「さよなら渓谷」 吉田修一 新潮社 ★★★☆ | 水底の本棚

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しがない書店員である僕が、
日々読んだ本の紹介や感想を徒然なるままに書いていきます。

書店のオシゴトの様子なんかも時々は。
本好きの方、ぜひのぞいてみてください。

緑豊かな桂川渓谷で起こった、幼児殺害事件。

実母の立花里美が容疑者に浮かぶや、全国の好奇の視線が、人気ない市営住宅に注がれた。

そんな中、現場取材を続ける週刊誌記者の渡辺は、里美の隣家に妻とふたりで暮らす尾崎俊介に、集団レイプの加害者の過去があることをつかみ、事件は新たな闇へと開かれた。

呪わしい過去が結んだ男女の罪と償いを通して、極限の愛を問う渾身の傑作長編。


さよなら渓谷 (新潮文庫)



物語は、幼児殺人事件で幕を開ける。


母親が容疑者として逮捕された。


救いようがない悲惨な事件だが、不謹慎を承知で言えば、よくある話でもある。


夕方のニュースで数分報道されて終わり。


その程度の事件でしかない。



だが、物語はこの後、意外な展開を見せる。


逮捕された母親が隣人の尾崎俊介と不倫の関係にあり、子供の殺害を教唆されたと証言。


驚いたのは、さらに俊介の内縁の妻であるかなこがその不倫の関係を肯定したこと。



そこから物語は思いもよらない方向に動き出す。




※ここからねたばらしが入ります。






俊介はかつて大学野球部に在籍していたころ、女子高生を集団レイプし実刑判決を受けたが、


執行猶予がつき、服役はせず、その後、先輩の伝手で証券会社に就職し、まともな生活を送っていた。


一方、被害者である水谷夏美は、事件の影響で決して幸せとは呼べない人生を送っていた。


事件が引き金となり両親が離婚してしまったり、


事件のことが周囲に知られ、婚約者とうまくいかなくなったり、


やっと結婚相手が見つかってもその相手がDV夫だったり……。


あげく夏美はすべてを捨てて失踪してしまう。



俊介は犯罪者であるにもかかわらず、周囲から許される。


事件が周囲にばれてしまっても、笑い話や武勇伝として語られる。



一方で、被害者であるはずの夏美は周囲に許されない。


何人もの男たちに強姦された穢れた女として、周囲は夏美のことを見る。



どう考えたっておかしいのだが、夏美は誰にも許してもらえない。


友人にも親にも婚約者にも夫にも。


誰もが、夏美のことを「強姦された女」として見る。



この対比が物語を複雑かつ深いものにしていく。


加害者が許され、被害者が責められる。


でも加害者は自分は許されていいのかと悩むし、被害者はなぜ自分が、と思い悩む。


この逆転の構図が倒錯した関係を生み出した。





夏美は逃げ出した。


自分を責める人間がいない場所を求めて。


逃げ出したとき、夏美が想像していたその「場所」とは「死」だっただろう。



でも、偶然にも再会してしまったのだ。


自分を決して責めることのない人間、過去を隠して取り繕う必要のない唯一の人間、俊介と。



かなこ=夏美であることは、物語の序盤から想像はつく。


失踪した女性と、出自が不明の女性が物語に登場すれば、同一人物であることは明らかだ。



でも、「そんな馬鹿な」という思いが先に立ち、それを信じられずに読み進めていった。


強姦の加害者と被害者が夫婦のように、寄り添い、暮らしているなんてことがあるとは思えなかった。



だが。


夏美が唯一、心を許せる相手は確かに俊介しかいないのかもしれないとも思った。


逆に周りが誰も自分を責めないことに悩んでいた俊介もまた、自分を罵倒し責めてくれる夏美の傍にいて、むしろほっとしたのかもしれない。



それは、決して健全な関係ではない。


そんな関係が長続きするとも思えないし、平穏であたたかな暮らしが築けるとも思えない。



でも、それでも二人は一緒にいたのだ。



最後に夏美は俊介のもとを離れていく。


倖せになってしまいそうな自分たちが許せなかったから。


自分を不幸にした男を地獄の道連れにしたくて傍にいたのに、そうでなくなりそうだったから。



倖せになってはいけないのか、という問いに対し俊介は、無理だと答える。



確かにそうなのかもしれない。


でも、僕にはとても印象的だったのが、夏美がふざけて俊介の指をセロテープでとめる場面。


何気ない日常の一コマ。


夫婦の無邪気で他愛のないじゃれ合い。


そんなことができる二人が、幸せになれないなんて思えない。


そのとき笑っていた夏美の顔が(小説だから見えるはずもないのに)とても良かったから。



二人の間には「憎しみ」と「償い」以外のものが、生まれていたと思う。


だから、もしも二人がそれを認めることができたなら。


きっと生まれ変われるような気がしてしまうのは、僕が男だからだろうか。