勤め先の二階にある「名探偵・巫弓彦」の事務所。
わたし、姫宮あゆみが見かける巫は、ビア・ガーデンのボーイをしながら、コンビニエンス・ストアで働き、新聞配達をしていた。
名探偵といえども、事件がないときには働かなければ、食べていけないらしい。
そんな彼の記録者に志願したわたしだったが…。
真実が見えてしまう名探偵・巫弓彦と記録者であるわたしが出逢う哀しい三つの事件。
今日はとても寒いですね。
東京では、雹まじりの冷たい雨が降っていました。
雪になっても、ちっともおかしくないような。
それくらい寒かったです。
というわけで、冬の一冊。北村薫さんの「冬のオペラ」です。
名探偵というのは……なんて哀しい存在なんだろう、と思います。
あ、探偵ではなくて、“名”探偵ですよ。
真実が見えていなかったときは自分を包む世界がとても暖かなものに見えていたのに、ちゃんとモノが見えるようになったら、世界が一変してしまったチャーリイ・ゴードンのように。
真実が見えるということは、とてもつらく悲しいことなんですね。
と思ってしまうくらい、本作に登場する巫弓彦は、“名”探偵なのです。
名探偵、巫弓彦、初登場の巻である「三角の水」で、彼はこう言います。
「名探偵はなるのではない。ある時に自分がそうであることに気づくのです。いいですか、そのまま頬被りして、死ぬまで、平穏な一般人としての道を歩むことも出来る――」
巫さんは自分が名探偵であることに気づいた以上、それを頬被りして生きていくことができなかった人なのですね。
真実を見過ごすことができないという、名探偵たる資質の持ち主なのですから当り前といえばそうなんでしょうけど。
また、こんな会話もあります。
「《名探偵》というのは、行為や結果ではないのですか」
巫弓彦は、背筋を伸ばしたまま答えた。
「いや、存在であり意志です」
普通だったら屁理屈にしか聞こえないでしょう。
真面目な顔をしてこんなことを言う巫も面白いですけど、それをまじめに受け止めるあゆみちゃんだってちょっと変わり者ですよね。
巫探偵に感化されたあゆみちゃんは、こんな風に言って彼をかばったりもします。
「――向こうが、やるだけのことをやったんですから、当然じゃありませんか。お金を払わないで、ものを貰うのが乞食、ものを盗るのが泥棒だと、父や母に教わりました」
この瞬間、名探偵とかわいらしい助手のコンビが誕生したんじゃないかなあ。
※さて、ここからはちょっとねたばらしの感想です。
第二話「蘭と韋駄天」は、一作目に続いてちょっと被害者も犯人も不快感が漂う人で…あまり気分が良くないですねえ。
それだけに「返すのは静岡のお宅の庭に決まっているでしょう」という一言は痛快ですよね。
さて、ニコライ堂を利用したトリックですが、東京の人じゃないとチンプンカンプンで面白くないんじゃないでしょうか。
僕は関東の人間ですけど、それでもやっぱり大して出来が良いとは思えませんもの。
唯一、好感が持てる登場人物である椿さん。
あゆみちゃんならずとも、巫さんと椿さんはどうかなあ、って思いますよね。
これが三作目につながるプロローグになっているとは思いませんでした。
その三作目は表題にもなっている「冬のオペラ」。
あゆみちゃんが「気分が悪くなる」と言った悪魔の所業。
殺されて当然なんて乱暴なことは考えません。
逆に椿さんのような人がこんなヤツのために人生を曲げて欲しくなかったなあ、とそれだけが寂しく思います。
けれど、巫名探偵はこんな言葉を口にします。
「人を殺したからではない。かくありたかった、こんな筈ではなかったという思いに執着し、そこで足摺りをし、悶えたからです。そういう意味では、人は多くの場合、鬼になるのではありませんか」
これは厳しい。厳しすぎる。
人は誰でも何かに執着し、こうありたいと思うのではないか。
それを夢とか愛とか呼ぶのではないか。
そしてそれがすでに壊れさった後も、しがみついてしまうものなのではないか。
「デュマ・フィスの原作ではマルグリット・ゴーチエと名付けられ、ヴェルディによってオペラ化された舞台ではヴィオレッタ・ヴァレリーと呼ばれた。スカラ座で、オペラ座で、そしてメトロポリタン歌劇場で、世界を代表するプリマドンナ達が演じ続けて来たその人こそ――」
巫先生の後ろから見える頭は、一瞬下を向き、それから天を見上げた。
「椿姫」
声は、水色の空に吸われた。
僕はダイイングメッセージというものが好きではありません。
よくある「トリックのためのトリック」はまったく意味がないと思っています。
だけれど、このダイイングメッセージにはやられました。
これは凄惨たる殺人事件の話なのだ、ということを忘れてしまうくらい美しいです。
ここで描かれている水色が、どれほど悲しい色をしていたか、目に見えるような気すらしますね。