矢口高雄さんの数ある功績で何より大きいのが「釣り」という地味なジャンルを漫画の一大人気ジャンルとして定着させたということだろう。
「釣り」自体は狩猟方法として太古から存在し、江戸時代には武士から庶民まで風雅な趣味として定着していたが、漫画ではジャンルとしては定着していなかった。せいぜいが漫画の中で主人公たちが釣りにいくというネタに使われるくらいで、釣り自体が主体の漫画は無かった。
それも当たり前の話で、基本的には釣りは針にエサをつけて糸を垂らして魚が食いつくのを待つ、という極めて地味な物だ。大きなリアクションも無いので漫画の題材にはなり難いし、趣味としては年寄りくさいイメージも強いので少年漫画には不向きだった。
それが『釣りキチ三平』が大ヒットするや、全国の少年たちの間でブームとなり、それまで数も少なかった子供向けの入門書も多数出版され、その入門書も矢口さんが直々に表紙やイラストを担当したことによって更なるヒットとなった。
こうして全国的なブームとなった「釣り」というジャンルは現在で言うアウトドアスポーツとして、そして一大レジャーとして大いに発展していった。そして漫画界においては『釣りキチ三平』のヒット以降、他の少年誌でも「釣り漫画」が掲載されるようになり、「釣り漫画」というジャンルが人気ジャンルとして定着し名作も生まれていった。
その代表的な例が「コロコロコミック」(小学館)で連載されていた『釣りバカ大将』(桜多吾作)
「ビックコミック」(小学館)で連載されていた「土佐の一本釣り」(青柳祐介)
「月刊少年マガジン」(講談社)で連載されていた「Mr.釣りどれん」(とだ勝之)
「コロコロコミック」「ハイパーコロコロ」(小学館)で連載されアニメ化もした「グランダー武蔵」(てしろぎたかし)
などだろう。
もちろん戦後、漫画業界が発展していく過程で様々なジャンルが多岐に渡って確立していく中、「釣り漫画」というジャンルもやがては確立していただろう。だが一つのジャンルが定着した人気ジャンルとなるには「名作」と「大ヒット作」が必要不可欠なのである。
高橋陽一の「キャプテン翼」の大ヒットにより「サッカー漫画」が「スポーツ漫画」の中で一大人気ジャンルとなったように、矢口さんの「釣りキチ三平」無くして、その後の数々の「釣り漫画」のヒットも「釣り漫画専門誌」の誕生もあり得なかった。
振り返ってみると矢口さんの人生は「好きの力」を信じた人生だった。
前回でも触れたが、かつて矢口さんは持ち込み原稿を「ガロ」の編集長に酷評され打ちひしがれていたが、その後、水木しげる先生の仕事場に案内された際に、水木しげる先生にその原稿を絶賛され、涙が溢れてきたという。
この水木しげる先生の言葉が無ければ漫画家・矢口高雄先生は誕生しなかったかもしれない。
そして水木しげる先生の『幸福の七カ条』の「第四条」にはこう書かれている
「好きの力を信じる」
銀行員という安定した職にあり、既に結婚もしていながら、自分の好きな「漫画」の道に進み、自分の好きなジャンルである「釣り」を題材にして、自分の好きなジャンルで自分の好きな漫画界で大成功を収めた矢口高雄さんの人生。まさに「好きの力」を信じた人生だった。
自分の好きなことを仕事にして、それで成功を収めればどれほど素晴らしいことだろう。
だが人間、成功どころか好きなことを仕事にすることすら難しい。否、それが人生なのかもしれない。
しかし矢口さんは「好きの力」を信じた。そして好きなもので幸福を掴んだ。
矢口さんのもう一つの功績。
それは「好きなものを信じる素晴らしさ」を身を持って証明したことではないだろうか。
2021年1月7日 矢口さんの次女、野呂かおるさんのツイートにより、矢口高雄さんの戒名が伝えられた。
本日、父(矢口)の四十九日忌法要を滞りなく相済ませました
— 矢口高雄 (@yaguchi_takao) January 7, 2021
髙雲院漫然彌郷居士
漫画に人生を捧げ、自然とふるさとを愛した父に相応しい戒名をいただきました
(矢口の次女 かおる)#矢口高雄 #釣りキチ三平 pic.twitter.com/ajQ0R2HZRT
https://twitter.com/yaguchi_takao/status/1347138580250988545
私事になるが、私は東京生まれで殆ど東京の住宅地で育ち、父も東京生まれで東京育ち、母方も神戸の生まれでどちらかと言うと都会っ子なので、私にはいわゆる「田舎」というものが無かった。子供の頃は夏休みになると「田舎に行く」という友達がうらやましかった。
そんな私でも矢口高雄さんの作品を読んでいるとそこが自分の故郷のように感じた。
私自身は釣りを趣味にすることは無かった。しかし矢口高雄さんの作品は私にとって「心の故郷」だった。
この場を借りて矢口高雄先生に厚く御礼を申し上げます。
ありがとうございました。
「漫画」「釣り」「自然」「故郷」そして「人間」を愛した矢口高雄先生のご冥福を心よりお祈りいたします。