昔の歌を聞いていると青春時代を思い出します。

そんな中から芹洋子さんが歌った「坊がつる讃歌」について調べてみました。

 

 

原曲「坊がつる賛歌」は、1952年(昭和27年)に大分県竹田市の九州大学の学生3人によって、 広島高等師範学校の「山男の歌」をベースに作られました。

初めて、坊がつる讃歌を聞いたのはNHKラジオだったと記憶しています。

もともと、九州地方でキャンパー達に歌われていた歌を芹洋子さんが見出してレコーデイングしたと・・・

 

 

 

元歌は広島の高等師範学校山岳部で歌われていた山男の歌

 

 

その後、替え歌(原曲)として大分県などで広がり、坊がつる賛歌と名付けられました

 

 

元歌  山男の歌  (1940)

原曲  坊がつる賛歌(1952)

芹洋子 坊がつる讃歌(1978)

 

こんな方も歌っています。

 

春日八郎

 

 

さとう宗幸

 

 

ボニージャックス

 

 

緑咲香澄(合成音声)

 

 

坊がつる賛歌誕生物語

広島高師「山男の歌」は、全国から広島に集まった教師志望の学生の間で歌われ、やがて、高師卒業とともに全国の中等学校(旧制)に拡散していきました。
そうしたルートの中から、「坊がつる賛歌」が生まれることになります。
まず、広島高師を卒業(昭和17年卒)した葱花勲(ぎぼう・いさお)が、大分県立日田中学校(旧制中学校)に赴任します。葱花は同校で山岳部顧問になり、広島で覚えた「山男の歌」をみんなに教えました。
そこに梅木秀徳が入学(入部)してきて、今度は梅木が「山男の歌」を覚えました。戦後間もなくの頃で、旧制中学から新制高校に変わっていました。
梅木が覚えた「山男の歌」をベースにして、坊がつる(大分県竹田市)にある山小屋(あせび小屋)で、九州大学の学生3名によって替え歌の「坊がつる賛歌」が作られました。1952年7月(昭和27)のことです。
あせび小屋は九州山小屋の会所有であり、九州大学の学生3名はいずれも同会に所属していました。「坊がつる賛歌」を作った時は3人で小屋番をしており、雨続きで登山客が途切れたため、暇に任せて作った歌の一つが「坊がつる賛歌」だったのです。

♪ 「広島高師 山男の歌」 - 思い出の中のあの歌この曲 (hatenadiary.com)

 

3人が作った替え歌は、同年12月発行のしんつくし山岳会会報に発表され、翌年には『山と渓谷』誌上でも紹介されました。

『坊がつる讃歌』は、メロディがわからなかったため、歌われることはありませんでした。

昭和29年(1954)になって、しんつくし山岳会会員の野田広一郎が『坊がつる讃歌』の本歌を捜し当て、譜面とともに発表しました。

この歌は、九州の山男や山女たちの間に瞬く間に広まりましたが、全国に知られることはありませんでした。

昭和52年(1977)夏、阿蘇山麓で野外コンサートが開かれ、歌手の芹洋子も参加しました。
夜、芹のテントにギターを持った若者たちが遊びにきて、『坊がつる讃歌』を歌い、コンサートで歌ってみたらと勧めました。

そのときの譜面には、作詞:松本征夫、梅木秀徳、草野一人の名だけが記され、作曲者は不明になっていたそうです。

芹はこの歌が非常に気に入ったことから、同年、NHK「みんなの歌」として放送されて、大ヒットしました。

「みんなの歌」では、歌詞の一部を一般向きに変え、4番までの歌として放送されました。

 

坊がつる讃歌: 二木紘三のうた物語 (air-nifty.com)