「覆面作家は二人いる」 北村薫 角川書店 ★★★★☆ | 水底の本棚

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しがない書店員である僕が、
日々読んだ本の紹介や感想を徒然なるままに書いていきます。

書店のオシゴトの様子なんかも時々は。
本好きの方、ぜひのぞいてみてください。

姓は「覆面」名は「作家」、本名は新妻千秋。
天国的な美貌を持つ弱冠19歳の新人がミステリ界にデビューした。
しかも、その正体は大富豪の御令嬢…ところが千秋さんには誰もが驚く、もう一つの顔があったのだ。






北村薫さんはおそらく僕にとって最高の作家の一人だ。
「好きな作家は?」と問われたら、たぶん僕は北村薫さんか宮部みゆきさん、もしくは有栖川有栖さんあたりの名前を挙げる。

にもかかわらず、この一冊は購入してから読み始めるまでえらく長い時間がかかった覚えがある。ずっと長らく積ん読になっていた
本来なら買ったその日に読み終わるのが当たり前なのに。

なにしろタッチが全然違った
この当時、「私」と円紫師匠のシリーズしか読んでいなかった僕としては、まことにショックを受けた。こんな軽い文章のミステリも書くのか!

さらにその内容がものすごい。
探偵役は掛け出しの作家にして大富豪、そして世界標準の美貌の持ち主であるお嬢様・新妻千秋さん。
しかし、この千秋さん、屋敷の中では深窓の令嬢なのだが、一歩、外に出ると全てが豹変。
活動的で粗暴な性格になってしまうという…なんともSFチックな設定なのだ。
この北村薫さんの遊び心についていけなかった僕としては、かなりの抵抗があったのだが、それでも仕方なく読んでみると、これがまた、やはり北村薫さんは北村薫さんだなあ、と思わされるのである。

もちろん本作が「私」と円紫師匠のシリーズや、時と人の三部作に比べて、かなりお遊びの要素が高いことは否めない。
それでも嬉しいことに北村薫さんらしさは全く損なわれていないのだ。

人の心を優しくすくいあげるような千秋さんの推理と、それを見守る良介の人柄。二重人格の覆面作家が探偵役という破天荒な設定もいつの間にか自然に馴染んでしまうという、まさに北村マジック!

思えば北村薫さんは「私」と円紫師匠のシリーズの世界では表現しづらい物語を、覆面作家探偵によって実現したのではないかと思う。
だから、やっぱり根っこは同じところにあるのではないかなあと、そんな風に考えた。

※ここからはねたばらし感想です。




「覆面作家のクリスマス」
は、千秋さん初登場の物語。
とにかく設定の奇妙さに驚かされながら読んだ。

  「(前略)フェルメールだって、隣にあなたがいたら、あなたに向かって絵の話くらいするだろう。でもフェルメールはフェルメールだけど、あなたはあなたでしかないんだ。片方は千年経っても残るけど、あんたの絵なんか五年経ったら覚えてる人は一人もいないんだ。(後略)」


 この言葉を叩きつけられた少女の気持ちを想像すると、背筋が寒くなる。
その通りかもしれない、でも、同じ美の奉仕者として言ってはいけない言葉だろう。
けれど千秋さんは次のように言うのだ。

「―美良さんはね、自分のことを言ってたんだと思うよ」
本堂さんは目を見開き、絵のような千秋さんの顔を見詰めた。千秋さんは枯野を渡る風のような声で続けた。
「恐かったんじゃないかな、とっても」


「眠る覆面作家」
では、兄の優介と千秋さんが初めて出会う。
出会いはかなり悪印象(?)
水族館で、誘拐犯人を待ち伏せていた優介兄貴が、千秋を誘拐犯と勘違いし、(千秋さんも優介を良介と勘違いしているのだが)投げ飛ばされるという一幕が、優介には大変失礼だが、とても愉快だ。

「そうは思わない。思えるような奴が相手だったら、こんなことして試そうなんて思わないよ。―何も知らない人にいい加減なこと、いってもらいたくないわ」
千秋さんは、たまらないほど寂しい声でいった。
「結論が決まっているんだったら、試す必要なんかないじゃないか」


継母の人間性を試すために妹をつかって狂言誘拐を企てた少女。
少女の言い草云々ではなく、千秋さんには、そのこと自体がもう哀しかったのではないだろうか。

「だったら、あんた、お医者さんがもうからなくなったらいけないから、死ぬような病気でもそのままでいたいと思う? 警察の人の仕事がなくなると大変だから、人殺しはあった方がいい? 掃除する人の仕事が減ったらいけないから、駅に空き缶捨ててもいいの? そんなのって、絶対におかしいじゃない。病気だって、人殺しだって、ごみの投げ捨てだって、ない方がいいのに決まっている。でも、でもね、哀しいことにそれがあるんだ。なくならないんだよ。だから、いろんな人達がその哀しさに立ち向かっているんじゃないか。そうだろう。それなのに、そんないい方するなんて、許せるわけないよ」

「覆面作家は二人いる」では、さすが落語好きの北村薫さんだなあ、というシーンがあり、思わず笑ってしまいました。

「男と喧嘩が出来なくって、こんなところで自分より弱いのを探してるのか。テメーなんぞ、小学校で泣かされて、子供の時も泣かされて、赤ん坊の時も隣の赤ん坊にぶたれて泣いていやがったんだろう。それが哀しくって、今頃、女子供に手を出すんだ。―いいか、馬鹿野郎、手が出りゃ上等ってもんじゃあねぇぞ。このシャツなんざぁ、脇から手が出て、上から首まで出るんだ。ザマーみやがれっ」

倒されたお婆さんが思わず「いい啖呵だねえ」と呟くのがいい。まるで「大工調べ」のよう。
この話は左近先輩の娘の万引き事件がメインストーリー。
でも、熱帯魚を迂闊にも殺してしまった千秋さんが、路上で正義感を発揮して、その後、三色アイスを食べ、最後は岡部兄弟の家を訪れるという一連のサイドストーリーのほうが僕は気に入っている。


全体的に、コミカルだけど、それだけじゃない。
北村薫さんが温かいまなざしと冷静な瞳で、物語を見つけているのがわかる。

何度読んでもやっぱりいいなあ。