1996年夏のアトランタ。サッカー日本代表は28年ぶりの五輪出場を果たしただけでなく、その初戦でブラジル相手に奇跡的な勝利をあげ日本中を沸かせた。躍進の陰で矛盾と亀裂を抱えたチームはナイジェリア戦のハーフタイムでとうとう崩壊した。
今読むと、隔世の感がありますね。
この当時はオリンピックに出場することが「悲願」でした。
なにしろ、28年ぶりのオリンピック出場なんですから。
今は出るのは当たり前。
前回の関塚ジャパンはベスト4まで進出し、メダルまであと一歩のところまできました。
でも、変わらないこともあります。
当時も今も、ブラジルに勝ったら大金星。
フル代表だろうが世代別だろうが、日本がブラジルを倒すなんて考えられません。
まして、このときのブラジルときたら、
ジダ、ゼ・マリア、ロベルト・カルロス、フラビオ・コンセイソン、ジュニーニョ…
という錚々たるU-23組に加えて、
オーバーエイジとしてアウダイール、リバウド、ベベトの3人が入り、
ほとんどそのままA代表と言っても差し支えないほどのメンバーが揃っていたのですから。
フル代表が戦っても、おそらくチンチンにされるであろうメンバーですよね。
そのブラジルに日本は勝ってしまった。
にもかかわらず、日本はグループリーグで敗退をする。
若き日本代表にそのとき何が起きていたのか。
激動の物語なのである。
「(中略)あかん、これでオリンピックには間に合わへんって思った瞬間、芝、殴ってました。殴りながら、神さまおるんか、俺、何かしましたかって叫んでました」
(小倉隆史)
日本のレフティーモンスター、小倉隆史の突然の怪我。
今でも僕はこのときの怪我がなければなあと思います。
オグがいればオリンピック代表の精神的崩壊は防げたかもしれないし、
その後のフル代表のFWの系譜も変わっていたかもしれないのですから。
「攻めるには、自分たちがボールを持ってなきゃいけないワケだろ。
じゃあ、ブラジルからどうやってボールを奪うか。
一番確率が高いのは、こっちの陣内に引きずり込んで、人数で奪うことだと俺は思った。
守るために引いたんじゃない。攻めるために引いたんだ。
それを消極的だっていうんなら、積極的なサッカーってどんなもんなのか、それがブラジル相手に通用するものなのか、そこまで考えてるのかって言いたかったね」
(西野朗)
攻撃的であることが積極的であり、
守備的であることが消極的であるという短絡的な考え方はあまりにも未成熟。
サッカー大国ではそんな考え方はしません。
「(前略)俺にとって、驚きは1点取ったことじゃない。1点も取られなかったことだったんだ」
(西野朗)
サッカーをやっている人間なら誰でもこのセリフには肯くでしょう。
得点にはマグレも奇跡もラッキーもある。
たとえ絶対的な実力差があったとしても大量失点覚悟で捨て身のバンザイアタックを仕掛ければ、
九十分で一点くらいは何とかなる。
しかし、守備にマグレはない。
幸運だけで守り抜くには九十分という時間は長すぎる。
にもかかわらず、日本はブラジルを完封したのです。
「僕が人生の中で一番衝撃を受けたのは、93年のアンダー17世界選手権の前に、ナイジェリアと練習試合をやった時だったんです。
とにかく身体能力がすごい。
これは僕らがどうやったって歯のたつ相手じゃないって感じでした。
それがアトランタで当たってみたら、彼ら、ほとんど伸びてない。(後略)」
(中田英寿)
「意識のギャップっていうか、目的の違いみたいなものをすごく感じましたね。僕だけじゃなく、アトランタを経験している選手たちは、もうワールドカップ予選は勝つのが当たり前だし、すでに本大会の方に目が行ってる部分はあると思うんですよ。(後略)」
(城彰二)
前者はアトランタ五輪でナイジェリア戦を終えた後の中田の感想で、
後者は五輪後のW杯予選での城の感想です。
中田はナイジェリア相手に自分なら対等に戦えると思っており、
更に自分の仲間達だって十分通用すると思っていたわけです。
だから自陣に引きまくる選手達と西野に対して苛立っていた。
それに同意していたのは唯一、中田とともにワールドユースを経験していた松田だけでした。
経験というのはとても大きいのだとつくづく思いますね。
世界のトップレベルに一度触れていた中田や松田は決してナイジェリアに臆することはなかった。
しかし、西野も他の選手も初めて体験するアフリカンの身体能力の凄さに圧倒されていたのだ。
だがその経験を得た城は、今度はW杯予選でアジア諸国相手にギリギリの勝負をする仲間達に違和感を覚えることになる。
そこで初めて城たちは中田の言葉の真意を知ったのではないでしょうか。