山深き寒村で、大学生の種田静馬は、少女の首切り事件に巻き込まれる。
犯人と疑われた静馬を見事な推理で救ったのは、隻眼の少女探偵・御陵みかげ。
静馬はみかげとともに連続殺人事件を解決するが、18年後に再び惨劇が…。
日本推理作家協会賞と本格ミステリ大賞をダブル受賞した、超絶ミステリの決定版。
後期クイーン問題をご存知ですか?
第一の問題として、
「作中で探偵が最終的に提示した解決が、本当に真の解決かどうか作中では証明できないこと」についてである。
つまり“推理小説の中”という閉じられた世界の内側では、どんなに緻密に論理を組み立てたとしても、探偵が真相を推理することはできない。
なぜなら、探偵に与えられた手がかりが完全で全て揃っている、あるいはその中に偽の手がかりが混ざっていないという保証ができない、つまり、「探偵の知らない情報が存在する(かもしれない)ことを探偵は察知できない」からである。
また「偽の手がかり」の問題は、いわゆる「操り」とも結び付く。すなわち、探偵が論理によって「犯人」を突き止めたとしても、その犯人、そして探偵が、より上位の「犯人」による想定の中で動いている可能性はつねに存在する。
これは犯人から自白が得られたとしても同様である。このようにメタ犯人、メタ・メタ犯人、……を想定することで、推理のメタレベルが無限に積み上がっていく(無限階梯化)恐れが生じることがある。
(Wikipediaより抜粋)
端的に言えば、
「その手がかりが犯人の罠ではないという保証はないだろう?」
「見つけられていない手がかりはないの? それが見つかったら真相が逆転するとか?」
「犯人が自白したとしても、それが誰かを庇っていないとはいえないよな?」
ということです。
ミステリでは、推理はあくまで蓋然性が高いものを取捨選択するしかないという前提で、
論理的な破綻がなければそれが「解」とされてしまう傾向があります。
でも、論理的に整合性があるということは、そのまま「真実である」ということには直結しません。
余詰めをすべて潰し切ることは不可能だし、
仮に潰し切ったとしても、発見されていない手がかりの可能性がある以上、
余詰めは基本的には無限大になります。
※このあたりからねたばらしが入ります。未読の方は回れ右!
たとえば、本作でも、
「台の裏側に焼け焦げができている」 ⇒
「ライターを使用して暗がりで何かを探したと推測できる」 ⇒
「煙草を吸う人間が犯人」 ⇒
「傍に懐中電灯があるのに何故?」 ⇒
「懐中電灯に気づけなかったのは見えなかったから」 ⇒
「落としたのは眼鏡。だから懐中電灯に気がつけなかった」 ⇒
「眼鏡をしている人間が犯人」
よって、「煙草を吸って眼鏡をしている人間が犯人」という結論が導き出されていますが、
「ただ単に慌てていたから懐中電灯を見落とした」という可能性もゼロではないし、
「視力は悪くないから裸眼なのだけれど、鳥目だったので見えなかった」というのはない?
要するに、論理をいくら積み重ねたところで、
真実を完全に見抜くことはできず、探偵は万能ではないということなんですよね。
僕なんかは、そんなこと言ったらミステリなんて成り立たないだろうと思うのですが、
本作はその問題に真っ向から挑んだ作品です。
偽の手がかりで犯人が探偵をミスリードするという構図が展開されます。
ただし、それだけで終わらないのが麻耶雄嵩の麻耶雄嵩たるゆえん。
なんと、偽の手がかりで真相をミスリードしている犯人=探偵なのです。
つまりは、その操りの構図が自作自演だったということ。
偽の手がかりに翻弄されて、
まったくの無実の人間を告発し、
その間隙をつかれて連続殺人を完遂され、
あまつさえ自分の父親も殺人に巻き込まれるという悲劇に直面した探偵の苦悩というドラマが、
まったく別の顔を見せるところが本作の肝ですね。
「偽の手がかりと本物の手がかりをいかにして論理的に峻別するか」という命題に挑むことで、
後期クイーン問題に対してアプローチしているだけでも十分に魅力的なのですが、
そこにもうひとつドラマを乗せてくるところが、麻耶雄嵩なんですよね。
腹話術とかオコジョとか、トリックそのものは力業すぎて脱力しますが、
本作はミステリの内容そのものというより、
内包されたテーマと実験的な試みに眼目があるのではないかと思います。
あ、それから。
ツンデレ美少女探偵にも(笑)