天国へ届け 2022年に亡くなられた漫画家 半世紀に及ぶ神話「超人ロック」他 聖悠紀さん死去 | 20世紀漫画少年記

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『超人ロック』シリーズで知られる聖悠紀(本名・長谷川 清俊)さんが2022年10月30日に肺炎のため亡くなられました。享年72歳でした。

 

 聖悠紀(本名・長谷川 清俊)さんは1949年12月21日生まれ。新潟県新発田市出身。

 

 聖悠紀さんは高校進学後に石森章太郎(石ノ森章太郎)の「マンガ家入門」を読んだことがきっかけとなって漫画家を志すようになり、高校2年の時、貸本屋で借りた『ボーイズライフ』(小学館)に掲載されていた同人会の「作画グループ」会員募集を見て会員となりました。翌年に大学受験を控えた1967年(昭和42年)にグループの肉筆回覧誌への提出作品として送った作品が後に代表作となる『超人ロック』の1作目である「ニンバスと負の世界」で、これにより一挙に会員の注目を集めることとなった。大学に進学すると学業の傍ら漫画にも没頭し、春・夏・冬の休みには当時大阪にあった作画グループの本部に1週間以上も泊まり込んで漫画漬けの生活を送ったという。

 

 余談であるがYOUNGKINGアワーズ・2023年2月号(少年画報社)の「聖悠紀先生55年の歩み」によると、「『超人ロック』第1作が描かれた当時、同人誌といえばガリ版印刷が普通。漫画などに適した印刷(オフセット印刷、コピー機)は一般化していません。そのため<作画グループ>は、作者たちが持ち寄った生原稿をそのまま会員へ送り閲覧する「肉筆回覧誌」という形を取っていました。1969年1月、第2作「超人ロック この宇宙に愛を」が完成。この頃「大阪の同人誌に面白いSF漫画がある」との噂を聞いた萩尾望都さんや竹宮恵子さんがわざわざ尋ねてきて「超人ロック」を読むという逸話が生まれます」と商業誌デビュー前から業界でその才能が知れ渡っていたというエピソードがある。

 

 翌1970年には第3作「超人ロック ジュナンの子」を完成させたが「ジュナンの子」は肉筆回覧誌には収録されず、グループが当時貸本漫画向けに刊行を始めた「作画グループシリーズ」第2弾として発刊され、これにより全国規模でファンを獲得することになった。さらに同人漫画にアンテナを張っていた編集者の目に止まったことがきっかけとなり1971年に「別冊少女コミック」(小学館)にて『うちの兄貴』にて正式にプロデビュー。翌1972年には「週刊少年マガジン」にて『アキラ・ミオ大漂流』、「少女コミック」にて『らぶれたぁ作戦』、「別冊少女コミック」にて『地球はごきげん』を発表。1973年には上京。上京後は主に少女漫画誌で活動していた。

 

 そんな中、『超人ロック』の熱烈なファンの声に押された作画グループ代表のばばよしあき氏の説得もあって1974年に第4作「コズミックゲーム」を発表。しかし、あくまでこれも同人誌としての発表であった。これにより新たなファンを獲得したものの、SF漫画が注目された為かデザインセンスが評価された為か、活動の場を少女漫画からテレビのアニメや特撮ヒーロー番組のコミカライズ作品の執筆へと移す結果となった。ちなみにコミカライズ作品は「電人ザボーガー」「正義のシンボル コンドールマン」「忍者キャプター」「大鉄人17」「怪傑ズバット」「闘将ダイモス」「魔女っ子メグちゃん」「宇宙戦艦ヤマト」「ダイヤモンド・アイ」など多数に及び、特に「忍者キャプター」と「闘将ダイモス」においてはコミカライズだけでなく両作品のキャラクターデザインを担当した。

 

 1977年に『超人ロック』の特集が「月刊OUT」12月号(みのり書房)で組まれ、同誌の別冊「ランデヴー」で「新世界戦隊」が連載された。これが『超人ロック』の初の商業連載で、2年後の1979年に遂に漫画専門誌である「週刊少年キング」(少年画報社)で『超人ロック 炎の虎』連載が開始されることになる。漫画家となるきっかけになった作画グループではその後も活動を続け、多数の会員が集まって一つの漫画を制作する「合作」にも参加していた。

 

 1982年『少年キング』が隔週刊誌『少年KING』としてリニューアル、連載が引き継がれる。1984年には初の公式アニメ化となる劇場版(原作は「魔女の世紀」)が松竹系で公開された。だが1988年に『少年KING』休刊(以降は掲載紙の休刊に伴い掲載紙を転々とすることになる。)。連載は中断されるが、同年に商業出版としては初の単行本描き下ろし「ソリティア」発表。1989年にOVA「超人ロック ロードレオン」発売。1991年OVA「超人ロック 新世界戦隊」発売。

 同年「スコラ」(株式会社スコラ)より『少年キング』および『少年KING』連載分の単行本の新装版を刊行開始。各エピソードを可能な限り年代順に収録し、加筆を施している。以後の単行本は本版を底本としている。同年『月刊OUT』9月号(みのり書房)より『超人ロック 聖者の涙』の連載開始。

 1993年『月刊コミック・バーガー』(スコラ・講談社)にて連載開始。1995年に『月刊OUT』が休刊すると後継誌の『Magazine MEGU』(青磁ビブロス)にて連載開始。1996年、文化放送にて「超人ロック」のラジオドラマが開始。1997年に『Magazine MEGU』(青磁ビブロス)が休刊すると後継誌の季刊誌『マガジンZERO』(ビブロス)にて連載開始。2000年に専門誌『超人ロックSpecial』(ビブロス)刊行開始。同年OVA「超人ロック ミラーリング」発売。

 2003年に『ヤングキングアワーズ』(少年画報社)で連載開始。2006年1月『超人ロックSpecial』休刊。同年3月に初のダウンロード販売として「ライザ」第2話が発表されたが、ビブロスの倒産で中断されることになった。同年6月、『アワーズプラス』(少年画報社)で「ライザ」の連載を再開。同年11月、少年画報社より完全版コミックス(全37巻)を刊行開始。連載当時のカラーページを再現した他、一部のエピソードでは新たに彩色が行われている。2007年『アワーズプラス』が休刊。同年『コミックフラッパー』(メディアファクトリー)にて連載開始。そして『ヤングキングアワーズ』と『コミックフラッパー』が「超人ロック」の最後の掲載紙となった。

 

 2017年11月、聖悠紀さんは慢性副鼻腔炎の手術を受け、術後の経過診断のための診察時に倒れて心停止となった。蘇生に成功するが昏睡状態となり、その後12月に心臓の外科手術を受けた。術後2か月入院し、2018年2月初頭の退院直後に「まだ以前のようには動けない」ことと、とリハビリ中であることを自身のTwitterアカウントにて発表した。当時2誌で連載中の「超人ロック 」(「鏡の檻」と「ガイアの牙」)は5か月間休載となった。

 

 2020年6月、聖悠紀さんがパーキンソン病で闘病中であることが公表された。同年7月、聖悠紀さんの病状の悪化で休載、それまで減ページがちだった『コミックフラッパー』での連載が長期の休載に入る。同年8月、続けて『ヤングキングアワーズ』での連載も長期の休載(結果として絶筆)に入る。

 

 2022年、パーキンソン病により身体機能が低下、10月30日に肺炎を併発して死去した事が12月16日に公表された。

 

 戦後、国内で刊行された漫画雑誌では多くの漫画家がデビューし、そして漫画界から去っていった。それが何千なのか何万なのかは漫画業界の人でも正確な数は把握できないであろう。しかし商業誌デビューする前から業界で注目された漫画家は聖悠紀さんだけだと断言できる。デビュー当初から伝説的な存在であり、そして一つの作品を50年に及び執筆していたその漫画家活動はもはや伝説を超えた神話とも言えるだろう。

 

 惜しむらくは「超人ロック」が完結しなかったことと、長期にわたる連載により作品中の設定に矛盾が生じたことであろう(その為、パラレルワールド扱いになったエピソードもある)。

 

 聖悠紀さんは銀河の彼方へと旅立たれたが、だが聖悠紀さんが残した多くの作品はこれからも多くの人達を楽しませることであろう。

 

 心よりご冥福をお祈りいたします。