東海村立図書館で、DVDを借りて来たなり。
「二億四千万の瞳」・・・、じゃなくて、「二十四の瞳」は、原作は壺井栄の小説で、木下恵介が監督の作品であり、1954年度キネマ旬報ベスト・テン1位になっていますね。
(因みに、現在(2026年(令和8年)1月1日)、日本の総人口は、1億2295万人なり。)
まぁ、丁度、私が生まれる20年前の作品で、主役の高峰秀子も初見の女優ですが、映画史上に残る不朽の名作を鑑賞出来て、取り敢えず良かったなり。
昔の人は、この映画を観て滂沱の状態になっていた様ですねぇ、戦争や貧困や人情に対する感受性が私の世代とは異なるんでしょうねぇ。
まぁ、私もこの映画を観賞して、斯く申し上げるに、号泣まではしないにせよ、少し涙腺が・・・、まぁ、そういう事ですね。
映画の内容は、瀬戸内海に浮かぶ小豆島を舞台に、昭和の初期から戦後までを描いた物語で、大石先生(高峰秀子)と12人の純真無垢な子供たちが、貧困や戦争の中で傷付きながらも成長していく姿が描かれていますね。
映画の中では、子供たちが唱歌を合唱するシーンの歌唱力の素晴らしさに甚く感動したりするのですが、二十四の瞳を持つ少年少女たちは、現地で募集した兄弟姉妹たちであり、分教場時代を弟妹が、本校時代を兄姉が、それぞれ演じている、との事です。
高峰秀子の演技の巧さは然る事ながら、素人の子供たちの演技の巧さ、そして、歌唱が素晴らしく、誰でも知っている童謡が心に染みるんだよなぁ。(映画上、使われている唱歌は、「赤とんぼ」、「仰げば尊し」、「浜辺の歌」、その他。)
又、映画上、小豆島の静謐で美しい背景と倹しい島民の生活の中で、幸福である為には何が大切なのか、深く思慮させられますねぇ。
そして、映画の最後の方の故人を偲ぶシーン等は、無辜の民が国家の体制に巻き込まれて夭折する事を鑑みるに、日本国民として甚く心痛しますね。
映画上、特に印象に残るシーンを言うなら、少年たちの将来の夢が軍人になる事であり、それに対して大石先生が生徒に死んで欲しくないから軍人はあまり好きでは無い、という発言をしただけで、それはアカと噂される危険な発言だと、校長先生から諌められるシーンですね。
当時は、国語教育から何から何まで、国家が国民を洗脳していた訳で、僅少な反戦の文章や発言だけでも、厳しく取り締まられる時代でもあった訳ですね。
まぁ、小林多喜二が「蟹工船」という小説を執筆した為に、拷問虐殺されたりする訳で、国家や支配者の恐ろしさ、逆らう事が出来ない国民の不条理が、映画を通して分かってきますね。
(因みに、映画上、使用されている「アカ」という言葉は、社会主義者、乃至、左翼を意味し、明治・大正時代から使われている。共産党旗の赤旗に因んで、党員やシンパを「アカ」と呼んだ、との事。)
しかし、現代で言うなら、支配のアーキテクチャーは、ますます巨大で複雑になっている訳で、畢竟、世界が良い方向に進む為には国民の平和への意識が重要な訳で、「二十四の瞳」という作品のメッセージ性は、常に心に銘記しておくべきだと思いますね。
映画の中でも、大石先生の生徒だった少年たちの多くは、大東亜戦争(太平洋戦争)によって亡くなっている訳で、満州事変、日中戦争と日本が猪突猛進する中で、国民は何処かで歯止めをする事が出来なかったのか、という世界的な平和に関わる問題があった訳ですね。
こうした史実は現代でも、須く全てに於いて教訓にすべきで、国家や支配者側は悪事を行う側であり、それに対して国民が正義の意識で抗する事の重要性を忘れてはいけない、と思いますね。
以下、満州事変について、引用しながら説明しますね。(引用元、百科事典マイペディア)
1931年9月18日柳条湖事件から起こった日本の満州(中国東北)侵略戦争。
政府は不拡大方針をとったが現地軍が独走、翌1932年1月までにほぼ東三省を占領、3月1日満州国の建国を宣言した。
9月斉藤実内閣は日満議定書に調印して満州国を承認。
現地軍は1932年7月~1933年3月熱河省も占領、国民政府も既成事実を黙認した。
国際連盟はリットン調査団を派遣し日本の撤兵を要求したが、日本は拒否、1933年国際連盟を脱退した。
次に、以下、日中戦争について、引用しながら説明しますね。(引用元、百科事典マイペディア)
日華事変、支那事変とも。1937年7月7日の盧溝橋事件に始まる日本と中国との戦争。
日本政府は宣戦を布告しなかったが、大本営を設け国家総動員法を発令、新体制運動を起こし総力戦となった。
1941年対米英蘭開戦以降は太平洋戦争、第二次世界大戦の一部となる。
当初日本は局地解決、不拡大を声明したが、1937年末までに北京、天津、上海、南京を占領、国民政府は重慶に移転。
1938年近衛声明で和平の道を閉ざし、徐州、広東、武漢三鎮を攻略。
ここで和平方針をとり、汪兆銘政権を南京に立てたが全面解決に至らなかった。
1939年海南島、南寧占領、1940年北部仏印に進駐、重慶包囲作戦をとったが、中国民衆の抗日運動が激しく、八路軍のゲリラに悩まされて点と線しか支配できず、1943年ガダルカナル戦の敗戦とともに重慶攻略作戦も放棄。
1945年ポツダム宣言受諾により在中国日本軍は国民政府に降伏した。
そして、以下、太平洋戦争(日本)について、引用しながら説明しますね。(引用元、百科事典マイペディア)
1941年12月8日から1945年8月15日、日本が米・英・中などの連合国との間に戦った戦争。
戦時中の日本では大東亜戦争と公称、戦後は太平洋戦争と呼ばれてきたが、中国・東南アジアを含む戦争を念頭に1980年代後半から<アジア太平洋戦争>という呼称も用いられる。
満州事変、日中戦争など中国に対する侵略戦争と、国際的なファシズム体制の強化は、帝国主義勢力に対する民族解放闘争、帝国主義国家間の闘争、民主主義国家とファシズム国家との対立などを深めた。
1939年第2次世界大戦が起こると日・独・伊は結束を強め、1940年日独伊三国同盟を結び日本では対米英戦が目標とされた。
米国は連合国側に接近し、日本の南進政策を阻止する態度を明らかにした。
資源確保を急ぐ日本は1940年9月北部仏印進駐により南進政策を明確化した。
1941年4月から日米会談が開始されたが、これは陸軍部内にまだ強かった対ソ戦企図と、日中戦争の収拾、対英米戦の3者を選ぶための時間かせぎにすぎなかった。
同年7月日本軍は南部仏印に進み、軍事基地の強化に着手、米国の態度は硬化した。
日本政府は9月御前会議で対英・米・オランダ戦争の期日を決定し、米国も日本側からの攻撃を待ち、参戦の名義を得ようとした。
10月東条英機内閣成立、12月8日真珠湾攻撃、マレー半島上陸で戦争は開始された。
開戦後約5ヶ月間に、日本軍は香港、マレー半島、フィリピン、ジャワ、ビルマ(ミャンマー)の各地を占領。
これらの地域の豊かな資源によって長期戦争の態勢ができたと日本政府は強調した。
しかし、1942年6月ミッドウェー海戦を端緒に連合国側の反撃は進み、ソロモン諸島の日本軍は延びきった輸送線を断たれて苦戦。
1943年2月ガダルカナル島からの撤退をはじめ、日本軍は各地で敗退した。
1944年サイパン島失陥は支配層に打撃を与え、東条内閣は総辞職した。
その後フィリピンが連合国軍の攻撃にさらされ、日本本土がサイパン島を基地とする米空軍の空襲を受け、1945年に入って硫黄島が陥落し、4月米軍は沖縄に上陸するに至った。
鈴木貫太郎内閣は終戦をその使命として与えられたが、有効な手を打たぬうちにポツダム宣言が発表され、広島・長崎へ原爆が投下された。
さらにソ連が参戦し、内閣はようやく宣言受諾を決意、8月15日これを公表した。
降伏文書調印は同年9月2日東京湾に入った米国戦艦ミズーリ号上で連合軍最高司令官マッカーサーと日本側外相重光葵との間になされた。
(2026/1/29)