りが2.3%だから、エクアドルの短期債の利回りはリスク(利払いや元本の支払いが滞る債務不履行に陥るリスク)が高いということになる。
午前中晴れていたが、午後は本降りの雨だ。この時期は雨期のため、日中は晴れても午後や夕方に雨が降る。
本降りの雨の中、前日観覧できなかったラ・コンパニーア教会(Iglesia de la compania)の中を見学した。イエズス会が作った教会。
教会内の壁、天井、祭壇全てが金箔でおおわれ、絢爛豪華な造りになっている。 これほど金ピカな教会は見たことが無かった。 京都の金閣寺とは比較にならない規模の金箔だ。
写真撮影が禁止されているので、内装を知るには実際に見学するしか方法はない。入場料が5米ドル(約550円)と当地の物価では高いが、教会の専属ガイドがマンツーマンで説明してくれたので理解が深まる。一見の価値あり。
(内部が金箔で装飾されたラ・コンパニア教会)
2/20(火) キト~国境の町トウルカン(Tulcan) 237km
キトは観光する場所が多く3泊4日では足らないが、先を急ぎコロンビア国境手前のトウルカン(Tulcan)の町まで来た。キトではコロンビアへ入国するための国境越えの状況が判らない。 旅客が多くて国境通過に時間がかかるのか、国境でコロンビアのオートバイの強制保険(SOAT)の加入が可能か等の情報が無い。
そのためコロンビア国境から10km程離れているトウルカンで一泊後、翌朝国境を通過することにした。
キトからトウルカンへの道はワインディング道路が多かった。片側2車線の立派なワインディングの高速道路があり、オートバイの運転は飽きない。
(キトからトウルカンへの道路。山の上まで開墾されている)
(キトからトウルカン途中の湖)
アンデス山脈の中を通過しているのだが、山々はなだらかな女性的な山だ。山頂まで農地に開墾された山が多く、畑や牧草の緑がパッチワークの様に見える。
国境の町は往々にしてひなびた場末の町が多いが、トウルカンの町は賑わっていた。
投宿はHotel Lumar(一泊19.80ドル)
エクアドルの4都市で投宿したホテルは全て(4軒)宿泊代にかかる付加価値税(VAT)12%を当初請求してきたが、当方が「非居住者外国人は宿泊代に関わるVATは法律により免税になっている」と強く主張すると、全てのホテルは請求を引っ込めた。
やはり、言うべきことは強く主張しないと損をすることになる。
(トウルカンの旧市街)
2/21(水) トウルカン~コロンビア入国~ポパヤン(Popayan) 334km
コロンビア入国への国境越えのため午前8:15にトウルカンのホテルを出発。国境があるルミチャカ(Rumichaca)はトウルカンから約10km程北に位置する。前日投宿したホテルのスタッフからはエクアドルからの出国者は少ないので、イミグレーションの手続きには時間がかからないと聞いていた。
エクアドルの出国入国管理事務所(イミグレーション)の前には300名ほどの人たちが順番待ちをしていた。 陸路で出入国の場合は空港での出国・入国と事情が異なり、出国する人も入国する人も同じ事務所で手続きをする。
従って、出国する人が少なくても、入国する人が多ければ列に並ぶ人が多くなり、手続きに時間がかかる。
事務所入り口で「日本からのバイクでの旅行者だが手続きを教えてほしい」と入口を管理している係官に尋ねると「列の最後に並べ」と そっけなく言われた。300名程の列の最後に並んだら、手続きに2時間~3時間かかりそうだ。
しばらく列の最後にに並んだ後、列の先端へ再度行き入口の係官に「手続きが速くならないか」と聞くと係官は順番待ちの列を飛び越え、イミグレーション審査の窓口の前に並べと当方へ指示してくれる。順番待ちをしている人には悪いが、助かった。
国境では闇の両替商やコロンビアの自賠責保険(SOAT)販売者が旅客に声をかけてくる。当方はここでコロンビアの自賠責保険に加入。保険代は1カ月で23米ドルあるいは6万コロンビアペソだ。
(エクアドル出国の標識。道路上の黄色の手すり部分が国境の橋となり写真奥がコロンビア領)
コロンビアに入国すると入国手続き(イミグレーション)を行なった上、税関でバイクの一時輸入許可書を作成してもらわなければならない。
コロンビア側の入出国管理事務所(イミグレーション)には500名~600名の旅人たちが列を作っている。ベネズエラ人が多い。自国での経済危機と混乱から逃れて他国へ働きに行く途中だ。
(コロンビアのイミグレーション・オフィース前は長蛇の列)
列の最先端まで行き、入り口を管理している係官に「入国手続きを早くできないか」と聞くが、「列に並び順番を待て」としか返答がない。 係官が一瞬考えた後、当方の年齢を聞いて来た。 当方の白髪が目立ったのか、疲れている状況を感じと取ったのか、順番を飛び越して当方を直ぐに入出国管理事務所に入れてくれた。
老けて見えるのは嬉しくないが、このような場合は助かった。本来な半日以上順番待ちをせねばならないところが、今回も30分程度で済んだ。
その後、別の建物でバイクの一時輸入の手続きを行なったが、順番を待つ人はおらず直ぐに一時輸入許可書を作成後、実際にバイクと書類を確認した。10分ぐらいで手続きが終了した。この国境を自家用車で通過する人は多くない。貨物を積んたトラックと国境まで運行する長距離バスは多い。
それでも出国及び入国手続きに2時間強費やした。正直に順番待ちをしていたら、おそらく一日はかかっていたと思う。短時間で済んだのはラッキーだった。
コロンビアに入国すると幹線道路の橋等の要所では迷彩服をまとったコロンビア軍の兵士が小銃を構えて警備をしていた。
日本の外務省の海外危険情報では国境付近と本日宿泊するポパヤン(Popayan)は渡航中止地域に指定されている。 コロンビア政府とゲリラ側が和解合意に至ったが、武装解除に応じないゲリラの一派がまだ存在するという。また、麻薬密輸業者が誘拐等の事件を引き起こしていると言う。
本日の宿泊地のポパヤンは国境から約340km内陸に入った場所にある。全行程が上り坂と下り坂のワインディングの一般道だ。ドレーラーを牽引する大型トラックが多い。 上り坂では大型トラックが遅く後続の車が数珠繋がりになる。
国道が通る山岳地帯の景色は良い。木が生えていない標高3千m級の大きな山が続く。谷は深い。長野県と富山県の間にある黒部峡谷を大きくしたような難所を幹線道路が通っている。 この地形なら政府の監視が行き届かないのも納得できる。
(コロンビア領内の山岳道路)
(コロンビア領内の山岳道路)
(写真では渓谷の迫力が伝わらないが、深い渓谷だ)
平均時速は時速40km~50kmだ。ポパヤンの町の宿に到着したのは暗くなった日没後だった。
投宿はHotel Villa Blanca (宿泊料 52,000コロンビアペソ=約2千円強)
2/22(木) ポパヤン~カリ(Cali) 130km
前夜暗くなって到着したポパヤンの旧市街を午前中散策した。
ポパヤンは標高約1,700mに立地する人口30万人程度の中規模都市だ。2km四方の旧市街は2階~3階建ての赤茶の瓦屋根と白壁の建物に統一された美しい町並みだった。
県庁、警察等の官庁から銀行、薬局、土産店も同じようなコロニアル調の(植民地時代)建物だ。
ポパヤンは日本の旅行ガイドブック(地球の歩き方)には紹介されていない。近隣の国立公園内には温泉もあるという。
(ポパヤンの旧市街中心カルダス広場とカテドラル)
(薬局が入る建物)
(完全武装の警察官)
昼前にポパヤンを出発してカリ(Cali)へ移動する。前日同様ワインディングの道路だ。
静岡県東部の伊豆半島を走っているようなカーブが多い道だ。景色が前日とは違う。 標高1,000mに位置するカリに向けて坂を下る。高い山は無く、開墾された丘に亜熱帯の樹木が群生する景色だ。
(ポパヤンからカリに向かう途中の道路風景)
(標高が低くなってきた周囲の風景)
晴れた天気の気温は30度以上になり蒸し暑い。 山の向こうには暗雲がかかっている。 しばらくするとやはり雨が降り出した。
カリの手前40kmからカリまでは平野のような平坦な盆地だった。やっと片側2車線の高速道路となった。 カリは人口約240万人を擁するコロンビアでは3番目に大きな都市だ。 やはり都市の道路は渋滞して走りにくい。だが、街路樹が多くきれいな町だ。
投宿はHotel Roosevelt Plaza(一泊6万ペソ=約2,500円)