家族を殺されたら、あなたは犯人に何を望みますか。
別れた妻が殺された。
もし、あのとき離婚していなければ、私はまた、遺族になるところだった──。
東野圭吾にしか書けない圧倒的な密度と、予想もつかない展開。
私たちはまた、答えの出ない問いに立ち尽くす。
※冒頭から強烈にねたばらしが入りますので、未読の方は戻ってください。
「あの時、主人に出会っていなければ、あたしは間違いなく死んでいました。
息子も生まれてはきませんでした。
主人は二十一年前に一つの命を奪ったかもしれません。
でもそのかわりに二つの命を救いました。
そして、医師として多くの命を救い続けています。
主人のおかげで、どれだけ多くの難病を抱えた子供たちが助かっているか、あなたは御存じですか。
身を削り、小さな命を救おうとしているんです。
それも主人は何の償いもしていないといえますか。
刑務所に入れられながらも反省しない人間など、いくらでもいます。
そんな人間が背負う十字架なんか、虚ろなものかもしれません。
でも主人が背負ってきた十字架は、決してそんなものじゃない。
重い重い、とても重い十字架です。
中原さん、かつてお子様を殺された御遺族としてお答えください。
ただ刑務所で過ごすのと、主人のような生き方と、どちらのほうが真の償いだと思いますか」
この疑問に対する答えは実際、簡単ではない。
僕は短絡的だし、正論好きだし、杓子定規な人間だから、
どれだけ反省しようと贖罪をしようと、法治国家においてルールを破った人間は、
ルールに基づいた罰を受けるべきなのだ、と言ってしまうかもしれない。
でも、そんな僕でも実際は「それが正解なのかな?」と心のどっかで思っている。
答えはおそらくでない。
加害者、加害者の家族、被害者遺族……立場が違えば意見が変わってくるのは当然だ。
物語の登場人物たちも、誰一人、正解にはたどり着けずにいるし、
そもそも正解があるような問題でもない。
そういう意味で、いろいろ考えさせられる作品だと思う。
ただし。
ひとつ苦言を呈するのならば。
小説は社会的な問題提起をするためのものなのだろうか。
死刑制度の是非を問いたいのであれば、論文を書けばいい。
実際は、東野圭吾がそれをする必要もない。
多くの専門家がそれを考えていることだろう。
小説はどんなテーマを扱っていようとも、小説として面白くなければ意味がない。
読者に、「うーん」と考え込ませるだけのものであるならば、
それは小説として失敗ではないだろうか。
小説としてまったく面白くないと言うわけではない。
ストーリーは起伏があって、キャラクターも結構良く描けていると思う。
大きな瑕疵もなく、よくまとまっている。
だが、あまりにも平凡でありきたりでフツーだ。
「よくまとまっている」は決してほめ言葉ではない。
感想としてどうしても「死刑制度の是非」や「罪と罰」の方が先にきてしまうのが、その証拠だ。
物語が平凡すぎて、テーマに押し潰されている。
相手が東野圭吾でなければ、ここまで言わない。
たとえば「容疑者Xの献身」がヒットしたのは、「無償の愛」という内包されたテーマが優れていたからか?
そのテーマをしっかりと読者に伝え、考えさせたからか?
いや違う。
テーマ云々以前に、「容疑者Xの献身」は本格ミステリとして面白かったから売れたのだ。
そういう作品が東野圭吾には書けると思うし、それが求められているのだと思う。