東京都荒川区の超高層マンションで起きた凄惨な殺人事件。
殺されたのは「誰」で「誰」が殺人者だったのか。
そもそも事件はなぜ起こったのか。
事件の前には何があり、後には何が残ったのか。
ノンフィクションの手法を使って心の闇を抉る宮部みゆきの最高傑作。

本作はルポタージュの形式で、東京都荒川区の超高層マンションで起きた凄惨な殺人事件について描いている。
そのルポタージュの形式があまりに本格的なものなので、初めて読んだとき最初の数十ページはこれはノンフィクションなのかと思ったほどだ。
但し、ルポを執筆しているライター(またはインタビュアー)は、名前もわからないしキャラクターも一切紹介されない。
一人称を顔が分からない男(男かどうかもわからないけれど)にすることで登場人物たちに焦点を当てている。
構造としては、事件の被害者・加害者・遺族・関係者の生い立ちや人物を丹念に描き込むという点で「模倣犯」と共通しているが、「模倣犯」における前畑滋子をつくらなかったことで、むしろリアルに事件を描くことに成功している。
事件そのものはそれほど大したものではない。
超高層マンションの一室で、中年の男女と老母が刺殺死体で発見され、マンションの窓の下では若い男が墜落死している。起こる事件はただこれだけ。
もちろん一般社会では大ニュースかもしれないが、本格推理の世界では半ダースにも満たない程度の死体はまったく珍しくもない。
状況そのものも密室になっているわけでもないし、奇妙なダイイングメッセージがあるわけでもないから、特に興味も惹かれない。
被害者は実は持ち主の小糸一家ではなく、競売にかけられていたその部屋を不当に占有していた占有屋たち。
さらに言えばその占有屋たちは家族などではなく、まったくの赤の他人だということが、物語が進むにつれてわかってくる。
そういう意味では厳密なカテゴリ分けをすれば、本作は推理小説ではない。
事後のルポタージュという形式で書かれているから、そこに登場してくる人物たちは皆、事件後も生きてちゃんと生活をしているのだということは予めわかってしまう。
では本作には謎など何もないのかと言えばそうではない。
本作の謎はまさにタイトルが示す通り「理由」なのだと思う。
なぜそんなことになってしまったのか。
このルポタージュはそれを探るために書かれている。
本作に登場する人々は意外なことに不快な人物が少ない。
そもそもの事件の発端を作った小糸夫妻にしても、ちょっと分不相応な暮らしをしてしまった無計画な夫婦というだけで、別段、何か悪いことをしたわけでもない。
もちろん占有を頼んで競売にかかったマンションを取り戻そうとしたことは良くないことではあるけれど。
占有屋の四人にしても、殺人犯である八代を除いては、ただちょっと平穏な人生のレールから少しはみ出してしまったというだけで(老婆にいたって単なる被害者だし)殺されるようなことはまったくしていない。
八代を殺してしまった綾子もちょっと愚かであるのは事実だけれど、恋に狂ってしまった若い女の子にそれを言っても始まらない。それほど珍しい種類の過ちではないのだから。
競売物件に手を出したために、事件に巻き込まれて逃げ回る羽目になった石田とその家族にいたっては何ひとつ責めるところはない。
家族の気持ちがちょっとすれ違い、誤解を生み、意固地になってしまっただけのことだ。
世の中の多くの家族の中でこの程度の軋轢はいくらでもある。
ただ、石田の場合はかなり不運だっただけにすぎない。
八代を除いては、誰も悪くないように思えるのにどうしてこんなことになってしまうのか。
その「理由」こそが本作の最大の謎なのだろう。
僕はその答えは「家族だから」だと思う。信子の母親がこう言う。
「ね、失敗だったんだね、砂川さんたちって」
母は飲み終えたココアのカップを持って立ち上がった。そして、小声で言った。「帰る場所も行くところもないってことと、自由ってことは、全然別だと思うけどね」
登場人物の多くの人々に帰る家族があった。
占有屋をしていた砂川など母親も妻も、失踪した彼のことを気にかけていた。
にもかかわらず、彼らは帰らなかった。
家族だからこそに生まれてしまう軋轢、家族だからこそに抱く憎しみや苦しみがあるということは僕も知っている。
だけれど、やっぱり最後に帰る場所は家族のところしかないのだろう。
石田が逃亡生活にピリオドを打つことに決めたのも、父親の身を心配してビニール傘をしっかと構える信子の一生懸命な姿を見たからだと言うではないか。
そして…唯一、ほとんど家族のことが語られず、帰る場所がなかった八代が殺人犯であったという事実が、そのことを逆説的に証明しているように思える。
そのことを描くために、宮部みゆきさんは一人一人の家族にまでスポットを当てて、一見無関係とも思えるサブストーリーを細かく描写したのだと思う。
このミヤベさん特有の描写を「冗長である」「関係ない人物の描写が細かすぎる」「無駄が多い」という評価があることも知っているが、これは必要なことなのだ。
この細かい描写の積み重ねが物語を骨太なものにする。
(ただしこれを凡百の作家がやると駄作になる。ミヤベさんのストーリーテーリングのセンスがあってこそ、成立するのだ)
本作は直木賞受賞作品である。
僕は本作がミヤベさんのベストワンだとは思わない。
もっと面白い作品がたくさんあると思っているけれど、直木賞はタイミングがすべてなので仕方ないし、本作だって十分にその資格はある。